ニワトリ

 幸い、骨に異常はなかったらしい。だが斑点のように残ったアザを触ると、まだ鈍い痛みが走る。


 どこにだって行くことができた。

 あの陰気な路地で最初に世界を飛んでから、それまで一本道だった俺の人生は、いくつかの世界が交錯するものに変わってしまった。だから、どの世界に飛んだとしても、もはやどれが本当の俺の世界だとも言えない。わざわざ蹴られた脇腹をさすって生きることを選ぶ必要はないはずだった。

 だが、俺は戻って来た。あの日、汚れたポリバケツに口づけをした世界に。

 ただでさえ何も持たない俺が、産まれてから長い時間を生きた世界さえも捨てたら、本当に何も残らない気がした。時々吹いてくる風に、ころころと転がるだけの煙草の吸い殻。そんなシケた生活でも、やはりこれが俺の世界なのだ。


 コンビニで買った唐揚げ弁当とカップラーメン、それから五百ミリの缶ビール二本。正確にはビールではない。ビールの紛い物だ。飲み屋に寄らず帰った日は、これが晩飯の定番。飽きることはない。代わり映えのしない物への寛容さこそ、俺の取り柄だ。

 興味もないバラエティ番組を垂れ流しながら、アプリで検索した世界を眺める。目的はない。今の俺とよく似ていたり、まるで違ったりする人生が次々に現れるのを流し見て、やがて飽きて止める。買いもしない車のカタログをだらだら眺めるのと同じだ。欲しい車が見つかっても、先立つ物がなく諦めてしまうように、魅力的な世界を見つけても、今の俺には簡単に世界を取り替える覚悟はない。


 何日かは、喪失感で潰れてしまいそうだった。わずか一日にも満たない入れ替わりだったが、記憶を丸々移植した俺にとっては、ずっと一つ屋根の下で暮らしてきた家族をまとめて失ったのだ。

 だが、それも数日のことだった。アプリの「調整」が作用したのか、佐和子や二人の子供たちの記憶も、靄がかかったように曖昧になってしまった。美和と亮太。二人の名前だけは忘れたくないと思うが、いずれはそれも消えてしまうのだろう。

 このアプリの「調整」はあまりに強烈で、俺はすっかり世界を飛ぶことに対して及び腰になってしまった。似た世界に飛ぶだけであれば影響もたかが知れているだろうが、まるっきり別の人生に入り込み、また同じような喪失を何度も繰り返して、正気を保っていられる自信はない。

 そんな感情の変化もあり、しばらくの間は思い切った使用を控えるつもりだ。この世界に戻った直後は当て付けにアプリ自体を削除することも考えたが、そこまで極端になる必要もないだろうと思いとどまった。


 テレビでは、世界の辺境で活躍する日本人の逸話にタレントが涙を拭っている。こんな僻地で汗水垂らす仕事はさぞ立派に違いないが、もし自由に世界が選べるとしたら、こいつらはそれでも同じ仕事を選ぶのだろうか。

 二本目のビールに手を掛けた瞬間、背後に何かの気配を感じた。

「よほど陰気な生活が好きみたいね」

 ……幻聴か? ここは俺の部屋だ。鍵の掛かった密室で、孤独に晩酌をする俺に、一体どこの誰が話し掛けているのだ。

 そう瞬間的には驚いたものの、こんなでたらめをやってのけるのは、俺の知る限り、一人しかいない。

「暖かい家族はお気に召さなかったかしら」

「ノックぐらいしたらどうだ」

 振り返ると、相変わらずの仏頂面が俺を見下ろしている。窓もカーテンも閉まっている。どこから現れたのか知らないが、靴も履いたままだ。

「人の家に土足で上がり込んで、よほどの用事なんだろうな。下らない用で呼び出すなと言ったのはそっちだぞ」

 女は答えず、俺の横に座り込む。靴を脱ぐ気はないらしい。

「あんた、何がしたいの?」

「それは、こっちの台詞だろう」

 身勝手な登場と唐突な問いかけに、俺の声も荒くなる。女はふんと鼻を鳴らし、空のビール缶を手に取って、いかにも興味がなさそうに眺めた。

 猛獣が暴れた後のように散らかり尽くした俺の部屋に、若い女がいる。猛烈な違和感に、幻覚でも見ているのかと錯覚する。前回とずいぶん印象が違って見えるのは、服装の違いだろうか。寝巻きのままコンビニにでも出てきたように薄着だ。一見すれば、部屋でだらだらと酒を飲む恋人同士に見えるかもしれない。一人が薄汚れたスニーカーを履いていることを除けば、だが。

「で、何の用だ」

 女は俺の質問に答えず、蓋が半分開いた缶ビールを見つめている。

「それ、おいしい?」

「まずくはない」

 無言で缶を掴むと、女は餌を待つ鯉のように口を開けて、半分だけの穴からビールを流し込んだ。

「悪魔も酒を飲むんだな」

 女はテレビの画面に焦点の定まらない視線を投げ掛けている。

「で、どうなの、その後は」

「見てるんだろう、全部」

「何が悲しくてあんたを監視するのよ」

「さっき家族がどうとか言ってた気がするが」

 女はまたビールを飲んで、答えた。

「トレースしてるだけよ」

 そう、この女に質問しても謎が増えるだけだった。トレース? どこかに記録された俺の行動を辿っているのか?

「アプリの話だったら、何回か使って、最近は使ってない。たまに検索結果を眺めるくらいだ」

「特に問題はないってことね」

 一体何の用なんだ。勿体ぶった話は嫌いだと言っていなかったか。何しに来たのか、ともう一度聞いてみる。

「言ったでしょ、アフターサービスよ」

「隣に座って酒を飲むようなサービスなら、もう少しにこやかにして欲しいな」

 精一杯の嫌味に、女は無言と無表情の合わせ技で答える。

「……それで、問題なくやってることがわかって、用は済んだのか?」

 女は視線を動かさず、そうね、とだけ答える。

 どうも様子がおかしい。無愛想と悪態は変わらずだが、満ち満ちていた覇気のようなものが、すっかり抜けてしまっている。ただの疲れた若い女にしか見えない。

 俺は興味本位で深入りしてみることにした。

「酒もなくなったし、コンビニでも行くか。ちょっと付き合えよ」

「何で? わたしが?」

「どうせ暇なんだろう」

 またカウンターパンチが返ってくるかと思ったら、あっけないほど素直に立ち上がった。思わぬ反応にまごつく俺を押しのけて、女は玄関に向かった。

「何やってんの、行くんでしょ」

 主導権を握って色々と聞き出すつもりだったが、やはり一筋縄ではいかないらしい。


 おかしな状況だ。はたから見れば、別れ話でも切り出したカップルが気まずく歩いている光景にしか見えないだろう。しかし実際は、人間ではない正体不明の何者かと、並んでコンビニにビールを買いに行くところなのだ。

 女は伏し目がちに歩いている。何を考えているのか知らないが、その頭の中にいるのは、グロテスクな怪物か、あるいは複雑に入り組んだ機械の回路なのか。

「酒を飲んだのは初めてか?」

 心なしか、女の足取りが覚束なく見える。

「妙な気分ね。思考が浮ついて、まとまらない」

「人間じゃなくても、酔っ払うんだな」

「体は人間よ」

「人間は空を飛ばないぞ」

「基本的には全てそのまま利用してるわ。それ以上の力は、一つ上のレイヤーから持ってきてるだけ」

 ふいに現れた横文字から、俺は仮想空間を飛び交う電子の幽霊を想像する。ネットワーク上を自由に行き来して、人格を消去した人間に取り憑く。脳の働きだって、つまるところ電気信号だろう。やり方さえわかっていれば、操るのは容易いのかもしれない。しかし、いくら本体がバーチャルな存在だとしても、果たして何もない空間から滝を取り出せるものだろうか。

「普段からその姿なのか?」

「ずっと、これよ。わたしたちにもいろんなタイプがいるけど、人間の世界で活動するのに、わたしはこうやって人間に溶け込むやり方を選んでるだけ」

「泥臭い挨拶回りで稼ぐタイプだな」

「稼げてたら今頃こんなとこにいないわよ」

 やはり何か抱えているようだ。人間の不幸を集めていると言っていたが、成果が芳しくないのだろうか。

「俺の不幸に買い手は付いたか?」

「さあ、どうでしょうね。それはわたしの仕事じゃないから。けど、わたしの契約は、あんたが最後で、それっきり」

「悪魔の世界も大変なんだな」

 女は自嘲めいた笑みを浮かべる。

 ふと、俺はその寂しげな表情に触れたくなる。両手を差し出し、その顔から零れ落ちる物を掬い上げてみたくなる。

 ……駄目だ。自分で思うよりもずっと、まだ佐和子との別れを引きずっているのかもしれない。

「このまま、人間として生きたらどうだ?」

 俺の提案に、女の笑いが声となって漏れる。初めて表に出した、心からの笑顔に見えて、俺は少しだけ安心する。

「あんた、もし自分が漫画の世界に入れたら、そのままそこで暮らしたいと思う?」

「居心地がよければ、それもいいんじゃないかな」

 女はさも可笑しそうに表情を緩めている。

「そんなにおかしいか」

「だって、ペラペラよ」

「ペラペラ?」

 女はくすくすと笑ったまま、そこで話を止めてしまった。

 漫画の世界は平面だから、ペラペラになるという意味だろうか。だが、そういう形状の話ではないだろう。漫画の中には、漫画の世界が広がっているという前提の話ではないのか?

 まったく、人智を超えた存在のユーモアは難しい。

「人間の姿をしてるくせに、人間になるのには抵抗があるんだな」

「まあ、でも、ずっとここにいると、少しずつ慣れてくるわ。行動も、思考も、人間に近づいてくる。完全に同化するのは不可能だけど」

「そっちの世界での仕事が上手くいってないんだろう?」

 神経を逆撫でしないよう、なるべく穏やかに聞く。

 しかし女は拍子抜けするほど淡々と答えた。

「まあね。わたしがどれだけ足掻いても、上の判断はさっぱりしたものよ」

 女の置かれている状況は思ったより深刻なのかもしれない。返す言葉が見つからず口ごもっていると、女がそのまま引き継いだ。

「そういや、あんた、宝くじがどうとか言ってたわね。もう義理立ても無意味だし、答えるわよ。何が知りたいんだっけ」

 急に捨て鉢に歩み寄られてもすっきりしないが、実際のところ、聞きたいことだらけだ。むしろ、はっきりしていることなどあったろうか。

「そうだな。じゃあまずは、宝くじとか、福引きとか、そういう無作為な出来事で世界は分岐しないのかを知りたい」

 女は俺の目を見て、「あんた、ほんと変わってるわ」と言った。

「普通はね、もっとめちゃくちゃやるものよ。大きな力で、欲望を実現させる。金欲、性欲を筆頭に、物欲、支配欲、自己顕示欲、それから暴力、殺人、抑圧された欲求のオンパレードよ。商店街の福引きでちまちま悩んでる人間はあんたぐらいね」

 減らず口が戻ってきた。しかし口調は穏やかだ。

「人間の世界がめちゃくちゃになったらまずいんじゃなかったか?」

「そのくらい、よくあることでしょ。無差別に人を殺しまくった後で、どうしてやったのか覚えてない、なんて聞き飽きた台詞じゃない」

「そういう殺人鬼はこのアプリを使ってたってことか?」

「例え話よ」

 ひと気のない通りを、冷たい夜風が吹き抜ける。季節を勘違いしたような薄着で平気なのかと思うが、寒さを感じている素振りはない。

「で、答えはどうなんだ」

「実際には分岐してるわ。ほぼ無限に増え続けてると言っていい」

「だったらこのアプリはそれを隠してるのか」

「隠してるんじゃなくて、隠れてるだけ。元々そういう風にできてるの。そのアプリはね、人間の意思決定で分岐した世界しかトレースしてないのよ」

 意思決定……、そういうことか。トレースという言葉の意味がはっきりしないが、俺の意思とは無関係に偶然分岐した世界は表示されていないということだ。確かに、それなら福引きや宝くじの結果で分岐せず、飲み屋を選んだりカレーを買ったりする判断で分岐していた説明がつく。

「例えば、俺が宝くじを買う時にサイコロではなく自分で考えて決めていたら、結果は分岐していたということか?」

「その辺はちょっと微妙ね。それが意思決定かどうかを判断している……人間の世界でいうプログラムみたいな物があるの。人間がちゃんと考えて判断した結果なのか、というのがジャッジされる。宝くじの数字は……、どっちだろうね、状況にもよるわ」

「つまり、俺がこうすると決めて何かを選んだ時、その選択肢の数だけ分岐してるってことだな」

「分岐してるというか、その選択肢しかトレースしてないだけ」

「俺以外の人間による意思決定も、その……トレースされているのか?」

「そのアプリでは、あんただけよ。言ったでしょ、主体であるあんたに紐付いてるって」

「主体ってのは、俺の意識のことか?」

「主体、意識、精神、魂、何でもいいわよ。人間の言葉でぴったり当てはまる物はないから」

 少しずつ疑問が氷解し始めた。宝くじの結果はこれですっきりと諦めがつきそうだが、まだ肝心な部分が引っ掛かる。

「なんでまた、そんな仕様になってるんだ? 使う人間のためじゃないんだろう」

「追い切れないくらい、世界は膨大に分岐し続けてるの。その中から、目的に合わせて限られた世界をトレースするしか、現実的な方法はないのよ」

「だからその目的が何かと聞いてるんだ」

 女は、追う、と言ったし、目的がある、とも言った。何かの「目的」があって、増え続ける世界を「追う」必要があるのだ。

 女はしばらく黙っていたが、やがてぼそりと言った。

「あんたたちは、漫画を読むニワトリなのよ」


 ……なんだって?

 聞き返す前に、俺たちはコンビニに到着し、話はそこで一旦中断された。

 女は、ビールの借りはいつか返す、と言って、足早に消えた。


 俺は半ば呆けたように女の消えた後の闇を見つめていた。

 漫画を読むニワトリ、そう聞こえた気がする。人間がニワトリ? それも漫画を読んでいる……。無理だ。まるで理解できない。

 少し前進したかと思うと、砂に隠れた地雷を踏むように新たな謎が顔を出す。その地雷が俺の体を吹き飛ばさないことを、今は静かに祈るしかない。



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