第3話 『楽』と『怒』

 それから数日は、猫が加わったものの、さしたる変化は見られなかった。

 ただ、カインとてさほど焦っているわけでもない。促してなんとかなるなら、とっくにそうしている。

 まずは本業の医者として働きつつ、合間を縫ってスケッチに色を乗せていく。

 リンナには特にさせるべきことがなかったので、診療時間中は、とりあえず診察室の隅に座らせておいた。

 ある時、一人の中年患者が、リンナとカインを見比べながら言った。

「先生も、ほとほと変わり者だねえ。人造人間ごときを家族にするなんて」

 呆れたような彼だったが、カインは全く気にしなかった。

「恋人と同棲することが、そんなに変ですか?」

「あ、いや、そう言われりゃあ、おかしかぁねえですけど、人造人間ですぜ?」

「僕には関係ないことです」

「へ、へえ、さようで」

 涼やかに断言すると、その患者も、もはや何も言わなくなった。

 そして、週に一度の休診日。休みの日にカインがやることは、ほぼ決まっていた。すなわち、趣味の絵画に没頭することだ。

 ただし、その日はなんとなく気が乗らなかった。いかに趣味とて、やる気のない時に無理をする道理はない。

「リンナ、お茶にしようか」

「はい、マスター」

 猫を抱いたリンナが、少し微笑みつつ返す。

 台所。二人分の紅茶を淹れ、猫にもおやつを上げつつ、二人と一匹のなんでもない時間が過ぎる。

 カインの方から特に話題は振らなかったのだが、ともに紅茶を飲んでいたリンナが、美味しそうにおやつを食べている猫を見て言った。

「マスター。そう言えばこの子、まだ名前がないですよね」

「うん? 言われてみればそうだな」

 別の方向で、カインはまだ少し驚いた。

「自発的な思いやりの感情」

 からしか出てこない言葉を、リンナが言ったからだ。

 やはりと言うべきか、リンナの「元の頭部」を持っていた少女は、とても心優しかったようだ。

 さておき、猫の名前がまだ決まっていない。カインも考えるのだが、どうにもしっくり来るものが浮かばなかった。

「リンナは、どんな名前がいいと思う?」

「そうですね……」

 少し思案するリンナだったが、やがて、なにか思いついたようだった。

「ヘミング、などはどうでしょう? この子、オスですし」

「ふむ、響きもいいし、なかなか立派な名前だね。お前はどう思う?」

 おやつを平らげきった猫に聞いてみると、

「なーお」

 と満足気に鳴いた。

「じゃあ、いいのかい? ヘミング」

「なぁーお」

 気に入った、と言わんばかりに鳴く声。どうやら、決まりらしい。

「じゃあ、今後ともよろしくね、ヘミング」

「にゃあ!」

 リンナの呼びかけに、ヘミングは返事をした。

 決まるべきものが決まり、一息つく。

 その後は、まさしく、

「なんでもない時間」

 だけが流れた。

 カインは楽しかった。同時に、リンナがこのひとときをどう思っているかも、とても気になった。

「こういう時間を過ごすのは初めてだけど、リンナは今、どういう気分だい?」

 するとリンナは、膝の上でヘミングを撫でながら、優しい笑みを浮かべた。

「とても、穏やかな気分です。特に何があるわけでもないのは分かっているのですが」

「そうか。それはいいことだよ」

 カインは、机の下でぐっと握りこぶしを作った。

 三つ目だ。すなわち、喜怒哀楽のうちの「楽」が蘇ったに違いない。

 もう少しで「土台」ができる。子どもを育てる父親の気分とは、こんなものかもな、などともカインは思った。

 それからさらに数日後。村である事件が発生した。

 とは言え、驚天動地の、と言う程のものではない。

 それは、強盗放火事件だった。たまたまカインの馴染みの患者だった男性の家が、盗みに入られ、金目の物をすべて奪われた上に火をつけられたのだ。

 すぐに村の自警団がやってきたが、火事が消し止められたころには完全に家は焼け落ち、骨組みしか残っていなかった。

 わざわざ事件現場を見に行くほどカインは下世話ではないが、その火事で大やけどを負った一家が、すぐさま運ばれてきた。夫婦と、まだ幼い子供だった。

「大丈夫。この程度なら、すぐに治りますよ」

「ありがとうごぜえます、先生……うぐぐ……」

 夫の方に感謝されながら、カインは全力で治療にあたった。

 三人が完全に回復するまでにかかった時間は、一時間にも満たなかった。ひとえに、カインの腕である。

「ありがとうごぜえます、ありがとうごぜえます。先生。しかし、治療代が」

 困り果てる一家の言葉を、カインは優しく遮った。

「いいですよ、そんなもの。大変な目に遭われた方から無理矢理むしり取るほど、僕だって冷徹ではありません」

「ほんにありがとうごぜえます。この御恩は忘れません。いつになるかは分かりませんが、いずれ必ず」

「お気になさらず。お大事に」

 そのひとしきりを終えて、カインはふと、視線を感じた。診察室の隅に座らせている、リンナだった。

 その顔は、明らかに不機嫌だった。いや、違う。正しくは、

「酷いことをする人がいるものですね、マスター」

 怒りの声だった。はっきりと、リンナは怒っていた。

 不謹慎なのは百も承知で、カインは、

「とうとうか!」

 と思った。これで、四つの感情の全てが蘇ったことになる。

 ただ、愛しい恋人の不機嫌な顔を、あまり見たくはないのも確かだった。

「リンナ、深呼吸をしてみよう。確かに不幸な事件だったが、残念ながら、世の中には、こういう悪いやつもいるものなんだよ」

「はい。理解はできますが、納得はできません」

「いいから落ち着こう。はい、吸って、吐いて」

「すうう……はああ……」

 言われるまま、深呼吸を繰り返すリンナ。足元にいたヘミングが、ぴょんっと彼女の膝に乗り、

「なーお」

 と鳴きながら、頬を擦り付けていた。どう見ても、慰めているようにしか見えない光景だった。

「ふう、ありがとう、ヘミング。もう大丈夫よ」

「なー」

 少しは落ち着いたのか、愛おしそうにヘミングの頭をなで、小さく微笑むリンナだった。

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