第2話 『喜』と『哀』

 そして、その最初の兆候は、予想外に早く訪れた。

 二人が、かなりの広さを誇る、一面のレンゲ畑に差し掛かったときだった。

「見てごらん、リンナ。レンゲがこんなにも満開だよ。どう思う?」

 カインの問いに、リンナは初め、無言だった。

 だが、じっとその風景を見つめているうち、ぽそり、と唇が動いた。

「きれい……」

 初めて、リンナの顔に変化が現れた。人が美しいモノを見た時に、感激して笑みを浮かべるそれだった。

「そう、きれいだろう? リンナは今、どういう気持ちかな?」

 気持ちがはやるのを抑えつつ、カインは聞いた。

 リンナの瞳が次第に見開かれてゆき、もう一度、一面のレンゲ畑を眺める。

 そして、言った。

「嬉しさが、こみ上げてきます。胸が、とても暖かいです」

「そうか、そうか。そうだよね」

 満足気に、うんうんとうなずくカイン。

 確かにリンナは、

「嬉しい」

 と言った。「喜び」の感情が芽生えたらしい。

「おいで、リンナ」

「あっ?」

 はやる気持ちで、カインはリンナの手を引き、花畑の中に入った。

「そこに座ってて。いいものをあげよう」

「なんですか、マスター?」

「まあまあ、見てのお楽しみだよ」

 カインは、いそいそとレンゲを摘み、慣れた手付きで、その花で冠を作った。

「ほら、これをあげよう」

 そっと、出来上がった冠をリンナの頭に載せる。

「うん、綺麗だ。じゃあリンナ、そのまま、そこで動かないでいてくれるかな?」

「は、はい」

 命令に従い、品のある仕草でリンナが地面に座る。カインは彼女と少し距離を取ると、スケッチブックと木炭を手にした。

 目の前にいる「恋人」の姿を、それこそ慣れた手付きでスケッチしていく。

 カインの趣味は、水彩画を描くことである。

 その腕は玄人はだしで、仕事の合間に描き溜めた絵は、診察室に飾っている。時には治療ではなく、その絵を買い求めに来る人間も少なくはない。

「よし、こんなものかな?」

 やがて、リンナの姿が写し取られた。絵の具を乗せる前のラフスケッチだが、画商が見ればその時点でも値段をつけるような出来栄えだ。

「見てくれるかい? リンナ」

「はい。うわあ……」

 感嘆に、リンナの目が見開かれる。

「暇を見つけて、完成品にするよ。出来上がったら、また見せるからね」

「はい、マスター。ありがとうございます」

 はっきりと「喜び」の感情を表すリンナに、カインはいたく満足した。

 人間には「喜怒哀楽」がある。四つのうち、一つ。

 ほんの一瞬、「喜び」さえ知っていればそれで十分かとも思ったが、やはり思い直した。

 順番に「目覚めさせて」いって、後はリンナが、

「自分で見て、考える」

 ようになれば、それでゴールだとカインは思っていた。

「じゃあ帰ろうか」

「はい、マスター」

 レンゲの冠を頭に載せたまま、にっこりとリンナが言う。カインの心もまた、喜びに満たされていた。

 物事というのは、ひとたび「キッカケ」さえあれば、その後はおおむね順調に進むものである。二人が家に戻り、玄関の前に来た時だった。

 そこには、一匹のやせ衰えた猫がいた。カインたちを認めるや、文字通りすがるように、あるいは訴えるようにか細く鳴いた。

「大変だ。急いで何か食べさせてあげないと」

 カインは取るものもとりあえず家の鍵を開け、中に入った。

「おいで」

 とその猫に呼びかけると、よろよろと後をついてくる。

 その時だった。

「かわいそうに……」

 ぽつり、とリンナがつぶやいた。

 その猫を見る目は、はっきりと憐れみ、いや哀しみに満ちていた。

 カインもハッとした。さっきの今で、もう二つ目の感情が蘇ったらしい。哀しみの。

 哀しみと憂いに満ちた彼女の顔も、カインは、

「美しい」

 と思った。だが、何よりもまず、この不憫な猫を助けるのが先だ。慌てて台所へ向かい、昨夜の夕食の残り物を持ってきた。猫の前に差し出す。

「そら、お食べ」

 カインの許可を待っていたかのように、猫は勢いよく食べ物に貪りついた。よほど空腹だったのか、人間でも一人前はある量を、その猫は程なくして平らげた。

「んにゃあ」

 やがて満腹になったのか、猫は空になった皿から顔を上げ、カインを見て嬉しそうに鳴いた。お礼であることは、誰でも分かる光景だった。

「あの、マスター」

 そこで不意に、リンナが言った。

「なんだい?」

「この猫、何とかなりませんでしょうか?」

 答えを言うより先に、カインはまたも驚いた。なぜなら、リンナが自発的に質問してきたからだ。彼女が「人間らしく」なるのは、そう遠くないなと確信を持った。

「マスター?」

「あ、ああ。すまない。この子をどうするかだよね? うーん、見たところ、どこかよそで飼われていたらしいな。だがこの痩せようだ。捨てられてしまったんだろう。しょうがない、僕たちが引き取ろう」

「ありがとうございます、マスター」

 安堵にか、リンナがほっと息をつく。そのまま、すっとその手を猫に差し伸べる。

 すると、ぴょんと猫が跳び、彼女の腕の中に抱かれる。

「かわいそうに。でも、もう安心よ」

 猫を柔らかく撫でながら、哀しみと慈愛の表情を浮かべるリンナ。誇張抜きでカインは彼女を、

「聖母のようだ」

 と思った。また、この風景を留めたくなる。

「リンナ? その子を抱いたまま、こっちの椅子に座ってくれるかい?」

「はい、マスター」

 リンナは素直にカインの命を聞いた。やはり品のある仕草で、患者用の椅子に座る。

「よし」

 そしてカインが、再度スケッチブックを広げる。白い紙の上を、すごい速さで木炭が走る。

 時間にして十数分後、

「できた!」

 会心の笑みを浮かべるカインだった。猫を抱き、聖母のような表情を浮かべるリンナの姿が、克明に描かれていた。

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