第22話 妖怪殺しと人間生かし
あぁ、またいつもの夢か。
伊吹は今自分の見ているものが、夢の中の光景であることを察した。いくらか明るくなった深海の底で、鎖に繋がれている夢。自分を繋ぐ重い鎖は、この夢を見始めた当初から1本消え、今は重く長い2本の鎖が残っていた。しかし、それらは厳重に伊吹を縛り付け、解ける気配は無い。
「気分はどうですか、酒呑童子の子よ。貴方の救い手と罪は思い出せましたか?」
その海の底で、唯一自分に話しかけて来る存在。最近は、男なのか女なのか判断のつかない、中性的な声で話しかけるようになっていた。
「全く。そろそろお前も正体を明かせばいいんじゃないか?そうしたら、なにか思い出せるかもしれん」
伊吹は、その存在が答えることは無いと分かっていながらも話した。顔の見えないその存在は、力なく首を振った。
「私から勝手に情報を与えることはできません。私はそういう存在ですから。ただ、そうですね…貴方が記憶を思い出すきっかけを作ることはできます」
「きっかけ?」
「貴方の元いた世界から、貴方がかつて使っていた武器を呼び出します。あれを扱うのはとても難しいでしょうけれど、今の貴方なら使いこなせると信じています」
伊吹が、かつての自分が使っていた武器は何だったかと思い出そうとしていると、その存在は手を天に掲げた。すると、水面が淡く光り、一振りの刀がゆっくりと落ちてくる。
「この刀の銘は『妖怪殺し』。契約者が妖怪と断じたものを何でも斬り殺す妖刀です。その強大な力を封ずるためにある鞘は『人間生かし』と呼ばれ、2つで1対の宝具として貴方の世界に伝わっていました。これを、貴方にお返しします。どうか、貴方の記憶が見つかりますように……」
海で語りかける存在は、刀を手に取ることはなく、ゆっくりと腕を伊吹に向け、納刀された宝具を本来の持ち主の前まで持っていく。
刀と鞘を縛っていた紐が解け、その刀身が顕になろうとした時―伊吹は目を覚ました。
「いーぶーきー!起きて起きて起きて!夏休みだからってお昼まで寝てちゃダメなんだよー!学生なんだから早寝早起き、規則正しい生活しないと!起ーきーてー!!」
自分の布団の上に乗り、ゆさゆさと揺り起こす者の声がする。聞き覚えのない少女の声だ。伊吹は夢から覚めたばかりで未だ働かない頭を稼働させ、ゆっくり起きようとする。
「分かってるから、そこを退け…ん?八束じゃない?うわぁああ誰だお前!!」
彼は目を開けた瞬間、見知らぬ人物が自分の上に馬乗りになっている事実に気づき、驚いて飛び退いた。いきなり下の人間(鬼)が体勢を崩したため、上に乗っていた少女は後ろに転がり頭を床にぶつける。
「いったーい!いきなり動かないでよ伊吹ったらー」
しかし、少女は尚も伊吹の名を呼び文句を言う。黒く長い、床までつく髪をツインテールにし、涼しげで露出の多い服を着ている。その黒い両の瞳には、大きな星のようなハイライトがキラキラと輝いていた。
「お前、夢であいつが話してた俺の武器か…?いやそんな姿じゃなかっただろ。お前みたいな子ども見たことない」
伊吹は必死に心当たりを思い出し、すぐに自分の言葉を否定した。しかし、少女は顔を上げて立ち上がり、大きく頷いた。
「そうだよ!ワタシの名前は【
よく見るとその腹、へその部分には、刀の鍔のような模様の刺青が彫られていた。
「黒瞳…?妖怪殺しの鞘?あいつは『人間生かし』って呼んでたが」
「そんなお堅い名前じゃあ呼びづらいでしょ?黒い目だから『黒瞳』、自分で考えたの!」
「そうかよ…で、肝心の刀はどこにあるんだ」
伊吹が少女の名乗りに疑問の声を上げると、黒瞳はドヤ顔で自分の名前の由来を話した。他人の名前に興味のない伊吹は、すぐに刀の方の在処を尋ねる。
「ワタシの中に保管してあるよ、必要だったらここから出すの」
黒瞳は上着とミニスカートの間から見えるへその部分を指さして言った。見た目の通り、そこが鞘の口にあたるのか、と伊吹は思った。
「そうか…まぁ今は金棒がある上他の妖怪と戦うこともないから、お前の出番は無さそうだがな」
「登場しといてなんだけど、その方がいいよねー。昔は戦乱の世の中だったっぽいけど、今はそういう時代じゃないし?」
「とはいえ、俺の記憶を取り戻すきっかけを与えてもらったのだから、どこかで使ってみたいものだが…」
伊吹はパジャマ代わりの浴衣から、私服用の甚平に着替えつつ、時計を確認する。時刻は午前9時、手合わせの相手になってくれそうな八束は既に仕事に行ってしまっている。近頃はバンドのローディーに転職してまた忙しそうにしているのを彼は知っていた。次に、妖術使いとしては伊吹よりも上級者の尾咲の顔を思い浮かべたが、彼女もまた仕事中。残る彼の知る妖怪は、必然的に銀花だけとなる。
「朝食を作ってもらうついでに頼むか…おい黒瞳、他の住人や管理人に会ったら自己紹介しろよ。俺はいちいちお前の説明するのは面倒だからな」
「はーい」
「というかお前どこからやってきたんだ、戸締りはしっかりしていたんだが」
「伊吹の武器庫から。寝泊まりもそこでするから、場所は取らせないよ」
伊吹は、戦う時に使う金棒などの武器を武器庫と称する空間から出し入れしている。黒瞳もそこから現れたらしい。
ピンポーン。
104号室のインターホンを鳴らしたが、部屋の主は出てこない。彼女もまた大学の夏季休暇に入り、今は自室にいるはずだと思ったが、出かけているのだろうかと伊吹は扉に手をかける。
「む?鍵が開いている。珍しいな、銀花はしっかりしてるからこういう戸締りには気をつけていそうだが…うわっ、寒いな!?」
伊吹がドアノブを捻ると、中から真冬と勘違いしそうになるほどの冷気に襲われた。どうやら冷房を最低温度に設定しているらしい。
「邪魔するぞ銀花、鍵開いていたんだが…」
伊吹は凍えながら草履を脱ぎ、勝手に部屋に上がっていく。中に進むほどさらに空間内が寒くなり、後をついて歩く黒瞳も身震いする。
「…あ〜…伊吹さん、おはようございます…」
伊吹がドアを開くと、銀花はローテーブルに身を預けてくつろいでいた。否、彼女の身体は半分溶けかかっていた。さすがの伊吹も、今朝目覚めた時以上に驚く。
「おい大丈夫か!?何をどうしたらそんなに弱るんだ」
「今日、すごく暑くて…クーラーつけても全然治らないのでどうしようかなと…」
「連絡しろよ、何のためのグループ*INEだ。言いづらいなら俺に個別でもいいから送れよ」
「す、すみません〜…」
伊吹は自分がスマホを部屋に置いてきた事実を棚に上げて、銀花を諭す。銀花はスマートフォンを触るのすら億劫だということを伝えられないまま謝った。
「わぁ、雪女って夏になると溶けちゃうんだね。大変そうだ…」
「見てないで冷えピタと*イスノンありったけ持ってこい。共有部屋の冷蔵庫に管理人が買い置きしてた」
「はーい」
黒瞳は部屋の冷気を取り込んで段々と人の形を取り戻す銀花をまじまじと見守る。伊吹は銀花の部屋の冷蔵庫に冷却具がないことを確かめ、黒瞳に共有部屋の冷蔵庫を探すように指示した。黒瞳は素直に従い、真冬並みの空間には伊吹と銀花が残った。
「これでは食事どころの話じゃないな。待ってろ、そうめん茹でる」
「だ、大丈夫です!それくらいはできますから!伊吹さんはキッチンに入らないで!」
「な、何だ急に元気になって…湯を沸かして乾いた麺を突っ込むだけだぞ、俺でもできる」
「大丈夫ですから本当に!」
伊吹がキッチンに入って戸棚にあった素麺を茹でようとすると、銀花は無理やり起き上がって必死に制止した。伊吹が大の料理下手である事実は、新年度を迎えて数ヶ月の間に四辻荘住人の常識となっていた。もっと言うと八束はその事実を転生前から知っていたが、壱子に教えてもらうまですっかり忘れており、尾咲に数十分説教された。黒瞳が共有部屋から戻るまで、キッチン前の攻防は続いた。
結局銀花が身体中に冷えピタを貼った上でそうめんを茹で、3人で朝食か昼食か微妙な時間の食事を取った。その頃には銀花も復活しており、ぬるくなった冷えピタを剥がしながらもそもそとそうめんを頬張っていた。
「私もそこまで料理できる方じゃないですけど、壱子ちゃんに本格的に教えてもらったらどうですか?今日みたいに私や八束さんや尾咲さん、壱子ちゃんが居ない時に困りますよ?」
伊吹は無言で早々に自分の分のそうめんを食べ終え、口元をティッシュで拭きながら言った。
「俺もそうしようと思って一度あいつの実家に行ったんだが、管理人にも管理人の祖母にも『これは管理人の母以上にヤバい』『自分たちでどうにかできるレベルじゃない』と匙を投げられた」
「一体何したんですかその時…」
「何もしてない!調理実習で失敗したらしい生姜焼きをリベンジしようとしたらぶっ倒れられただけだ」
妖刀の鞘であるはずの黒瞳は、そうめんを2回もお代わりした。3杯目のそうめんをすすりながら呆れ顔で会話に加わる。
「思いっきりやらかしてんじゃん。壱子ちゃんと壱子ちゃんのおばあちゃんが諦めるレベルって相当やばいよ?」
「俺が知るか。…ご馳走様」
「ふぅ、ご馳走様でしたー!美味しかった!」
「はい、お粗末さまでした。ずっと介抱してくれてありがとうございました、片付けてきますね」
伊吹と壱子が手を合わせると、銀花はにっこり笑って食器をシンクに片付けた。銀花が過ごしやすいように冷えきっている空間のため、2人はそのまま共有部屋にいる時のようにくつろぎ始める。
「そうだ伊吹ー。銀花ちゃん回復したから今なら手合わせお願いできるんじゃない?」
「そういえばそうだな…銀花、この後暇か?」
「ええ、夕方からはバイトがありますけど午後は何もありませんよ」
「さっきも話したが、こいつの身体の中にある妖刀を試し斬りしたいんだ。付き合ってくれるか?」
伊吹の申し出に、銀花は食器を洗う手を止めて思わず慌てる。自分のような野良妖怪に伊吹ほど強力な妖怪から手合わせの依頼が来るとは思っていなかったのだろう。
「え、私でいいんですか!?私、八束さんや尾咲さんみたいに強くないですし、多分相手にならないと思いますよ?」
「手加減するから心配要らん。単に俺の記憶が戻るかどうか試すだけだしな」
「そ、そういうことでしたら、お手柔らかにお願いしますね…ただでさえ外が暑くて、普段の力の半分も出せませんので…」
銀花は伊吹の言葉を聞いて、手合わせを承諾した。洗い物に戻った彼女の様子を見て、伊吹は先に外に出ようとする。
「なら、準備運動してる。終わったら呼んでくれ」
「分かりました、私も動きやすい格好に着替えますね」
「あ、待ってよー伊吹!ワタシも行くー!」
銀花は自分が未だに寝巻き姿だったことを思い出し、着替えてから外に出ることを伝えた。床で子猫のように寝転んでいた黒瞳はぴょんと飛び上がり、伊吹の後を駆け足で追った。
「自分のことを強くないとあいつは言うが、あいつの強さは武力じゃないんだよな…雪に紛れた奇襲、身軽ゆえの瞬発力、殺意を悟らせない雰囲気、どれも暗殺向けの力だ。こういう手合わせではなく雪山の中で襲われたら、俺でも勝てるかどうか怪しい」
伊吹は軽く体を動かしながら呟く。半年ほど共に過ごして、銀花が妖怪としての力を発揮する場面を何度か見てきた伊吹は、その実力を贔屓目なしで分析している。
「そもそも寒さに勝てるかどうかが怪しいもんね伊吹は。そういう相手にはどうするの?」
「自分のフィールドに連れて行く。素早く雪山から離脱して、広くて温暖な気候の場所に行けば、こちらが有利になるからな」
「なるほど〜、ちゃんと考えてるんだね」
「妖怪同士の争いであれば、そもそも奇襲自体が許されないがな。どちらかが宣戦布告をし、受け取った相手が戦場を指定しなければならない。そういう意味では、この手合せはお互いにとって有意義なものになるだろう。武力での争いを好まない雌狐に知られたら叱られるだろうが…」
伊吹は黒瞳の質問に答えながらも準備運動を続け、一段落着いたら自身の妖力を解放した。人に近い姿から、頭に角の生えた鬼の姿に変わる。そこへ、Tシャツにジャージのズボンというスポーツスタイルに変わった銀花が現れた。既に妖力を解放したようで、右手には氷でできた短刀が握られている。
「お待たせしました伊吹さん、いつでも行けます!」
「あぁ、こちらも武器を出そう。黒瞳、妖怪殺しを!」
「オッケー任せて!」
伊吹の声かけに黒瞳はウィンクで応じ、自身の腹に両手をかざした。刀の鍔のような刺青が青く光り、へそから抜き身の太刀が現れる。それを手に持ち、伊吹に差し出す黒瞳の瞳からは光が消え、鞘としての機能を果たす人型の宝具がそこにはあった。
「妖怪殺し、抜刀。マスター伊吹、使用許可をお願いします」
「使用許可って、元々それは俺のだろうが。借りるぞ」
「マスターからの承認を受理。宝具『人間生かし』、待機状態に移行します」
伊吹に妖怪殺しを渡した黒瞳は、機械的な音声をその口から発した後、目を閉じて後ろに下がった。刀を握った伊吹は、それが元々愛用していた武器だったかのように、自然と構えを取る。
「す、すごい力ですね…!その刀を持っただけなのに、普段の全力の伊吹さんの倍の力を感じます…!」
「そういうものか。自分ではよく分からん」
「では、こちらから行かせていただきます―お覚悟を!」
銀花は圧倒されるほどの妖力に一瞬怯んだが、短刀を構え直し、地面を足で蹴って接敵した。伊吹は攻撃の構えから防御の構えに移り、その連続攻撃をいなしていく。
「ふむ、しばらく使っていなかったから刀身が錆びていやしないかと心配だったが…大丈夫そうだな」
「寧ろ油断してるとこっちが返り討ちに遭いそうですよ…そんな隠し玉を持っていたなんて、八束さんにも言ってないんじゃないですか!?」
「あいつと出会った時点では、そもそもこれの存在を忘れていたからな俺は。来い、鬼火!俺の武器が刀だけだと思うな!」
伊吹は空いた左手を鳴らし、鬼火を召喚した。かつて人間だった彼を鬼へと変貌させた鬼火と、その時食らった人間の子供たちの魂が融合した存在。並の鬼火とは火力が違う。銀花は1度距離を取り、短刀をくるくると回して自身の周囲にのみ雪を発生させた。雪女のみが扱える、雪と氷の結界だ。
「来ましたね…対策はちゃんと考えてますよ!妖術弐の型、『蒼吹雪』!凍りつきなさい!」
銀花も何も持っていない左手を飛んでくる鬼火に向けて翳した。そこから放たれる妖術は、普段の彼女が放つ氷の弾より鋭く速い。しかも、鬼火がそれを避けようとも、ホーミング弾のように追尾する。
「追尾性能アリか…分が悪い。戻れ鬼火ども!」
伊吹は素早く撤退の判断を取り、鬼火に指示をする。主の命令を受けた鬼火たちはすぐに立ち止まり、小さくなって伊吹の手の中に戻っていく。
「さて…雪の結界をどうにかしなければこちらが凍りつくな。とはいえ鬼火で焼こうとするとあの追尾弾が飛んでくる。どうしたものか…というか妖術に型なんてあったのか、知らなかった」
伊吹は距離を取り、攻め方を組み立て直す。その時銀花が口頭で言っていた妖術の型について言及すると、銀花は氷の短刀をもう一振り作り出しながら答えた。
「妖術は、使用する妖力と威力によって段階が決まっています。段位のない無の型、壱の型は、ほぼ全ての妖怪が扱えると言われています。伊吹さんの鬼火召喚は、段位付けをするとしたら壱の型に分類されるのではないでしょうか」
「ふむ、意識したことは無かったな。そもそもあの鬼火たちは勝手についてきてるだけだから、使役に妖力を使うこともない」
「そうなると無口頭妖術か家系妖術になるのかな…あ、私や尾咲さんが主に使う妖術は口頭妖術と言って、それぞれの名前や呪文を唱えないと使えないんです。ただ、妖術の中には詠唱を必要としない無口頭妖術というものがあって、それらは段位の決まった妖術とは別の分類かつ、強力なものが多いです。一方家系妖術は、一族にのみ伝わる特殊な妖術です。私の『雪華結界』は雪女のみが扱える家系妖術ですね」
伊吹が口頭妖術の段位についての話を聞くと、銀花はさらに無口頭妖術、家系妖術の解説を加えた。伊吹はその間も、銀花が攻撃の隙を伺っているのを見逃さず、防御の構えを解かなかった。
「で、さっき使ってた弐の型は壱の型よりも強いということか?」
「はい。壱の型よりも消費妖力が多いですが、その分威力が高いです。私は使えませんが、さらに上に参の型、奥義もあるようです。尾咲さんなら楽々使えるのでしょうけど」
「ふむ…口頭妖術の奥義か…昔、妖怪大戦の時に受けたような気がするが…思い出せんな」
伊吹は自らに残っている記憶を元に、妖術に関する記憶を探ろうとするが、奥義を以前受けたということ以外は霞がかって思い出せなかった。その代わり、銀花の雪華結界の対処法を見つけたようで、再び攻撃の構えを取る。
「これが妖怪殺しというのなら、妖力でできた結界くらいは破れてくれなければ困る。そも、相手は雪女、妖怪だからな。その力、試させてもらうぞ―!」
伊吹は目の前の少女を妖怪と断じ、地面を蹴って刀を突き出した。銀花は防御体勢に変わり、二刀の氷の短刀をもってその攻撃を受けようとした。
その瞬間、伊吹の視界が暗闇に染まった。夜になったわけでも、視界を銀花に遮られたわけでもない。黒い霧が、伊吹の持つ刀から湧き出ていたのだ。
「!?」
伊吹は思わず立ち止まり、両手で刀を持ち替えて刃を見る。黒い霧は尚伊吹の周囲を覆い、次第に人のような形を取っていく。
「―やっと逢えたなァ?」
成人男性のような姿を取ったそれは、伊吹の顔面を黒く長い爪の生えた両手で覆い隠した。口元からは尖った牙と長い舌が覗き、歪んだ笑みを浮かべている。完全に視界を塞がれた伊吹は途端に不安に襲われ、意識を飛ばしそうになる。
(―!!俺はこの感覚を知っている。この刀を使っている時、時折なったことがある。意識を持っていかれて、身体が勝手に動いて、俺が俺ではなくなるような―気がついた時には、大量の妖怪の屍の上に、俺一人が立ち尽くしているんだ)
伊吹は自ら封印していた記憶が蘇り、さらに狼狽する。目の前にいる妖怪と言えば銀花1人。もし再び意識をこの刀に奪われた時、彼女がどのような目に遭うか、想像してしまった。無惨に血を流し転がる仲間の姿に、伊吹は恐怖を覚えた。その後、八束や尾咲が離れ、壱子から恐怖の対象を見るような目で見られるような幻覚まで見ることになる。
(ダメだ、絶対にあってはならない!もう俺は二度と、この刀に乗っ取られないと決めたんだ!…いつだ?いや今はどうでもいい。とにかく、俺から離れろ―!!)
伊吹は必死に刀を振るい、自分を覆う黒い霧を晴らそうとした。人の形を取っていた何かは途端に元の霧に戻り、小さく舌打ちをして刀の中に戻って行った。伊吹はそれに気がつくことなく、無言で、無表情で、刀を振り上げ続け―
「わーーー!ストップストーップ!それ以上やったら銀花ちゃんが死んじゃうよ!止まって伊吹ー!!」
振り上げた腕を黒瞳ががっちりと掴んだ。主に緊急事態が起きたことを察知し、待機状態から覚醒状態に戻ったのだ。伊吹ははっと目を覚まし、今の自分の状態を確認する。
伊吹は仰向けに倒れた銀花の上に馬乗りになっており、妖怪殺しを振るっていた。氷の刀を二振りとも破壊された銀花は、抵抗できずいくらかの刀傷を身体に作っていた。伊吹が刀を地面に落とし、自分の頬に手を触れると、冷たい返り血がべったりと着いていた。
「あ…!す、すまん。やりすぎた。動けるか?」
伊吹はすぐに飛び退き、銀花に手を差し伸べる。銀花はまだ恐怖で身体が動かないのか、その手を取ろうとする手が震えていた。
「だ、大丈夫です…これくらいの傷なら、自分で治せますので…」
銀花は伊吹の手を借りることなくゆっくりと起き上がり、回復用の妖術を自身にかけた。銀花の周囲の気温が元の暑さに戻り、代わりに傷が塞がっていく。
「すまなかった…この刀はもう使うべきじゃないな。黒瞳、しまっておいてくれ」
伊吹は自分をすんでのところで止めた黒瞳に向き直り、自分の意識を乗っ取ろうとした刀を渡した。黒瞳は不安そうな顔をしたまま、それの血ぶりを丁寧にしてから自らの腹の中にしまう。
「う、うん…でもおかしいな。銀花ちゃん、妖力が抜けた感じはないの?この刀に1回でも斬られたら、その妖力を刀が吸い取って、伊吹のものになるはずなんだけど…」
銀花は傷を全て癒して立ち上がり、首を傾げた。
「いえ、こうして回復術を使えていますし…そんなことは無いですよ?」
「ずっと使ってなかったから機能の一部が封じられてるんじゃないのか?」
伊吹は懐から取り出した変化用の丸薬を口に入れ、人間の姿に戻りながら話に加わった。
「いや、そんなことは無いはず…他に可能性があるとすれば、伊吹との契約が切れちゃってるのかなぁ。一度伊吹が死んだ時に?」
黒瞳は首をひねりながら、自分の推測を述べ続ける。契約、という単語に伊吹は反応した。
「契約とはなんだ」
「私たちみたいな宝具はね、むやみに力を振るわないように使う人と契約をするの。どんな時にこの宝具を使うのか、逆にこんな時は使っちゃダメ、とか。それは妖怪の伊吹も例外じゃないはずで、伊吹に妖力が行ってないのなら、妖怪殺しと伊吹の契約がなくなってるってことになるんだ」
「なるほど…?」
伊吹は黒瞳の腹を触りながら考える。かつて、自分とあの刀が契約を交わした覚えは、彼にはなかった。もしかすると、それが夢の中で言われている、自分の罪に関わることなのかも知れない。触れた妖怪を全て斬り伏せる妖刀と契約した、それによって為した業が、自分にはあるのかもしれないと、伊吹は思った。
「ちょっ、くすぐったいんですけど〜。セクハラで尾咲さんにチクるよ?」
「やめろ。はぁ、結局嫌な事しか思い出せなかったな。もうあれを使おうとも思わんし、少し寝る」
伊吹は肩をいくらか回した後、昼寝のために自分の部屋へ戻った。
「あ、はい…ここは私が片付けておきますね。お相手していただきありがとうございました」
「こちらこそ、付き合わせて悪かったな」
銀花はその後ろ姿に向けてぺこりとお辞儀をした。伊吹は首だけ振り返り、彼なりの礼を言った後に再び歩き出した。
「銀花ちゃん、本当に大丈夫〜?」
黒瞳は荒れた駐車場を元に戻すのを手伝いながら、心配そうに声をかける。銀花は妖術も使って修復をしつつ笑った。
「大丈夫だよ、本当に。もう傷も治ったから、尾咲さんには言わないでね。余計な心配かけたくないの」
黒瞳は未だに納得のいかなそうな顔をしていたが、片付けを終えて姿を消した。彼女の住処である、伊吹の武器庫に戻ったのである。
武器庫の中には、伊吹が扱う金棒が数本保管してある。トゲの着いたもの、返り血がこびり付いたもの、新品同然に磨かれているもの。それらは、伊吹が知らない間に黒瞳が手入れをしていた。
「う〜ん、やっぱり変だな〜。妖怪殺しが妖力を奪えないなんてことあるの?それに、さっきは死んだから契約が切れたって言ったけど、伊吹が私たちのことを忘れちゃった時期からして、もっと前から切れててもおかしくないんだよね〜?」
黒瞳は、武器の手入れを終えた後、ごろりと地面に寝転んだ。自分の腹から妖怪殺しを抜き、天に掲げる。
「ねぇ〜、妖怪殺し〜?どうしちゃったのさ〜?…なんて、今まで喋ったことなんて一度もなかったか。…妖怪殺しも通称ってだけで、本当の銘があるはずなんだけど、削れちゃって読めないや。一応対の宝具同士なんだから、もうちょっとコミュニケーション取って欲しいんだけどな〜…」
黒瞳は困り笑いでため息をひとつ吐いた後、刀を自身の内にしまった。刀が応じることは無かったが、起き上がって伸びをする彼女の背後で、黒い霧が人の形を作っていた。人形はしばらく黒瞳を見下ろしていたが、黒瞳が振り返った時には既に消えていた。
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