第33話 ニート、デブドラを赦す
食事にスプーンを付けながら、僕はふと施設長室での出来事を思い出した。
僕はズボンのポケットの中から、アッシュから渡された金貨を取り出す。
「ねぇホビット、これって何か知ってる?」
ホビットは僕が取り出した金貨を受け取る。
「知ってるも何もお前……これをどこで手に入れた?」
ホビットは金貨と俺の顔を何度も交互に見た。
「アッシュクロウ……いや施設長の部屋だ」
「ええッ、クロパン、施設長の部屋に入ったのか?」
「ああ」
僕は頷いた。「てっきり恐ろしい罰でも受けるのかと思いきや、ソイツをくれた」
「羨ましいなあ」
ホビットは僕から受け取ったその金貨を頭上に翳した。
「羨ましい? 金貨が?」
「決まってるだろ」ホビットは僕に金貨を返却した。「それだけあれば【パピヨン】のライブに行ける」
「パピヨン?」
「知らないのか?」
「人の名前?」
「ああ。三寮長のひとり、エロイカ寮のパピヨンはこのニートピアでは有名なアイドルだからな。お前、東京仮面舞踏会女子Zって聞いたことないか?」
僕は首を横に振った。
「最強の地下アイドル、東京仮面舞踏会女子Z。客席へのダイブ、豪快なヘッドバンキング、持ち歌がすべてヘビメタなど、過激な舞台パフォーマンスで知られる五人組の女子ユニットのことだ。
中でもセンターを務めていた【
ホビットの淡々とした説明に思わず、
「めちゃくちゃ外道じゃないか」
と僕は呟いた。
「毎月第三土曜日、メインホールで開催されるライブに参加するには『一万ニータ』が必要となる。その金貨一枚でどれだけ贅沢ができることか」
ホビットが僕の持つ金貨をまじまじと眺める。慌てて僕はジャージズボンのポケットにそれを捻じ込んだ。
その時だ。食堂の外側からドスンドスンと、まるで土嚢を積み上げるような音がゆっくりと食堂に近づいてくる。
食堂の扉が内に開く。誰もが手にしていたスプーンの動きを止めたとき、外から入ってきた男の顔を見た。先日僕と死闘を演じた、あのデブドラであった。
泣き腫らしたあとなのか、うっすらと汚れた眼鏡の奥にはデブドラの赤く充血した目が確認できた。髪は整髪料でも塗りたくったかのように頭皮や額にべっとりと付着している。
一歩、また一歩とゆっくりと床を踏みしめるようにデブドラは歩いて行く。
人の輪ができていた僕の周りを一瞥して見せたが、何も言うことは無く、いつものように息を切らせながら厨房前のテーブルに座った。
いつもならそそくさと厨房に向かい配膳をせがむデブドラだが、席についたままピクリともしない。それにいつも腰巾着のようにくっついている子分たちの姿も見えない。
食堂内に静寂が生まれる。咀嚼と食器をカチャカチャとさせる音だけが、まるで時計の秒針のように静かに響いた。
不穏な空気が一面を漂う。周りを見渡せば、ニートモたちがデブドラを睨み付けている。誰かが声を上げれば皆が一斉に、彼へと飛びかかりそうな剣呑な気配さえあった。
「
ホビットが小声で言った。
僕はデブドラの大きな背中をじっと見ていた。
確かにヤツには散々煮え湯を飲まされてきた。
しかし、彼自身が小さい頃から酷いイジメに遭いそれを克服するために、あえてコンプレックスであった肥満体をユーモアに変えた。そのセンスと勇気を僕は高く評価していた。そしてサブリミナル効果で潜在的な笑いを誘ったものの、ヤツの腹芸自体は称賛に値する。まあ恐ろしかったけど。
「帰れ……帰れ……」
ニートモの一人が小声でそう言いだした。やがてそこに誰かの手拍子が加わり、まるで水面の波紋のように小さな声が瞬く間に広がり出した。
「「「帰れ! 帰れ!」」」
ニートモたちのシュプレヒコールが巻き起こった。無論、その批判の的に晒されて
いるのはデブドラだ。
「「「「「「帰れッ! 帰れッ!」」」」」」
デブドラはこちらをチラリと見ると椅子から立ち上がった。報復を恐れてかシュプレヒコールを起こしていたニートモたちは慌てて口を噤む。
デブドラがゆっくりと僕の方に向かって歩いてくる。一体何をするつもりなのか?
僕は握りしめていたスプーンをトレーに置き、椅子から立ち上がった。僕のジャージポケットには愛用の
この大衆の面前で報復でも行うのか? 僕がポケットの上からその膨らみを確認して身構えたが、デブドラは何も言わず、ただ僕の脇を通り過ぎていっただけであった。
「なあデブドラ」
僕は食堂の扉に手を掛けたデブドラを呼び止めた。その声に反応して彼は歩みを止めた。
「デブドラ、なあその、ここに来て、一緒にメシを食わないか?」
僕は自分の隣の席を指さした。
「どうしてだッ?」
唐突にホビットが大声で異を唱えた。
「このデブはお前をどれだけ苦しめたと思ってるんだ。飯も食えない、睡眠も十分に摂れない。散々苦渋を舐めさせられたじゃないか! それに何が自慢の腹芸だ。贅肉の間に油性マジックで笑いを促す文字を書くようなセコイ手段でしか笑いを取れないヤツだ! コイツは芸人としての風上にも置けない、性根の腐ったただのデブじゃないか! なぜコイツを赦すんだ!」
ホビットが殴るようにテーブルをバンバンと叩いた。
「なんでって……」
僕はしばらく考えた。「やっぱりメシは皆で食べる方が美味しいと思うんだ」
僕がそう言った瞬間、デブドラはその場で這いつくばり額を地面に擦り付けた。
「スイマセン、本当にスイマセン。ワシはううっ……」
デブドラは土下座をしながら泣き声で僕に謝罪をした。
僕はデブドラに歩み寄り、片膝を床に着けてデブドラの肩に手を置いた。
「僕はお前のネタ、嫌いじゃなかったぜ。しかし物には限度と言うものがあるだろ。四六時中腹芸を見せられるヤツの気持ちにもなってみろ。量が多ければ多いほど価値が高いというのは、大食漢ゆえのお前の大きな勘違いだ。これからは笑いもメシも、質で勝負してみろよ」
「……ハイ」
デブドラが泣きじゃくりながら項垂れた。
パチ、パチ、パチ……。
乾いた音が食堂内に響いた。振り返ると、ドールが掌を叩いていた。
小さい拍手の輪はやがて大きく広がった。
あれだけ抗議していたホビットもこの光景に折れたのか、
「バカな野郎だよクロパン、お前ってヤツは。人が良すぎると言うか、器が大きいと言うか」
とホビットもまた涙ぐみながら拍手の輪に加わっていた。
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