第5話 ニートピアという施設

※ 父親の回想 


 テーブルの向かいに座る白髪交じりの父は、ジャケットの内ポケットからハンカチを取り出すと、掛けていた眼鏡を顔から外し、蒸気で曇ったレンズをその柔らかい布で優しく擦った。


「つまりその……契約金と月々十万円をお支払いするだけで、当方の愚息をおたくで引き取ってもらえると?」

 父は眼鏡を掛け直し、上目遣いで対面に座る女の顔を覗いた。


「ええ、先日ご自宅へと送付させていただいたパンフレットに、記載されている通りでございます」

 女の声はウグイス嬢のように美しく、とても聞き取りやすかった。


 駅前好条件の立地にも関わらず、二人のいる喫茶店は閑散としていた。鬱蒼とした雨雲が空の限りを支配し、地面を叩きつけるように雨を降らせる。アスファルトの路面が雨飛沫で白く煙る。


 父はほっと胸を撫で下ろして、

「で、ではさっそくサインと捺印なついんを」

 と、テーブルの上に名刺と隣り合わせで置かれていた万年筆にすっと手を伸ばした。


「お待ちください」

 女が左手を差し出し、父の手の甲に触れた。


 父はいささか面食らいながら、

「どうして止めるのです、えーと、烏丸からすまさんでしたか?」

 と、困惑した面持ちでテーブル上の名刺を一瞥した。


【プラチナアクエリアス学校法人 リージョンカウンセラー主任兼施設長 烏丸映子からすまえいこ


 名刺には愛らしいカラスのキャラデザインと共にそう印字されていた。


 父は烏丸の顔をまじまじと眺めた。最初は詐欺かマルチ商法かもしれない、そう疑っていた。だってそうだろう、社会にとって何にも役に立たない、それでいて破却や殺処分すらできない厄介な「物」を、月々の食費や学費から考えたらタダ同然の価格で引き取ってもらえるというのだから。


 そんな余計な思惑が小心者の父自身にさらなる緊張感を与え、彼女の顔すらまともに見れないでいた。しかし時間の経過とともに張りつめていたものが解れて、目の前に座る女が、黒真珠のような光沢を持つ黒髪の美女であることが認識できた。


「仁藤様、きっちりと熟慮されての御判断ですか? 約款やっかん内容を詳しく読まないで、あとで契約と違う、などと騒がれても弊社としては非常に困るのです」

 烏丸の眉がゆっくりとハの字を描いた。


 父はテーブルの上のパンフレットを手に取り、もう一度約款文を読み直した。


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 一般財団法人研究学園都市プラチナアクエリアスサービス約款

 

 一般財団法人研究学園都市プラチナアクエリアスサービス(以下「PAS」と言います)とPASが運営する居住施設(以下「施設」と言います)によりサービスの提供を受ける者(以下通園者)は以下の条項によるものとします。

 第一条(サービスの内容)云々——

**************************************


「特に第四条は、とても大事な内容です。それをしっかりとご確認された上で、署名と捺印をお願いいたします」

 

 父はもう一度パンフレット記載事項の第四条に視線を落とした。老眼がすすんでいるため、紙面を手に取り眼鏡を外して目に近づけた。



**************************************


 第四条(免責事項)

 施設サービスや通園者、または第三者によって生じた損害に対し、PASはいかなる責任も負わないものとし、損害賠償責務も一切負わないものとします。


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 父はフンと鼻を鳴らした。

「あんなドラ息子、煮ようが焼かれようがどちらでも良いわ」

 そう独りごとを言うと、父はさらさらと自筆の署名を行い、手にした印鑑の刻面にたっぷりと朱肉を含ませて契約書に力強く押印した。


「ありがとうございます」

 烏丸はにっこりとほほ笑んだ。


「で、いつ、ウチの子を引き取って貰えるんですかね?」

 昂奮で顔が赤く火照りながら父は烏丸に訊いた。


「準備ができましたらいつでも結構でございますが、そうですね——」

 烏丸は折り曲げた人差し指を下顎に当てて、

無業若年者ニートたちの活動が活発になる春ごろはいかがでしょうか?」と言った。

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