第1章 ニートザワールド

第4話 ニート、「異世界」ですすり泣く

「おい、待て。待てってクロパン!」


 配膳トレーを厨房に返却すると、僕はいそいそと食堂をあとにした。

後ろからホビットが小動物のように追いかけて来る。そして僕の前に回り込み、後ろ歩きをしながら、

「何が気に障った? ひょっとしてクロパンという名前か?」


「それ以外に何があるっていうんだ?」


 それだけを言うと、追いすがるホビットを無視して僕は足早に歩き続けた。


「なんだよ。せっかく気を利かせてパンスト王子だけはヤメにしてやったというのに。黒いパンストが好きだからクロパン、これのどこがイケナイって言うんだ?」


 ホビットは身振り手振りを交えてさらに話を続けた。

「分かった。お前にトラウマレベルの出来事に由来してクロパンと名付けたことは謝る。でもこれにはちゃんとした理由があるんだ」


 僕は突然足を止めた。その挙動に慌てたのか、かかとがワックス掛けの床に引っ掛かり、ホビットは後ろへゴロンと転んだ。


「なんだよ?」僕はジロリと、尻もちを着きながら顔を上げるホビットを睨み付けた。


「それはだな……オモシロイ」


 僕は鼻を鳴らすと、彼を追い越してスタスタと歩いた。


「冗談、冗談だって。おい、待ってくれよ」



 僕は食堂と寄宿寮とを繋ぐ長い渡り廊下を歩いた。吹き付ける浜風が窓ガラスを叩く音が聞こえてきた。


「なあ、聞いてくれ。ここは実社会と完全に隔離された空間だ。それはつまり漫画やアニメやラノベのように架空の世界に棲んでいることと同じなんだ。つまりは異世界転生ってヤツよ! 何より個室を与えられ、朝昼晩と一日三度の食事付き。二十四時間寝ていようが何していようが誰にも邪魔されず全てが許される。ニートにとっては正に願ったり叶ったりのまさに異世界だ。でも考えてみろ。親から見放された何者でも無い俺たちが、唯一実社会と関係性を持たせられる事が何なのか? ――それは名前だ。ジブリアニメでもそういう設定のヤツあっただろ?」


「だったら本名を名乗ればいい。僕は最初にそうしようとした」


「なるほど、親から付けてもらった名前か! それは名案だな」


ホビットはパチンと指を鳴らした。


「だが、自分が引きこもることになった要因をあえて名乗ることで、実社会との隔絶を回避してみる、という考えはどうだ? 人は痛みを伴わないとまた同じ過ちを繰り返す生き物だ。ニートたちにとってここは楽園であると同時につい棲家すみかでもある。つまりここを追い出されたらもう行き場所が無い。クロパンという名前は、自分へのいいいましめになると思うんだ」


 僕は階段をのぼった。そしてモルタルの壁に手を掛けると振り向きざまに階下にいるホビットを見下ろす。いや、見下げたと言った方がいいかもしれないな。


「そうやってさらに高い位置から小人こびとを見下ろす気分はどうだ? 心地よいか? そうだ、さぞかし心地よいだろう。しかし人間の立ち位置ってものは、環境によって変化するものだ。そもそもお前は小人を見下したくらいで満足するような男なのか? 違うだろ? さあ、早く俺たちの位置まで下りて来い。現実世界とはまた違った景色を見せてやる」


 一体何を根拠に上から目線でこんなことを言うんだろうな、この人は。

 僕は呆れた顔をして、再び階段をのぼる。ホビットも僕の後を追うように階段を駆け上がってくる。


 四階までのぼりつめると、プレートに「411号」と書かれたドアの前で立つ。そして光学センサーにIDカードをリーディングさせると、カシャッとオートロック式のドアが開錠する音が鳴った。


 僕はドアを開け部屋の中に入ろうとする。それをホビットが手と足を挟んで阻止しようとした。


「まあ、何かあったらいつでも俺に相談してくれ。俺の寝床はお前の隣だから、いつだって駆けつけられるぜ。ああ、俺のことはホビットと呼び捨てにしてくれて構わない。俺の方が三年先輩だが、『ホビットさん』なんて他人行儀な——」


 僕はホビットの手を振り解くと、ドアを閉めてきっちりと施錠した。


 狭小な空間。簡易ベッドとデスクにノート型パソコン。目立った備品がそれくらいしか無い四畳半の部屋。僕はベッドの上に乗ると、膝を抱えたまま丸くなった。そして気がつくとハラハラと泣いていた。

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