第90話 ファーストキス
椅子取りゲームのように、互いが机の上の水鉄砲に手を伸ばす。距離は俺の方が近かったが、何せヤツの俊敏力は常人ではない。ふたり同時に水鉄砲を掴む。奪うか奪われるかのギリギリの均衡を保てるのはほんのわずかな時間。非力で理系オタクの俺が、怪物化したヤツに敵うはずもない。だから俺は机の
机が耳障りな音を立て、片岡の腹を圧迫しながらキャビネットのある壁に激突。
水鉄砲をようやく手にした俺は、間髪入れずヤツの顔面に吹きかけてやった。ところが、肝心の水鉄砲が役に立たねえ。
「クソッ、てめえの眼鏡も随分と役に立つじゃねえか」
ヤツの掛けていた眼鏡が眼球を保護する役割を果たすとはな。そんなことにすら気が付かない俺ももうダメかもな。己のアホさを心の中で呪ったよ。
「チクショウ……」
戦意を削がれた俺はもう逃げるしかなかった。とは言っても狭い部室にどこも逃げ道なんてない。それに会長やトンコをほったらかしにして逃げるわけにはいかない。今度は俺の方が壁際まで追い込まれた。
(どうするよ?)
片岡は枷となっていた机を押しやり、自由に歩けるようになった。そして別の机の上に置いてあった、未完成の治療薬が入ったフラスコを見つけ、それを手にする。しげしげと眺めながら、不気味な笑みを浮かべる。
「片岡! それをどうする気だ?」
島について作り上げた治療薬の原型だ。貧乳細胞さえ手に入れば完成する、人類最後の希望。
「先週の日曜日にお前と一緒に作った液体を……復元したんだ。それを失えば、また一から——」
それは俺の背後の壁にぶつかり、液体が俺の頭上で飛散した。完成一歩手前だった薬品を、片岡に投げつけられて失うことになっちまった。薬品は炭酸飲料のようにシュワシュワと音を立てて、液体だけが俺の頭髪から額そして鼻の脇を滴った。口の中に入ろうとした液体をジュルリと舌で舐める。——なんてマズい味だ。
俺は腹が立った。ここまで来て作り上げた薬品が一瞬のうちに破壊されたのだ。
かつて同じ釜の飯を食った者同士。ここまで仲良くやってきたはずじゃないか? それが一体どうしてこうなったと言うのだ。
「てめえ、こんなことして何になるんだ! 世界が滅亡しかけているってえのによ! だいたいお前は少子高齢化を化学の力で捻じ伏せるって豪語してたじゃねえかよ。その野望はどこに行ったんだ。同じカガクを目指す者として言ってやる。恥を知れ!」
俺は相討ちの覚悟を決めて、水鉄砲を噴射させながら片岡に突進していった。バスター化したヤツの方がパワーは上だ。しかしここまで俺たちを追い詰めたあの憎たらしい顔面に、一発くらい拳をぶち込んでやらねえと俺の気が済まなかった。
俺の突進を片岡は跳び箱を超えるように跳躍でかわした。そして背後へ回ると両手を突き出し、俺を力づくで撥ね退けた。出入り口のドアにぶち当たり、ドアもろとも俺は廊下へと吹っ飛んでしまった。
ガラス片が刺さり俺は頭から血を流して、その場で寝転がってしまう。
裂傷プラス、片岡からうつされたインフルエンザの症状のせいで、咳と熱が身体の自由を奪う。あがこうとするも力が入らねえ。
これでもう終わりか。もうどうにでもなれといった気になった。
片岡が俺の方へゆっくりと歩いてくる。俺の顔を見おろすと、片岡はニヤリと笑った。
「コイツ、俺とキスをして……ゴホッ……俺をバスターにするつもりかよ」
この世から男がいなくなって人類は滅亡だ。そんな考えがふと頭の中によぎった。
「核戦争か謎のウイルスが
俺は全てを観念して目を細めた。
「ウイルス……だって?」
片岡は口を開けて舌をぐるぐる回しながら顔を近づけてきた。
ヤツの口臭が鼻の奥までツンと来る。
(くせえ息を吐きかけるんじゃねえ)
俺はカッと目を見開いた。
「だったらウイルスそのものをやっつけたらいい!」
手にしていた水鉄砲を俺自身の口の中に向けて発射した。放出されたオイルを口の中でぐちゅぐちゅとさせると、片岡の側頭部を両手で掴む。
(俺の……をくれてやるッ!)
片岡の顔を俺の顔に強引に近づけ、その勢いのままディープキス。口移しでオリーブオイルをヤツの口腔内に押し込んでやったのさ。片岡がオイルをごくりと飲み干すと、まるで服毒したかのように喉を押さえながらその場でのた打ち回った。
「知ってたか片岡? オリーブポリフェノールの一種【オレオカンタール】はな、風邪薬などに使用されるイブプロフェインと同じ効果があると言われているんだぜ」
俺は床へと倒れた。完成一歩手前の治療薬を俺は舐め体内に取り込んでいた。インフルエンザウイルスに犯された身体に加えてオリーブオイルの効能。全てを足し算すれば、それ相応の反撃になると考えたのさ。
「即席の治療薬だぜ……。にしても、俺のファーストキスが片岡とはな……クソッ」
そう呟いたが最後、俺はその場で気を失ってしまったのだった。
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