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彼のことは知っている。
確か、動植物の気持ちを感じる能力の持ち主――ユーイ。
他の能力開発の研修にはほぼ出席せず、誰とも親しくしている様子もないため、皆に忘れられがちだが、彼がいると部屋の隅の観葉植物が嬉しそうなことは、私にもうっすらとわかる。
「ユーイ、待って」
食堂からかなり遠ざかってから声をかけてみたが、彼は足を止めることなく、廊下の角を曲がった。
私も曲がってみると、その先は行き止まりで、思わず左右を確認してしまう。
(え? どこに?)
右も左も壁だが、右の壁の向こうから、かすかに植物のざわめきを感じた。
(もしかして……)
周りに誰もいないことを確認して、私は壁の向こうへ意識を集中させる。
レイラが使っていた『テレポーテーション』
その力を、実は私も持っている。
この施設へ来る前までは、それでいろんなことをやった。
盗みも、犯罪じみた仕事も――。
小さな子どもが路地裏で生きていくためには、そうするしかなかった。
だけどそれを追及されることは怖くて、とてもジルのように、複数の能力持ちだと公言などできない。
ここにいる間に新たに能力を開花して、複数使えるようになった――その言い訳を成立させるためだけに、私は誘われるままこの『白の館』へ来た。
だから、公表している『テレパシー』以外の能力を使う時は、決して誰にも見られないように、よく注意しなければならない。
周囲に人の気配がないことをもう一度確認して、私は壁を通り抜けるイメージで、その向こうへテレポーテーションした。
ふいに視界が開け、目の前に見上げるほどの巨木があることに、思わず驚きの声を上げてしまう。
「ええっ?」
巨木の根元では、落ち葉の上に座ったユーイが、私と同じように驚きに目をみはっていた。
「きみ……どうして……?」
それは私のセリフだ。
ここはいったいどこだろう。
名前のとおり、どこへ行っても白い壁しか存在しない『白の館』で、その場所はとても異質だった。
黄金色の葉をいっぱいに繁らせた巨木が、黒い地面に、太い根をしっかりと張っている。
(地面……)
研究所内はどこも白い床面なので、懐かしささえ覚える。
巨木を見上げると、その更に上には空が見えた。
(空……)
鮮やかに色づいた葉の隙間から、見え隠れする淡い空の色に、固く閉じていた記憶の蓋がこじ開けられる。
灰色の路地裏で這いつくばるようにして生きるようになる前、私は確かに、こんな良く晴れた空の下で暮らしていた。
どこまでも続く黄金色の麦畑と、小さいけれど居心地のいい家。
温かな湯気を上げる食事と、いつでも抱きしめてくれる優しい腕。
思い出せば胸の奥が苦しくなり、涙が浮かんできそうになるので、街の片隅で一人で暮らすようになってから必死に封印していた記憶。
それをふいに呼び起こされ、涙をこらえるためにこぶしを握りしめ、顔を俯けて唇を噛んだ。
ふいに目の前に人の気配を感じ、はっと顔を上げる。
いつの間にかユーイが立っていた。
研修室の端にいる姿を時々見かけるたび、なんとはなしに思っていたことだが、こうして目の前にすると、やはりとても背が高い。
私など胸のあたりまでしかない。
痩せすぎなほど細いので、あまりそんな気はしていなかったが、身長だけなら、研修生の中で一番大柄なジルより高いだろう。
彼は何も言わず、私に小さな一輪の花をさし出した。
(花……)
そんなものを目にしたのは、いったいいつぶりだかわからない。
私がそれを受け取ると、花はしんなりと頭を垂れてしまった。
(あ……)
植物の生育には、それに関わる人物のひととなりが、大きな影響を及ぼすと聞いたことがある。
落ちこみかけていた私の気分が影響したのか、それとも、これまでとても善道とは言えない道を歩んできた私では、綺麗に咲かせてやることができないのか――。
「私……!」
慌てて花を返そうとする私の手を、ユーイが少し身を屈めて両手で包みこむ。
「大丈夫」
はっと見つめた長めの前髪の向こうの澄んだ瞳は、私の遠い記憶に残るあの日の空と同じ色をしていた。
彼が手を添えた瞬間から、花は生気を取り戻し、どこからか吹いてくる風にゆらゆらと揺れ始める。
とても嬉しそうに――。
「あり……」
私がお礼を口にしようとした時には、ユーイはすでに巨木の根もとへ帰っていた。
(元気を出して)
ふいに聞こえてきた優しい声は、私の手の中にある花が発したものなのか、それともあの巨木なのか、ユーイの声にも似ていた気がするが、よくわからない。
どきどきする自分の心音で、他の全ての音がはっきりと判別できない。
それぐらい凄い勢いで、私の心臓はけたたましく鳴っている。
必死にそれを落ち着かせようと努力しながら、私は巨木の幹に背中を預けて座るユーイに、訊ねてみた。
緊張で、心臓が今にも、口から飛び出てしまいそうだった。
「ここって……研究所の外なの?」
ユーイは私に目を向けることなく、緩く首を左右に振ってみせる。
「いや、中庭だよ」
「中庭……」
『白の館』で暮らし始めて半年以上経つが、そういう場所があるとは初耳だった。
最初に所内の案内をされた時も、そのあとの生活でも、まったく気がつかなかった。
この場所を囲む白い壁をぐるりと見渡して、私が入ってきた背後も含め、どこにも出入り口らしきものはないことを確認する。
(だとすると、やっぱり……)
ユーイも私と同じように、テレポーテーションの能力を使ってここへ入ってきたことになる。
(食堂でのサイコキネシスといい、いったいいくつの能力を隠し持ってるんだろう……)
人のことはまったく言えないが、それはお互いさまだ。
私は制服のポケットにしまっていた小さな黒い種を、ユーイの前にサイコキネシスで飛ばした。
放物線を描くようにゆっくりと――。
「これ……返すわ」
ユーイは驚いたように顔を上げ、私の顔を一瞬凝視したが、すぐにまた視線を逸らす。
「ああ……」
私が彼の顔の前で空中に浮かべていた黒い種は、ユーイのてのひらに静かに下りた。
私もサイコキネシスの力を持っていることはわかっただろうに、ユーイは何も言わない。
ただ、手にした種を大切そうに見ている。
「アニータを助けてくれてありがとう」
お礼を言ってもやはり返事はなかったが、嫌な気持ちはしなかった。
柔らかそうな赤毛の頭を深く下げて、俯いてしまったユーイから、私を遠ざけようとする雰囲気は感じられないせいかもしれない。
彼の頭上に大きく枝を広げた巨木から、黄金色に色づいた葉が、音もなく静かに落ちてくる。
それが頭の上に載ってもまったく気にしているふうのないユーイの赤毛は、葉の間から射しこむ光に照らされた部分だけ、葉と同じ金色にも見える。
穴が開きそうなほどその光景を見つめ続けながら、私はあいかわらずどきどきと胸の音を大きくしていた。
体中をもの凄いスピードで駆け巡る血液の音が、耳の奥でやけにうるさい。
私がここにいることなど忘れてしまったかのように、微動だにしないユーイに、勇気を出して問いかけてみた。
「ねえ……私もここにいていい?」
この場所は、彼にとってとても大切なように感じたのだ。
ユーイがようやく顔を上げ、私へ目を向ける。
その瞳は、私をなぜだか胸を掻きむしりたいような思いにさせる、思い出のあの空と同じ色――。
何も答えず瞼を閉じたユーイは、木の幹に後頭部をそっと預け、顔を上向けた。
本当に木と一体になったかのような、男の子らしい精悍な白い頬に、細い顎のラインに、筋張った首筋に、視線を絡め取られる。
まるで、見てはいけないものを見ているかのようで、ますます大きくなる私の心音は、彼にも聞こえてしまうのではないかと心配になるほどだ。
沈黙が、永遠のように長く感じる。
(どうしよう……)
余計なことを言ってしまったと、私が後悔を覚え始めた時、ユーイが静かに目を開いた。
長めの前髪ごし、空色の瞳がしっかりと私を見つめる。
泣きだしてしまいたいほどの激しい憧憬を覚えるその瞳に、私の感情はぐちゃぐちゃにかき乱される。
「うん……きみならいいって、『護樹』が……」
ユーイの言葉はそれだけ。
他に詳しい説明など――何もない。
それでも私には、『護樹』というのが彼の背後の大樹だということも、その樹が、私がこの場所にいることを容認してくれたことも、ちゃんと伝わった。
「ありがとう」
ほっと肩から力が抜けて、自分がどれほど緊張していたのかを、改めて思い知る。
私は敷地の隅に腰を下ろし、樹にもたれかかって座るユーイを、遠く見つめ続けた。
手にしていた小さな花がゆらゆらと揺れ、私の周りに生えていた小花の蕾が、ぽぽぽっといくつか続けて花開く。
(よかったね)
優しい声は、あいかわらず、花たちが発しているのか、あの巨木が発しているのか、それともユーイの声なのか、よくわからない。
それでも、私の周りの花たちが次々と開花するので、どうやら私が今、とても幸せな状態であることは確かだ。
巨木の根もとに座り、ぶ厚い本をめくったり、食堂から持ってきたパンをかじったり、目を閉じて何か考えごとをしていたりする、あまり愛想がいいとは言えない少年。
変わり者で、周りからは浮いていて、私自身、これまで話をしたこともなかったユーイを、私は飽きることなく、遠くからただ見ている。
――どうやらそれが、今の私にとっての幸せらしい。
その日から、その小さな中庭は私にとって唯一の心の拠りどころであり、嫌なことがあった時にいつでも逃げこめる、とても大切な場所になった。
そこへ行けば、たいていいつでも巨木の根もとに座っている、風変わりな痩せっぽちの少年の存在も含めて――。
秘密の箱庭 シェリンカ @syerinnka
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