僕たちは傷つけ合う
「
「そんなんじゃないよ……」
僕の体は、まるでギリシア神話に登場する、見た者を石化させる化け物に遭遇してしまったかのように、一切の動きが取れなくなった。心臓だけは気味が悪いほど早鐘を打つ。
逃げ出さなきゃ、と思った。けれど汗が全身を蠢くだけで、足は言うことを聞かない。
「あいつ、もしかしてお前に惚れてるんじゃね?」
「アハハっ、確かに天音ちゃん可愛いもん」
「だから違うよ……」
声は段々と近づいてくる。
「あいつ、おどおどしてて一緒にいても楽しくねえだろ。イライラすんだよな、あーいう鈍臭いやつ見てると」
「もー、サトルってば言い過ぎ!」
「お前も笑ってんじゃん」
「だって面白いもん」
男女2人の笑い声が響きながら、僕たちは相対してしまった。
「あっ……」
最初に声を漏らしたのはサトルと呼ばれていた大柄な男子だ。『やっちまった……』
「あちゃー、もしかして聞かれちゃった?」と、ミニスカの女子。
「気まずっ! お前ら人の悪口言うのいい加減やめろよなあ」
「いま口を挟むのは卑怯だろ、マサト」
渡会さん含め、男女4人がそこにいた。僕が渡会さんと初めて会話したとき一緒にいた、あの人たちだ。
「あ、あの……」
おずおずと声を出す。
「ん?」
「ご、ごめんなさい!」
泣き出しそうなのをグッと堪え、僕の足はようやく走ることができた。
サトルは走り去る少年を見て、己の不注意を深く悔やんだ。
「悪いことしたなあ」
「まっ、過ぎてしまったものはしょうがないよね!」
「うわあ、正直引くわ……」
この女はまともな神経をしていないのだろうか、とサトルは思う。
そのすぐ横で、度会天音は拳をギュッと握った。
「私、行ってくる」
「えっ、天音ちゃん!?」
友の声に振り向かず、少年が去った方向へ走り出す。
◇
がむしゃらに走った先は、授業でもほとんど行くことのない西校舎だった。空き教室や視聴覚室があるだけの場所だから、人の気配は微塵もしない。
僕は膝に手を付き、湿った目を袖で拭った。悔しかった。悲しかった。胸がキュッと苦しくなって、呼吸も乱れる。
あと10分くらいしたら昼休みは終わって、度会さんとも顔を合わせなければならなくなる。それは嫌だった。もうこのままサボってしまおうか。上級生はたまにこの空き教室を使って授業を行うみたいだけど、人の気配がしたらトイレにでも隠れればいい。そうだ、そうしよう。
僕は余計なことを考えないように、ただじっと時が過ぎるのを待った。けれど、間を置かずして、タッタッタッと、廊下を駆ける音が近づいてくる。今の僕に逃げる気力はなかった。
「ねえ、相模くん」
足音の主は、予想通り度会さんだった。
「なに?」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「えっと……」
僕の雰囲気に一瞬たじろいだ渡会さんは、賢明に言葉を探す。
「その……」
どうやら簡単には見つけられないらしい。
「相模くんを、追わなきゃと思って」
「どうして?」
息を呑むのがわかった。
「どうしてって言われても……」
「どうせ君も心の内では僕のことをバカにしてんだろ」
「ち、違う!」
一度吐き捨ててしまった言葉を皮切りに、防波堤が決壊したかのように悪意がドクドクと流れ出す。もう、留めることはできなかった。
「違わない」
「違うって!」
「信じられるわけないだろ? あんな奴らと一緒にいる君をさ」
「それは……でも、あの人たちだって、悪い人じゃないんだよ」
その一言で、僕の感情は沸点を突破した。
「人の悪口を言う人が嫌いだって、君は言っていたじゃないか!」
「……ッ!」
渡会さんがビクッと跳ねたのと同時に、僕のまなこから涙がこぼれ落ちる。
「あんな奴らのどこがいい!? 人を見下して悦に浸る最低な人間のどこがいい!? 言ってみろよ、君の本音を!!」
喉から血が噴き出しそうだ。
「あっ、ごめ……」
「ああ!?」
「ごめんなざいッ!!」
僕の声に被せるようにして、校舎中に響く鼻声の謝罪。一瞬、静寂が生まれた後、僕はハッと顔を上げた。気づけば渡会さんは泣いていた。
「ほんとうに、ごめんなさい。あの人たちは小学校からのお友達で、わたっ、わたしっ、人を注意したりする勇気が昔から持てなくて……」
僕の頭は急速に冷えていく。
「でも、ごめんなさい。私のせいで相模くんを傷つけちゃうことになって、ほんとに、ごめんなさい」
「いや、その……」
グスっ、と泣きっぱなしの渡会さんを見て、怒りとか悲しみとか後悔とか、そういうのがもうぐちゃぐちゃになってしまって、自分でもこの感情をどうすればいいのかわからなかった。
「ごめん……」
結局、ついて出たのはこの言葉。僕は逃げるように教室まで戻った。最低なのは、僕だった。
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