僕たちは傷つけ合う

 いさかいは突然起こった。


 渡会わたらいさんと友達になってから数週間、中間試験が終わって11月になり、セーターや上着を着る生徒がチラホラ見受けられる時期になった。僕はいつも通り中庭で昼食を取り(稀に渡会さんと一緒に食べるが、基本は1人。そして今日もまた、1人だった)、校舎に戻ろうとした最中さなかだった。廊下から、馴染みのある名前を呼ぶ声が聞こえてくる。


天音あまねぇ、最近あのチビとよく一緒にいるじゃねえか。もしかして惚れてる?」

「そんなんじゃないよ……」


 僕の体は、まるでギリシア神話に登場する、見た者を石化させる化け物に遭遇してしまったかのように、一切の動きが取れなくなった。心臓だけは気味が悪いほど早鐘を打つ。

 逃げ出さなきゃ、と思った。けれど汗が全身を蠢くだけで、足は言うことを聞かない。


「あいつ、もしかしてお前に惚れてるんじゃね?」

「アハハっ、確かに天音ちゃん可愛いもん」

「だから違うよ……」


 声は段々と近づいてくる。


「あいつ、おどおどしてて一緒にいても楽しくねえだろ。イライラすんだよな、あーいう鈍臭いやつ見てると」

「もー、サトルってば言い過ぎ!」

「お前も笑ってんじゃん」

「だって面白いもん」


 男女2人の笑い声が響きながら、僕たちは相対してしまった。


「あっ……」


 最初に声を漏らしたのはサトルと呼ばれていた大柄な男子だ。『やっちまった……』


「あちゃー、もしかして聞かれちゃった?」と、ミニスカの女子。


「気まずっ! お前ら人の悪口言うのいい加減やめろよなあ」

「いま口を挟むのは卑怯だろ、マサト」


 渡会さん含め、男女4人がそこにいた。僕が渡会さんと初めて会話したとき一緒にいた、あの人たちだ。


「あ、あの……」


 おずおずと声を出す。


「ん?」

「ご、ごめんなさい!」


 泣き出しそうなのをグッと堪え、僕の足はようやく走ることができた。


 サトルは走り去る少年を見て、己の不注意を深く悔やんだ。


「悪いことしたなあ」

「まっ、過ぎてしまったものはしょうがないよね!」

「うわあ、正直引くわ……」


 この女はまともな神経をしていないのだろうか、とサトルは思う。

 そのすぐ横で、度会天音は拳をギュッと握った。


「私、行ってくる」

「えっ、天音ちゃん!?」


 友の声に振り向かず、少年が去った方向へ走り出す。


 ◇


 がむしゃらに走った先は、授業でもほとんど行くことのない西校舎だった。空き教室や視聴覚室があるだけの場所だから、人の気配は微塵もしない。

 僕は膝に手を付き、湿った目を袖で拭った。悔しかった。悲しかった。胸がキュッと苦しくなって、呼吸も乱れる。

 あと10分くらいしたら昼休みは終わって、度会さんとも顔を合わせなければならなくなる。それは嫌だった。もうこのままサボってしまおうか。上級生はたまにこの空き教室を使って授業を行うみたいだけど、人の気配がしたらトイレにでも隠れればいい。そうだ、そうしよう。

 僕は余計なことを考えないように、ただじっと時が過ぎるのを待った。けれど、間を置かずして、タッタッタッと、廊下を駆ける音が近づいてくる。今の僕に逃げる気力はなかった。


「ねえ、相模くん」


 足音の主は、予想通り度会さんだった。


「なに?」


 自分でも驚くほど低い声が出た。


「えっと……」


 僕の雰囲気に一瞬たじろいだ渡会さんは、賢明に言葉を探す。


「その……」


 どうやら簡単には見つけられないらしい。


「相模くんを、追わなきゃと思って」

「どうして?」


 息を呑むのがわかった。


「どうしてって言われても……」

「どうせ君も心の内では僕のことをバカにしてんだろ」

「ち、違う!」


 一度吐き捨ててしまった言葉を皮切りに、防波堤が決壊したかのように悪意がドクドクと流れ出す。もう、留めることはできなかった。


「違わない」

「違うって!」

「信じられるわけないだろ? あんな奴らと一緒にいる君をさ」

「それは……でも、あの人たちだって、悪い人じゃないんだよ」


 その一言で、僕の感情は沸点を突破した。


「人の悪口を言う人が嫌いだって、君は言っていたじゃないか!」

「……ッ!」


 渡会さんがビクッと跳ねたのと同時に、僕のまなこから涙がこぼれ落ちる。


「あんな奴らのどこがいい!? 人を見下して悦に浸る最低な人間のどこがいい!? 言ってみろよ、君の本音を!!」


 喉から血が噴き出しそうだ。


「あっ、ごめ……」

「ああ!?」

「ごめんなざいッ!!」


 僕の声に被せるようにして、校舎中に響く鼻声の謝罪。一瞬、静寂が生まれた後、僕はハッと顔を上げた。気づけば渡会さんは泣いていた。


「ほんとうに、ごめんなさい。あの人たちは小学校からのお友達で、わたっ、わたしっ、人を注意したりする勇気が昔から持てなくて……」


 僕の頭は急速に冷えていく。


「でも、ごめんなさい。私のせいで相模くんを傷つけちゃうことになって、ほんとに、ごめんなさい」

「いや、その……」


 グスっ、と泣きっぱなしの渡会さんを見て、怒りとか悲しみとか後悔とか、そういうのがもうぐちゃぐちゃになってしまって、自分でもこの感情をどうすればいいのかわからなかった。


「ごめん……」


 結局、ついて出たのはこの言葉。僕は逃げるように教室まで戻った。最低なのは、僕だった。

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