第6話― 盗 ―

 

 痛みには慣れている。

 思えば叩かれない日とそうでない日を数えれば、慣れるのが容易いのも納得がいく。


「っふ――っ、このっ――、――がっ」


 だが今日は一段と酷かった。

 母がまた何かを言おうとするも、幾度も振り上げ振り下ろした打擲用の木刀の重さに息を持っていかれ、言葉は形に成っていない。

 祖父を見習い少しくらい落ち着いて話せばいいのにと、ミノリは両手で頭だけは守るようにして丸まり母に背を向け、今はただ時が過ぎるのを待っていた。

 背に衝撃が走る。痛みより苦しみが先に来る。木刀による一打は痛みより先に呼吸を勝手に止めてしまう。肺が軋み、吸い込んでいた空気が尖る。苦るしてく吐き出そうにも空気に棘が生えたように上手く出てこないのだ。なんとか息を吐き出すことができれば、次いで痛みがやってくる。


「どうしてっ――、この――、めがっ――ふざけっ……、ひゅ――」


 母の激昂は続く。

 もう言葉に体はなく、ただただ呼吸のついでに侮蔑を吐く程度。

 着物の上からとはいえ、重く硬い樫の木で作った木刀の一打は骨身に響く。

 だがミノリは知っていた。


「ごめんなさい、お母さん」


 痛みとは、拒絶された心への軋みがあってこその痛みなのだ。

 今の状況に、暴力に、何故と唱えることさえしなければいい、これをただ当たり前のことだと受け入れれば痛みは痛みでなくなる。

 故に、痛みには慣れていた。


「ごめんなさい、お母さん」


 それから数度、否、十数度かの打擲に耐えたところで、母は完全に息を切らし、最後になにかを吐き捨てるように言い残して部屋を出ていった。


 台風が過ぎた用な、それほど大げさでもないような、とにかく熱を帯びた体を少し休め、これで今日の分は終わったのだろうと、ミノリは背に張り付いた着物を脱いで布で体を拭く。肌寒さもあってか血がでていても気づかずに着替えて二度手間にならぬよう、目に見えない部分を薄布でさらい確かめる。


 幸い打撲だけですんだようで、赤紫のミミズ腫れがしばらく残る程度。


 ちょうど季節も寒くなり、姉は水浴びや風呂を嫌うので上手くすればバレずにすみそうだと、ミノリは着物を直して井戸水を汲みに外へ出た。

 屋敷の裏手に汲み井戸があり、誰にもバレないように気をつけながら井戸へ辿り着くと、手押しポンプに手をかけた。

 手のひらに伝わる冷たい感触に心地よさを覚えながら、力いっぱい上下する。

 吹き出した井戸水を桶にいれ、先程の布を浸してよく冷やしたら今一度着物を脱いで体を拭く。ひときわ冷たさの染みる部分には濡れた布を当ててしばし待つ。

 冷たさと寒さで痛みと痺れが曖昧になった所で着物を直し裏庭から玄関へと戻る所で、ナエと出くわした。


「おはよう、ナエねぇ


 明朝の巫女勤めをさぼって家を抜け出していたナエが手にしていたのは、


「ナエ姉、それどうしたの?」

毬栗いがぐり! 山に入ってとってきた!」

「また山に、て……まってそれって大壁様の近くにある栗の木? ……また大壁様おおかべさまに近づいたのがバレたら怒られるよ」

「でもここらだとあそこにしかないじゃん」


 と、悪びれもなく、どころか自慢気じまんげに毬栗を見せるナエに、


「どうするの? まさか食べるの?」

「ちがうちがう、これから針を抜いてだな、あのババアの着物全部に仕込……む、って、なにこれ食えるの?」


 しまった、言葉選びを間違ったと思った時にはすでに遅く、


「どこ? どこどこどこどこ、どこが食べれるの?」


 余計な情報を与えてしまったと後悔より先にナエが眼前へと飛んでくる。

 姉の食い意地っぷりとくれば、食べられると分かったのならば何が何でもだ。


「うー……あー、毬の中にある種が食べられるらしいよ」


「種? うっそだぁ、一度食べたけど不味かったぜ、団栗の親戚みたいな味だった」


「生じゃなくて火の中に入れて焼いて食べるんだって」


「ほほうほう、なるほどな、よし! じゃぁ棘はあいつにくらわせて、中身は私達が食べよう!」


「やだよ、また怒られるし……それより朝御飯手伝って」


「やだよ、私が料理作ったら文句言うくせに」


「調味料を全部混ぜたものを料理とは呼べないからだよ」


 えぇとあからさまに不満で頬を膨らませる姉を背にしてミノリは台所へと入ると、手早く朝食の準備を始めた。

 白頭巾しろずきんを頭に巻いてから割烹着かっぽうぎに袖を通してまずはかまどの様子を見る。

 朝、母親に咎められる前に仕込んでおいた炊飯釜の火は丁度消えかけていたので、このまま蒸らしておくと決め、隣の窯へと火を移す。十分に火を炊き上げたら水瓶から汲み出した水を沸かせる準備をすませた。大根の皮を剥いて切り揃え、牛蒡は洗って笹切りにして水に浸し、湯だった鍋に二つを入れて灰汁を丁寧にとってから味噌壺からひとすくいの白味噌を落としてゆっくりと溶く。漬物壺からカブの漬物を食べる分だけ切り出して、最後に残り火で海苔を炙って塩をまぶして朝食ができあがった。


「できたよ、食べよ」


 ここまでの支度を流れるように終えたミノリが姉を探して見てみれば、


「……だめだよナエ姉、それ入れたら」


 窯の前で毬栗を見つめるナエの背筋がビクリと震える。

 もう少し見つけるのが遅れていれば、あの毬栗は火の中に投げ込まれていたのだろう。


「ぇー、食べない?」


「食べない、ほらこっち食べよ」


 盆に整えた朝食を手渡して、二人は裏庭の見える縁側へと移動する。

 食事は主にここで食べる事にしていた。風に吹かれて表情を変える庭を見ながらの食事は暗い畳間で襖を見て食べるよりは美味しく感じる。なによりあの母親が現れて盆をひっくり返しても片付けるのに楽なのがよかった。


「『いただきます』」


 手を合わせ礼をする。

 箸を手に取り味噌汁をすすり、漬物を齧り、米を口にいれる。

 味は、味はそう、


「ほんと……なんていうか、いつも通りの味だ」


「そうだね、塩と味噌だね」


 味噌の風味と僅かな塩気、それが二人に許されている唯一の味。


「いくら不純を食べるな、自然の物だけを食べろってもさぁ……」


 村巫女には厳しい掟がいくつかある。

 その最たるものが、不純不食の決まりごとだ。

 肉食を禁じ、飲酒を禁じ、村で育った物、村で作った物のみを食べる。

 全ては汚れを避けるための決まりごとだと言われている。


「でも巫女だってさ、もっとこう色んな物を食べてもよくない?」


「そうだねぇ、じゃぁ今日は柿でも貰ってくる?」


「……柿ぃ、飽きた、西瓜も、葡萄も、トマトも、飽きた飽きた飽きた」


「しかたないよ、そういう決まりごとなんだから」


「だってさぁ、このまま死ぬまでずーっとずーーっとずぅーーーっとこんな事を繰り返すとか嫌になるだろ、ミノリもそうでしょや!」


「……まぁ、でもそれが決まりだから」


 この会話ですら何度めか。

 それこそ味がなくなるくらい口にした話。

 でもどれだけ不満を漏らそうと何かが変わるわけでもなく。

 高望みで涎を垂らすより、目の前の現実を口にして生きていく他になく。

 

「あぁもう!」


 ナエは一つ大きな溜息をしてから、味噌汁の椀に米どころか漬物と海苔までも投げ込んで箸でザクザク混ぜると一気に口へと掻きこみ、


「ごふぃそうはまっ!!」


 もごもござくざくと膨らませた頬を徐々に小さくしながら、裏庭へと裸足で飛び出した。

 低い松の木が風に揺れ、どこからか漂ってきた金木犀を香り付けに、ミノリもさぶさぶと朝食をゆっくりと終わらせた。そこに、


「ミノリミノリちょっと、ちょっと来てっ」


 声にふと視線をやれば、裏庭に飛び出した姉が家の外壁の角に身を寄せ手招きをしていた。


「ナエ姉、先に洗い物」


「いいからっ、いいからっ、こっち、こっちきてみってっ」


 急かすように手で招くわりには小声なのが気になり、ミノリも裸足で犬走の上に降りると、トトっと姉の背後に歩み寄った。


「……なに?」


「ほらあれ、昨日の婆ちゃんじゃない?」


 確かに聞こえてきた声の方を覗くように顔をだすと、屋敷の門扉の前に二人の女が向き合っていた。

 黒い着物の母と、牡丹色の着物姿をしているのは昨日葬儀を執り行った家の長、老翁の妻にあたる老婆がなにやら母と言い合っていた。


「なんだろ、昨日のことはおじいちゃんが解決したはずなのに」


「でもなんか、『』とか『上段の約束』とか言い合ってるけど」


 耳を立ててみるも風に揺れる木々のざわめきに掻き消されて、うまく聞き取れない。

 でも老婆の鬼気迫る横顔を見るに、由々しき事態なのはわかった。

 大方、あの後に母が祖父の目を盗んでなにかを要求したか、嫌がらせでもしたのだろう。


「んー、『シゲハル』って言葉が何回も聞こえる、ミノリわかる? シゲハル」


 ナエが指を畳んでは伸ばしでわしゃわしゃと『シゲ』を表現した後に、それを何もない空間に引き伸ばして貼ってみせた。


「シゲ、ハル」


 ミノリも自らの発音にどこか聞き覚えがあった。

 極めて最近、ともなれば昨日、自分以外の誰かが発していた言葉、ともくれば。


「……あ、お菓子の爺ちゃんの名前だ」


 思考が至り、記憶の中から故人の名前を引き出した、その時だ。


!!』


 叫び声。

 木々の囁きなど掻き消す、下手すれば隣近辺にまで聞こえてしまいそうな、大きな大きな金切り声に、二人は考えるのをやめて思わず首を引っ込めた。

 互いに少し角から後ずさってからも、


『間違いだった』

『私の物だった』

『奪われた』

『すべて貴女のせい』

『止めるべきだった』


 途切れ途切れに飛び込んでくる両者の投げつけ合うような声は、どれも感情的な声色と、明確な怒りが滲んでいて、


「な、なに怒ってんだ……殺したのなんだのって、どういうこっちゃ」


「わかんない……でも、なにか、うん、なにかがいつもとは違う感じがする」


 互いに罵り合う両者だが、ミノリには母の怒りの性質がどこか違うように思えた。

 だが母らしくないとしか言えない。

 あの人は家族以外の人間に決して感情的になったりはしない。

 相手を威圧する時だって怒りではなく、権利を主張しているだけで怒ってはいない。感情を露わにする事が、一種の恥だと思っているからだ。

 だから怒る時は、かならず家の、屋敷の中だけで、そして何よりその相手は家族、それも、


「――


 声に全身が跳ねた。

 今一度、母を覗こうとした二人の背にかけられた声に両肩が飛び上がりそうな程に跳ねて、胸に冷たいものが刺されたように背筋が強張った。


「っっ――っうぉ、ぉぉ、おおお? あれ」


「おじいちゃん?」


 声の主を見て強張こわばった体から力が抜け、二人は揃って溜息と共に腰を地面へと落とした。

 

「いやすまない、驚かせてしまったかい?」


 昨夜の礼服とは違い若草色の着物を隙なく着こなした老爺ろうやが音もなく背後に現れ、膝をおって何かを察したように小さく微笑み、

 

「ナエさん、できればその毬栗は投げないでほしいかな、痛いからね」


 見れば、ナエはいつのまにか毬栗を手にして今にも投げつけそうになっていた。

 背後からの声に咄嗟に反撃をするという考えが実に姉らしい……と思わず感心しそうになりながらミノリは立ち上がって着物についた土埃を払った。


「それでおじいちゃんどうしたの? こっちに来てくれるなんて」


 足を悪くしている祖父がこの屋敷に来るのは稀だ。神様の所有物とされる巫女は、あまりひと目に触れないよう敬われている。そのため村の中でも山奥に建てられたこの平屋敷と祖父が住む本家屋敷はそれなりに距離がある。


「昨日は話ができなかったので、うん、そうだね、二人に話があって来たのですが、どうやら明恵の方も何かもめているようだから、道中で話します、あの子にバレないように二人共草履をとってきてください、裏庭から出かけましょう」


「お、なんだよどっか連れてってくれんのかよ? よしちょっと待ってろ」


「あ、まってナエ姉、せめて片付け――」


 だが姉は、既にいない。

 きっと何か楽しいところに連れて行ってくれると勝手に思い込んだ姉の行動は早い。手にした毬栗を裏庭に投げ捨て、足裏の汚れも払わず縁側へと飛び乗っり走り去ってしまった後だ。

 その背を慌てて追いかけ縁側に上がり、急ぎ食器と盆を重ねながら、少しは落ち着いてほしい、などと姉に落胆しつつも今にも走り出しそうな両足を鉄の意志で制してミノリは小走りで片付けを始めた。

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