第5話― 葬儀 ―

夕日に追われるように黒い列が進む。

 脚が重くて辛かった。

 小さな足をさした黒い日和下駄が、まるで鉛のようで、足指に食い込む痛み。

 背にした夕日にすら重みを感じながら、ミノリは一歩、また一歩と前を進む姉を追うように前へと歩みを進めた。同じ黒い着物に袖を通したナエは毅然と顔を上げて前をゆく母の背を睨むと、


「絶対にわざとだ……あのババア」


 家を出てから何度目かの呪詛を呟いて、後ろで同じように母の背を見つめるミノリも心中で頷いた。


 清めた身体を黒い和服で包み、列は夕闇に向かって進む。

 先頭を行く三人を見張るように後ろに並びついて歩く黒い男衆おとこしゅうを含めて、黒い列はまるで蟻の行列のようで、事実、列は一人の死骸へと向かっていた。


 今日、一人の老翁ろうおうが唐突に死んだと知らされた。

 母はあえて彼のことを隠していた。

 今の今まで知らなかった。

 彼がそんなに弱っていただなんて。

 彼が床に伏せて動けなくなっていただなんて。


 そして昨日、彼が亡くなったことを。


 酒好きで剽軽ひょうきん、『今宵会う人、皆美しきかな』などと歯の浮くような台詞が口癖で、本当に明朗とした快老で、そしてなによりミノリとナエにとっても稀有な友人だった。


 家の前を通って目があえば、いつだって笑顔で手を振ってくれた。

 時折は手招いたかと思うと二人が見たこともない菓子を差し出して内緒で食べなさいと悪戯気な笑顔を浮かべる優しい人だった。


 優しくて、明るくて、暖かくて、子供っぽくて、……そして母が最も嫌う男だった。


「もっと早く歩けないの? ご家族の方々を待たせてるのよ」


 首紐を引くような声に視線だけを上げると、母の頬に僅かに愉悦の残り香が漂っていた。

 どれだけ隠していてもわかる、母は喜んでいる、腹の底から、彼の死を。

 振り返り進む足取りもどこか軽く、今にも二人をおいて走り出しそうだった。


 待ちきれず自ら餌に走り出す蟻の女王みたいで気味が悪かった。


 その姿が見るにたえず、ミノリがもう一度視線を地面に潜らせようとしたが、老翁の家が見えてきて視線を下げるのを止めた。

 前を通るたびに今日はいるだろうかと楽しみにしていた門扉、そのの前に何度も見てきた物が吊され、灯っていた。


 白く輝く提灯に黒文字で書かれた二文字。


 確かに書かれた二文字に血の気は足へと下がり、重く冷たくなる爪先から感覚が消えていく。立ち止まりたくなる衝動をさらに冷たい声が叩いた。


「ミノリ? なにしてるの? ほら早くなさい」


 急かす母の声に引かれ、しかし拒もうとする意識の衝突に体が硬直する。

 自分より一歩前へと進んだ姉を見て、ゆけ、すすめと鉛めいた両足を持ち上げ進む。そんなミノリの足取りに気づいてすぐさま姉は妹の手を握ってくれた。

 ナエはその手の冷たさにはっとして、


「……ミノリ、辛かったら、あとは私が一人で見送ってくるから、大丈夫だよ」


 悲しそうに眉をよせて、それでも妹を安心させようと微笑む姉の表情は暖かく、冷たい夕闇に暖かく灯る優しさに思わず頷きそうになる。


「なにを言ってるの? ちゃんと仕事をしなさい、それが貴女の勤めでしょうに」


 だが、その優しさを払うように冷たい声がする。


「……きっとあの人も喜んでくれるわよ、ねぇ」


 顔に慈しみを見繕った蟻の女王は確かに微笑んで、そう言った。



 § § §



 式は厳かに行われた。

 日差しに溶ける雪のように、丁寧に、時間をかけて、ゆっくりと大地へ戻れるようにと白い箱の前で座して二人は詠う。


 せめて彼が、その魂が暖かな場所へと向かいますようにと。

 詞の中で、ミノリは静かに泣く。

 あの笑顔を忘れまいと声もなく泣きながらは詠う。


 詠い終わると、ゆっくりと泥の堤防が崩れるように嗚咽が漏れ聞こえだした。

 膝をつけたまま振り返り、部屋に並び座る老翁の家族、親戚、暗く表情を曇らせる弔問客に二人は深々と頭を下げた。



「『彼の御霊は天水あまみず様に導かれました』」



 最後の言葉を言い終えると堰を切ったように老翁の家族から一際大きな泣き声が溢れた。

 

 彼の死をここまで多くの人が悲しんでいる事にミノリは小さな安堵を覚えた。

 

 その一方で、悲しむ素振りもなく頭を寄せ合いなにやら話し合う集まりもあった。

 二十畳の和室の下座の奥、死者の手前故に声を潜めていたが、ずっと続けていた密談の中心には母、その母に周りの人間数名が頭を何度も下げているのが見えた。


「……あのババア、また何か無茶な事を言いだしたんだ」


 式を終えて、この後開かれる簡単な食事会に向けて動き出す人達に聞こえないようにナエが怨嗟を込めて呟いた。

 母とその取り巻きの男衆に対して頭を下げているのが今日の喪主を努めた老翁の息子であるところを見るに、恐らくそうなのだろう。

 

 この手のいざこざを母はよく起こす。

 

 主に揉める理由は祭祀料絡みで。

 どんな金額であろうと、母は必ず一度は「蔑ろにされた」と言い出す。

 そして底のない穴のように次から次へと要求しては他人の財を飲み込んでいく。


「よし、私ちょっと文句言ってくる」


 と、鼻息荒く腕まくりして今にも出撃しそうになるナエをミノリは慌てて止めた。


「ま、まってっ――」


 咄嗟に止めることができたのは運が良かった。もしもっと動きやすい格好だったらもうここにはいないだろう姉の裾をしっかりと掴み、


「大、丈夫だから」

「どこがっ、ほっといたらまた家財どころか最後には庭の柿の木まで奉納しろとかいいだすに決まってる!」


 確かにあの母なら言い出しかねない。

 自分に対する対価は、相手の家にどれだけ大きな穴を空けられるかで決めているのだ。

 金がなければ土地、土地で足りないなら家財、それでも足りないなら他の何かを。

 強請ねだって、奪って、両手いっぱい以上に相手から毟り取り、それをいとも簡単に捨てる……そんな事が許される人だ。


 この村において、もっとも権力を持ち、もっとも発言力を持ち、何より自由を許される人間、それが村巫女の一族を実質的に取り仕切る母だった。


 必死になって頭を下げる老翁の家族に冷笑を浮かべ、どこか満足そうにする母。


 もとよりこの家の老翁の事が嫌いだった母だ、後からの嫌がらせは容易に想像がついた。


 誰もが母の横暴を横目にこの場から離れる中、ナエだけが立ち向かおうとし、そしてミノリだけが、――安心していた。



「――



 女王蟻を囲う円に割って入る、低くそれでいて澄んだ声がした。



「お、お父様っ……どうして、今日はお越しになれないのではなかったのですか?」


「用立てが手早く終われば顔くらいだします、それより――」


 母に父と呼ばれた男、黒い着物に青の単衣羽織で腕組む老爺の声に場の空気が斧を振り下ろされたように割れた。


「……明恵、なにやら御家族のかたがお困りのようですが、なにか問題でも?」


 黒一つない白銀に近い白髪を撫で付けた老爺だが、細く伸びた背筋に纏う静かな強さは冬の山の厳しさにも似ていて、それを目の前にした取り巻きの男衆が蟻の群れが散るように場を離れだした。


 それもそうだ、蟻と山では勝ち目はおろか元より勝負にすらならない。


 取り残された女王蟻だけがその場から動くことができず、なにかを喉に詰まらせたように口から言葉を絞り出した。


「いえ、いいえ、聞いてくださいお父様、今回の葬儀において式を取持った我が家に対する心遣いがあまりにも――」


「なるほど、明恵、


 それは脳天だった。

 静かに、短く、でも確かに。

 母の言葉を遮った冷たい声は、そのまま脳天に向けて振り下ろされた。


「弔事に暗れる御家族の皆様が式を委ねくださったというのに、凶事に心付けを無心するのがお前の治め方なのか? いつからそんな無作法を私が許した」


 静かに頭を打ち付けられたように歪む母の表情はそら恐ろしく、食いしばる歯の音が静けさに響きそうで、今にも噛みつきそうに口を一度開き、そして何も言わないまま閉じると、


「……失礼します」


 すと膝を伸ばし場を立ち、そそくさとどこかへと消えていった。

 静寂だけが残り、唖然とする家族に対して白髪の老爺が深々と頭を下げた。

 

「我が家の一人娘が場にそぐわぬ言動で皆様方を困らせてしまい誠に申し訳ありません、これも村長としての務めばかりで親としての甲斐性は何一つ果たせなかった無精者な私のせいです。この足りない老いぼれが頭を下げる事では収まらぬ事ではありますが、今は凶事の最中、どうか穏便にすませていただけませんでしょうか、どうか、何卒」


 深々と頭を下げたままの村長、慌てて頭を上げてくださいと近寄る老翁の息子家族達の姿をもって、場の空気が一気に和んだのを二人は感じた。


「……ミノリ、もしかしてジジイが来ること知ってた?」


 その質問に、ミノリは一度だけ頷き、


「うん……、今日、会う約束だったから」


「あー、あぁ……そーゆーことかよ」


 だからきっとここに来ると思っていた。

 ミノリは立ち上がり、その約束を果たすために歩き出し、


「おじいちゃん!」


 長として村の人々に礼儀を振る舞うその背中に飛びつきたくなる気持ちを抑えて、ミノリは祖父へと駆け寄った。


「……おぉミノリさん、お勤め偉かったっとっとと」


 声に振り返り、雪解けの山ように暖かな笑顔を浮かべる祖父の懐へ、ミノリはそのまま吸い込まれるように抱きとめられるために潜り込んだ。


「こらこら、皆さんもいらっしゃるんだから」


 祖父はいつでも土の匂いがする。今朝も畑の世話をしてきたのだろう。

 照れくさそうにする困り顔を想像しながらミノリは祖父の細い腰を抱きとめた。

 突き放されることも予想したが、ふと、大きな手が頭に触れる感触に思わず笑みが溢れる。ごつごつとして硬い、ざらざらとして厚い、その大きな手の感触が頭を左右に撫でる度にお腹に溜まっていた冷たい感触が解けていく。


「すみません、まだ甘えたい年頃なもので」


 祖父の言葉に笑い声がおこる。

 笑われてもいい。頭をふわふわとさせてくれる暖かな感触が止まらないうちは。

 もう一度祖父を抱きとめる両腕に力を入れようとしたところでグイと襟首を引っ張られた。


「おおいミノリ、まだ仕事が残ってんだからそんぐらいにして席に戻れ」

「……うー」

「うーじゃねぇよ、ほら」

「……むー」

「むーでもねぇよ、ほら、ひっつきミノリっ、いっくっぞっ」


 そのまま祖父から無理やり剥がされ、強引に連れ戻される中、祖父が小さく微笑んでくれた。がんばりなさいと励ますように。


 そうだ、ここからは祖父が見ていてくれるのだ。

 ミノリは襟を正して背筋に力をいれる。

 ナエを追い越し息を整え祭壇へと戻ると今一度席に膝を落とし、今日一番の姿勢で胸をはった。


「……ゲンキンなやつ」


 さっきまで打って変わった妹のやる気に呆れながら、ナエも並び正座で待つこと十分、会場に四足の台付き盆が整然と並んだ。各々で故人の昔話に花を咲かせていた列席者達が空盆の前に座り終えると、二人は互いの視線を一度合わせてから頷き、


「『それではこれより、歳食さいしょくの儀を執り行います』」


 二人の声を合図に、部屋の入口から料理達が運ばれてくる。

 並ぶのは野菜だけを使った一種の精進料理。

 野菜の煮物、ごま豆腐、山菜の天ぷら、五目五穀の握り飯、吸い物。

 すべてがこの村で生まれ作られ育てられた野菜で調理された料理達。

 すべての料理が行き届き、所狭しと華やぐ盆を皆が眺める中、最後に祭壇に構える二人の空盆に一皿が運ばれてきた。


 まるで神に捧げるがごとく、恭しく皿を差し出す老婆が深々と頭を下げ、


二巫女ふたみこ様、これは先程天水あまみず様に導かれた夫が丹精込めて作った大根を水で炊いたものです、どうか夫の魂が御子様を通じていつかまたこの地に還れますように、どうか、どうか」


 これが村の仕来り、村に生き、村で育ち、村で逝く者たちが残した物を巫女の体を通じて神へと奉納し、覚え目出度くあらばまたこの村へ新たな命として戻れるように願うこと。


「『いただきます』」


 二人が手を合わせ深々とお辞儀をし、箸を手に取る。

 彼が作った最後の野菜、最後の命を、心して箸をつける。

 それは本当に鮮やかで、綺麗な、をしていました。


「綺麗な色だね、お姉ちゃん」


 桃色の大根を可愛いと称するミノリに、

 

「……どう見ても気味がわりぃだろ」


 小さく溢し、料理を口にする。


 ――その味は、


∞ ∞ ∞

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