第4話ー 母 ー
「あんたはっ! 何度言ったらわかるのっ!!」
パンと弾ける音が九畳の和室に響く。
怒号と甲高い声と乾いた音。
秋風に冷やされた頬への張手はいつもより鋭く感じる。
刺さるように痛みは弾け痺れ、次いで火を近づけられたようにじりじりと熱が頬を焼く。
「……ごめんなさい」
焼け石に水といった気持ちではあるが、ミノリは精一杯申し訳無さそうな表情を作って謝罪を口にした。視線を深く下げ、唇を結び、肩を小さくして怯えてみせた。
怯えたように見せる。もう降参だと、反省しているのだと示すように。
「っ――、なんで、なんであんたは私の言うことが守れないのっ!!」
内緒の外出はあっさりと母親に見抜かれてしまった。
泥は綺麗に落とした、着物も汚れも湿り気もない。
その恰好はこの家を出て行った時となんら変わりがないはずだった。
事前の打合せ通り、いつもの通り、日課である禊ぎのため川で身を清めていた、そう答えれば万事うまくいくはずだった。
なのに――、
『……少し、遅かったわね』
その静かでゆっくりとした一言に僅か呼吸が二つ分、ナエが答えを言い淀んだ。
それだけで質問は詰問へと変わり、疑いは確信へ、こちらが何一つ言葉を発さずとも無言が答えだと決めつけられ、やがては手を振りかぶった。
いつものことだ。
『なにを汚したの』
『なにを食べたの』
『なにを触ったの』
無言は罪で、有言は嘘。
求められていたのは、自然な動作だった。
緩やかでいて何気ない応え、だが姉はそれが致命的に下手だった。
ある意味では自然な反応しかできず、嘘はあっさりと看破された。
「いつも言ってるでしょ! 不浄な物に触れるなと、清浄に努めなさいと! 何度言ったらわかるの! なのにあんたは余計な事ばかりしてっ――このっ!!」
怒りに震える母は、まるで使い古された
長く黒く乾いた髪、昔はきっと自分達のように色艶があったのだろう長い髪は、乾きに痛み、所々で
そこに着込んだ着物だけがやたらと豪奢で違和感がある。黒い絹地に金や赤で刺繍された花々が咲いて、皮肉にもそれが母のみすぼらしさを際立てていた。
荒い呼吸に乱れ髪、何度も掻きむしっていたのだろう、白いフケが叫ぶ度に飛んでいた。
「役立たずっ!!」
肩で息を切らせて二度目の平手が持ち上がる気配にミノリは身体を強張らせた。視線をぎゅっと地面へと潜らせ衝撃と痛みに備える。
どうせ打たれるなら、頬より頭の方がいい。
顔の傷は残る、残れば尋ねられる、答えを考えるのは億劫で――、
「――もういい加減にしてっ!」
衝撃はこなかった。
代わりに、叫ぶ姉の声と気配が割って入ってきて母の平手を寸での所で止めたのだ。
「どうしていっつもミノリばっか怒るのっ! わけわかんない!」
声を荒げる姉へと視線を上げると両手で母の平手を止めていた。
怒りと大きな呼吸で肩を揺らしながら。
恐怖に立ち向かう時、姉はこうやって大きく息を何度も吸っては吐く。自分を奮い立たせるようにして、自分を少しでも大きく見せようとして、
「おかしいじゃん! 木に登ったのも私! 変な実を食べたのも私! ミノリを押して着物を汚したのも私なのに、なんでミノリを怒るの!?」
その少女と思えぬ気迫に母がやや視線と握られた手を逃がした。
答えがない、もしくはその答えを言えない、これもいつものことだった。
そしてこの後は決まってこう言うのだ、気味の悪い笑顔を作って、
「あ、貴女はいいのよ……、貴方は村にとって大事な巫女なんだもの――」
村の巫女は、不浄であってはならない。
清浄に努め、触れるもの、肌に着るもの、食べるもの、その全てが清らかでなくてはならない。それが巫女の努めなのだと、母は毎日のように言い聞かせてくる。
ミノリはその教えに徹してきたつもりだ、極めて努めてきた。なのに――、
「ミノリだって巫女の仕事してるじゃん! ミノリだって巫女なんでしょ!」
母の言葉を遮るように、そんな言葉は聞き飽きたとナエは声を荒げて母に迫った。
「っ、それは……、――っ」
言い淀む母を、ナエの視線が追い詰める。
まただ、そう、また。
ここで母は何かを言いたそうに、歯がゆい顔をして皺を寄せる。
怒りだろうか、悲しみだろうか、あるいはその他の何かだろうか。
喉で詰まらせた言葉を飲み込むようにして目を瞑り、拳を握り、苛立ちが募って、
「…………もういいわ、朝に言ったとおり、夕刻からお勤めがあります、今すぐ支度なさい」
吐き捨て、部屋を出ていく。
そう、ここまで、ここまでも、いつも通りだ。
∞ ∞ ∞
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