第2話― 木通 ―



  ∞ ∞ ∞



 秋、雨上がりの森は命が香る。

 木々に張り付く瘡蓋かさぶたのようなこけが香るのか、足元から高々と茂る名も知れぬ草花が香るのか、それとも踏みしめた土の中で目に見えない程に小さな生命から香るのか。


 ――、恐らくその全てから、この命は芳香ほうこうしている。


 ここにいるのだと、ここで咲くのだと、ここに産むのだな、ここで育むのだと、

 そして、ここでまた死ぬだろうと……。



「――ねぇミノリ、またぼんやりしとるん?」



 濃密な命香めいこうの中から降ってきた声に少女がふいと顔を上げる。

 見れば、大人の背丈二人分はあるだろう若木の上からぽとりと何かが落ちる最中だった。ミノリと呼ばれた少女が反射的に慌てて手を突き出してそれを受け止めた。


「あは、ようとれたね」


 続いて悪戯めいた声がする。

 風に揺られて踊る鈴音のような、涼やかで凛とした声だ。


「んじゃちょいよっててっ、よっと」


 声の主が慣れた手付きで太い枝に捕まると、ふらりと足を地面に向け一呼吸。揺れるその姿はどこか今にも落ちそうな赤い椿にも似ていて、


「あ、まっ、て……」


 思わず出た静止の声だが、椿は人間の言葉など知らぬ存ぜぬと枝から落ちた。

 薄紅の着物をはためかせ躊躇いなく少女が木から飛び降りる。地を踏みしめる。

 赤椿の少女に裸足で強く踏み込まれた土から、また強い命が香った。


「……もう、そんな所から飛び降りたら危ないよ、ナエネエ


 今更ながら、それでも一応の警告に、ナエと呼ばれた少女は得意げな微笑みで返した。


「こんなのたいした高さじゃないよ、ミノリも登ればいいのにさ」


 ふんと胸を張って自慢げだが、苔に覆われて湿った枝切が危ないなのは自明の理で、その上、足元には夏の森の成れの果てが広がっている。秋に向かって枯れて落ちた枝葉がある。下手に踏めば大怪我だ。

 怪我は、とても、とてもめんどくさいことになる。

 そう伝えようとして、


「やだよ、怖いもん」


 言葉は胸につかえて、わずか二言に留まった。


「えぇ? なんで? ちぃとも怖くないよ?」

「怖いよ、落ちたら怪我するよ」

「なら落ちる前に飛び降りればいいじゃん?」


 それは本質的には一緒じゃないのかと口にしようとして、ミノリは口籠もった。


 なんとも不思議な事をいうものだと目を丸くする姉に、それはこちらも同じ気持ちだとミノリはため息で返した。


 なぜという感情が浮かぶ、なぜ、こう私達は違っているのだろうか。


 姉妹で、それも双子だというのに驚くほどに中身が違っている。


 鴉羽のような艶やかで黒い髪も一緒。

 熟れた葡萄のように黒い瞳も一緒。

 山肌に化生する冬雪のように白い肌も一緒。


 なのに中身だけは、全然違っている。


 決定的に、何かが大きく違っている。


 きっと姉の中身には自分にはない、何者も恐れない強い命が詰まっている。

 恐いもの知らず、後先を考えず、それでもなんだって上手くやってみせる。

 きっと誰にもその存在を左右されない太陽みたいな命で満たされている。

 そんな姉に比べてしまえば、自分の中に流れるものは――、



「それよりそれ、なんだと思う?」



 尋ねられて姉が投げ落としてきた果実らしき植物をしげしげと見た。

 大きな茄子かとも思ったが、それにしては少し大きく、色味も淡い。



「……わかんない、でもなんか、気持ち悪いよ?」



 紫色の表皮、何故か縦にパカリと割れて見せる白い中身が気色が悪い。

 白濁とした粘液に包まれた黒い粒々としたものは恐らく種子かなにかだろう。

 控え目に言っても巨大な蛙の卵にしか見えない。


「だよね、私もなんかの虫の卵かと思ったけどさ、でもほらほら」


「え、――」


 手にしていた果実を苗が手に取り急に鼻先へと近づけてきたせいで思わずたたらを踏んで後ずさった。が、そのせいで湿った土に食い込んでいた下駄から片足が抜けてしまい、後は何かに引っ張られるように後ろへ尻餅をついて転んでしまった。


 途端、尻から盛大に感じる嫌な湿り気。


 やってしまった……。


「あーもう、どんくさいなぁ、ほら」


 差し出された手を少し見つめ、口にしたかった幾つかの言葉を飲み込んで、代わりに溜息を吐き出してその手を握ると、すぐさまグイと強い力で引き寄せられた。


 立ち上がると、風に晒されさらに感じる不快な湿り気。


 雨上がりの土だ、完全に泥の湿気を吸い込んでしまい、むず痒くなるような水気が股まで来て気持ちが悪い。このままだとまた怒られるという杞憂が出て、次いでどうすれば怒られずにすむのかをミノリはすぐさま考えだす。


 なのに、そんなミノリの焦りも考えもどこ吹く風とナエは気味の悪い果実に鼻を近づけ犬みたいに嗅いでいる。


「……ふんふん、うん、やっぱり」


 何かに納得してから、再び手にした果実をこちらへ突き出してくる。

 鼻先に持ってくるものだから否が応でも何か匂いが――、



「……なんか?」


「ね! そう、なんか良い匂いがするんだよ、……ということはさ」 



 嫌な予感がした。

 そんな所だけは双子らしく、姉の考えが手に取るように分かってしまう。



「……食べないよ、私」



 ほらみたことか、先に言葉を置かれたナエはあからさまに口をへの字に曲げて抗議した。



「なんでぇ」

「普通に気持ち悪いから」

「ふふ、まぁそう答えを焦るな若人よ」

「同じ7歳じゃん」

「まてまて毎回言ってるが私の方が5分先に生まれた、5分年上、つまり5分だけ長く生きておる、人生経験において5分は大きい」

「……その大きなたった5分で私より何を教わったの?」

「え? えー、あーっ……そう! 人は挑戦を止めた時に老い始める、とな」

「生まれたての子供に対して気の早い教えだね」

「まぁいいじゃん、さぁ挑もう! 老いたくはないじゃろう! 一緒に食すのじゃ、この、このなんか気持ち悪い果物くだものを!」


 この姉は、気持ち悪いと自覚しておきながらも尚それを口にしようと考えているのだ。このままでは押し切られる、気持ち悪いから食べたくない、だけどそれが理由にできないのであれば切り口を変えるしかない。


「待って、前みたい毒があだったらまたお腹壊すよ? ほら、野苺みたいなやつ食べてお腹こわしたばっかりじゃん」

「そりゃあんなに美味しいのに毒とか普通は思わないじゃん?」

「だから懲りてよ、嫌だよ、またお母さんに怒られるの」

「怒られてお腹壊すぐらいで美味しい思いできたんだからまぁいいじゃん」


 ダメだ、この姉はお腹を壊してでも食べたいのだ。

 あの母親に怒られてでも食べたいのだ。

 危険をおかしても、美味しいの物に餓えているのだ。

 根本的に行動の順位が食い違っている。


 しかしこのまま食べて本当に毒だった場合、またとびきり怒られるのは食べてもいない自分も一緒なのだとミノリが次の説得材料を探さねばならない。然し――、


「もう、そんな嫌かねぇ、じゃぁ後から欲しいって言ってもやんないからね?」

「え、あっちょっ」


 そういってナエは躊躇いなく蛙の卵にかぶりついてしまった。

 蓄えられていた水気が弾けて飛沫となって飛び散った。

 色味的に見れば毒である可能性は十分あるはずだった。


 なのにこんな気味の悪い物まで躊躇いなく口にするのだから、なんというか本当に恐れ知らずな姉に思わず少女がこめかみを押さえた。


 ぷちり、ぷちりと、噛み潰される音が重なるにつれ、先程まで輝かしかった笑顔が徐々に曇りを帯びて、ごくんと飲み込んでからナエはこう叫んだ。




「うん! 不っ味い! なにこれっ!」




 ……ほら、いわんこっちゃない。



 

 § § §




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る