第40話 最終回

 慣れない投げ方で全力投球ができない玉井くんのスタミナが心配だった。玉井くんはこっちが攻撃の回のときに投球練習をしないでベンチで体力の温存をするようになっている。だから石神くんがあれこれと玉井くんに話しかけるのには、少しイラッとさせられていた。

 内野と外野がボール回しをしているあいだも玉井くんは投球練習をしないで、マウンドで高橋くんと何か話をしている。

 球審がボールバックの指示を出すと桜井くんが六回裏の先頭打席に立った。

 桜井くんが打席に立つだけで観客席が沸き、そこかしこでカメラのフラッシュが瞬く。玉井くんはこの回までに十五点を失ったけど、それでも回を追う毎に失点を抑えている。この調子で行けば桜井くんの打席はこれが最後にになる。きっと客席もそれが解っているのだと思う。声援の大きさが今日一番の大きさだ。

 その声援が収まるのを見計らって玉井くんが投球動作に入る。

 やはり球をリリースする直前、バックネット裏に陣取っている観客から無数のフラッシュが飛び交った。ボールは高橋くんが立ち上がって捕球するほどの暴投になる。この試合この光景が当たり前になってきている。何も知らない桜井くんが制球に問題があると言ったのも無理はない。ぼくは走って行って観客席に向って怒鳴り散らしたい衝動にかられ続けている。


 気を取り直した桜井くんがバットを構えようとしたとき、玉井くんがタイムを要求した。高橋くんがマウンドに駆けて行き、しばらく話したあとにまた戻って行く。そして玉井くんは踵を返して振り返るとバックの守備陣を見渡した。ライトのぼくにも視線を投げてくれる。

 ぼくは玉井くんのこの行動を、これから打たれるかも知れないからそのときはシッカリと頼む、と言う意味で受け取った。そのつもりで玉井くんに頷き返した。多分他のみんなもそうだったんだと思う。ファーストの湯田くんやセカンドの穂刈くんも小さく頷いていた。この玉井くんのメッセージには、この試合負けるかも知れない。みんなゴメンと言っているようにもぼくは感じていた。


 でも玉井くんのこのメッセージは、ぼくの勝手な思い込みに過ぎなかった。


 玉井くんは突如として生き返ったのだ。

 実に不思議だった。ライトの守備位置からは、何の前触れもなく客席からのフラッシュ攻撃が止んで、それに示し合わせたかのように、玉井くんは真っ直ぐに前を向いたまま本来の投球をして見せた。

 玉井くんの神通力が伝わったのか……。そんなことはどうでもいい。とにかく玉井くんは妨害のないマウンドで渾身のストレートを投げることができた。

「ストライクッ」

 制球が完璧に戻った玉井くんの投球に、さすがの桜井くんも手が出なかったようだ。球審の監督と桜井くんが目を見合わせている。

 二球目に対しても妨害はない。左打者の桜井くんが身体をのけ反らせてバランスを崩してしまうほどのインハイに突き刺さる。それでもストライクだった。

 これで勝負は完全に玉井くんのペースになり、最後はど真ん中のストレートで空振り三振を取った。

 その後もバックネットの観客からの妨害フラッシュは息を潜めたままだった。それは玉井くんが本来の投球を続けたと言うことでもある。妨害と言うストレスから解放された玉井くんは気力を漲らせて全力で三振を奪い始める。それも全てど真ん中のストレートでだ。

 一軍のレギュラー打線のバットは面白いように空を切った。


「玉井チン、どうやってあのフラッシュ攻撃を止めさせたんだよ」

 チェンジになってベンチに戻ると、湯田くんが答えを教えてくれと迫っている。フラッシュ攻撃が止むのと、玉井くんが全力投球で投げ始めるタイミングが同じだったから、玉井くんが何かやったと思うのは無理もない。

 すると玉井くんは、ニヤリと笑みを浮かべてから言った。

「バックネットの客席をよく見てみろよ」

 みんなが一斉にバックネットの方に顔を向ける。

「あっ」

 バックネット裏から三塁側のベンチにかけて、さっきまで玉井くんに妨害フラッシュを焚いていた桜井ファンの一団が観客席を埋めている。とりわけ彼のファンは女の人が多い。だけどその中にみんながよく知った顔があった。

「見ろよ。藤岡がいるじゃねえか!」

 腕組をしてムッツリとした顔の藤岡学年主任がいた。その隣にはときわ文房具店のオジさんも座っている。

「お前たちが、桃三と試合をやっている頃からよく観ていたらしいぞ」

「あっセンブー、今頃来たのかよ」

 ベンチ裏のフェンス越しにセンブーが来ていた。

 SNSでしか話題になっていなかったはずの桃二と桃三の試合を藤岡先生がどうして知ったのか、センブーの話を聞くとどうやら石井先生に試合のことを打ち明けるよりも前から知っているようだった。平和の森公園少年野球場の外野席の芝から時々眺めていたらしい。さすがに今日の試合のことは知らなかったらしいが、玉井くんが初回に投げた投球シーンの動画がYOUTUBEにアップされているのを発見して、急いで観に来たのだと言う。

 ところが来てみると玉井くんが、いつもの調子じゃないことに気が付いた。そして玉井くんの投球に合わせて「せーのっ!」と言う掛け声で、スマホやカメラのフラッシュを焚いてピッチャーの投球を妨害する悪質な行為に遭遇して、注意をしたのだと言う。

 玉井くんはその様子をマウンドから見ていたから、妨害フラッシュが次からもうなくなることを確信して、いつもの全力投球に戻したのだ。

「何だよ、藤岡の野郎。自分で桃三との試合を禁止にしといてよく言うぜ」

 天敵の思わぬ援護射撃に湯田くんはまだ不満を口にしている。

「ユダマ!!文句ばっかり言ってると、俺が代わりに出ちまうぞ!」

「けっ圭樹」

 センブーの隣に現れた増田君が、湯田くんに訳の判らないあだ名を付けている。

「お前ら、今日は俺がいなかったんだから負けても仕方がねえ。次は俺がフレンダーズに入ってやるから安心しろ」

 きっと増田君は少なからず責任を感じていて、それで観に来てくれたのだろう。

 藤岡学年主任、ときわ文房具店のオジさん、センブーに増田君。この観衆でぼくたちの応援はこの四人しかいないけど、ぼくはこのとき応援の力がもたらす気分の高揚を初めて実感した。


 そして試合は最終の七回を残すのみとなった。どちらも打線はクリーンアップが終わったばかりときている。点差は一点差でも、この回の攻撃でぼくたちが三者凡退で終わったとしても、裏の攻撃で完全復活している玉井くんが打たれるはずがなかった。実際に試合は、ぼくが思った通りの展開になってぼくたちは勝った。


 監督が帽子を脱いだ。フサフサの白髪頭は蒸れて帽子の形にまとまっていたけど、なぜか変には見えない。

「今日は、一軍も二軍も死力を尽くして、よく頑張った。公式戦にも見られない良い練習試合だった。お互いに礼ッ」

 監督の締めで、ホームベースを挟んで並ぶ両軍は「ありがとうございました」と声を合わせ脱帽して頭を下げる。

 監督が勝敗のことを口にしないのにはちょっと引っ掛かったけど両軍は、どちらともなく歩み寄って握手を交わし始めた。

 ぼくの隣で玉井くんが桜井くんと握手をしている。

「今日はぼくの日じゃなかったみたいだ。中学でももちろん続けるんだろ。続けていれば、いずれまたどこかで勝負することになる。それまでは誰にも負けるなよ」

 歯の浮くような台詞を臆面もなくサラリと言ってのけた桜井くんは負けたのに、どこか上から目線だった。それに対して玉井くんの返事は、桜井くんにはそれとわからないくらいの苦笑だった。

 ぼく的には、

「今日の投球よりも全力で投げた球をうちの吉田に、スタンドインされたことがあるぜ」と言ってやって欲しかった。

 踵を返してベンチに引き上げて行く桜井くんに穂刈くんが首を傾げている。

「あいつ試合中に、玉井チンはこのままチームに加入すればいいとかイッちゃんに言ってたんだぜ。だいぶトーンが変わったな」

「自分よりスターは必要ねえってことだろ」ヨッぴんが言った。

 ぼくは握手を交わした相手にナイスバッティングとか、またやろうとか言葉を交わし合っただけなのだけど、監督が言った通りに死力を尽くして戦った相手との最後の交流の清々しさときたら、もう何でも許せそうな気分になる。ここで、実は観客の妨害行為があったなんてことを吐露したら、全てがブチ壊しになってしまうだろう。全てはそれを含めての結果だと受け止めたのか誰もそのことを言い出さなかった。

 きっと最後に互いを労うこの瞬間を体験させるために少年野球というスポーツがあるのだとしたら、その思惑にすっかり嵌まっていることになる。でもそれも悪くはない。


 親の都合で、この街に引っ越してきたぼくは、たまたま嵌まったパズルのピースに過ぎないのかも知れない。同じクラスになったイッちゃんがぼくを野球にに誘ってくれたのも運が良かっただけなのかも知れない。

 だけどぼくは思う。

 流されるその過程で、全力で自分と向き合う覚悟ができたから今がある。でなければ教室の隅からイッちゃんたちが輝いているのを眺めては自分もそうなりたい、あの輪の中に入れたらと、心のどこかで願いつつも傍観するだけに甘んじて、きっと今も普通にひとりで街を探索したり家で漫画を読んだりテレビゲームを楽しんで、それなりのリア充はあっても、そこからは何も得ることのない漫然と流れて行く日々を過ごしていたに違いない。

 大事なことは自分の意思を自分の考えで封じ込めてしまわないで、とにかくやってみることなんだと思う。考えることは大事なことだけど、やってみたその結果がどうであれ、その過程で得られるものは、それをやる前の自分がどう考えても想像の及ばないものになる可能性があるからだ。そしてその可能性は自分次第で絶対になる。


 イッちゃんと石神くんが握手をしたかと思うと互いに肩を組んで、みんなと勝った喜びを分かち合っていた。

 その光景の眩しさに目を細める。だけどすぐにぼく自身もそこにいていいことを思い出して、その輪の中に飛び込んでいった。

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