第39話 魔球
「バッター」
球審の呼びかけに湯田くんがバットを持ってベンチから出て行った。二回の表が始まる。この回から守備もバッテリーも一軍は全員がホワイトウルフズのレギュラーメンバーに切り替わっている。
「ジーマン、あのピッチャーどうなんだよ」
石神くんは、あからさまにため息を吐いた。聞かれるのも心外で残念だ、とでもいいたそうな顔を覗かせる。デフォルトで顔が怖い人は表情でものを伝えるのが上手いのかも知れない。
「あいつは大森って言うんだ。お前ら桜井も知らなかったんだから、大森のことなんて知るわけないか。まあ見てろよ」
マウンドに立っている大森くんが、練習投球をしている。彼は長身で長い足をヒョイと上げると、大股の一歩を前に踏み出し、球を握った手を地面スレスレに這うようなフォームで球を投げた。発砲音のような乾いた音がキャッチャーミットで弾ける。
「何だあれ?」みんなが声を揃えた。
「アンダースローだ。地面スレスレから浮き上がってくる球は、ちょっと厄介だぜ。球はあんまり早くねえけど、あれで変化球もなげるからな。学年も中二だから体力も十分にある。俺は大森が小6の頃からずっと見てるけど、あいつが試合で二点以上取られているのを見たことがねえ。きっと生涯防御率ゼロ点台だぜ。今日は朝から投げてるから肩も充分にできてる。これでこっちはもう点が取りにくくなるぞ」
石神くんがピッチャーの大森くんのことを熱く語っているあいだに、打席の湯田くんはキャッチャーフライを打ち上げて、たったの二球でアウトにされた。
「くそっ、球が遅いから手を出しちまったぜ。みんなアンダースローだからって、たいしたことねえぜ。落ち着けば全然いけるよ」
石神くんの話を聞いたあとだと、湯田くんの感想が実に軽く聞こえてしまうのが不思議だった。
「おい、どうしたんだよみんな黙っちゃって、あっカミちゃん本当にたいしたことねえから落ち着いて行けよ」
ぼくは一礼してバッターボックスに入った。
前を見るとピッチャーの背の高さが際立っている。やせ型の線の細さはヨッぴんに近いものを感じた。だけど表情は青白く無精ひげで、ちょっと近寄りがたい大人の目付きをしている。
一球目は様子を見るつもりでいた。
大森くんが一球目を投じる。球は石神くんの言ったようにまさに下から浮き上がってくるボールだ。これは確かに打ちにくい気がする。だけど全く手がでないというほどでもない。それはぼくたちが普段から玉井くんの剛速球を見慣れ過ぎているからに違いない。湯田くんの言っていることも納得できる。ぼくは落ち着いている。これなら行ける。バットを持つぼくの両腕は自然に反応していた。
バットはボールを捕らえたはずだった。しかし打球は明後日の方向へ飛んで行く。結局ぼくは湯田くんと同じ轍を踏んでしまった。
「だから言ったろカミちゃん、連続でキャッチャーフライはいただけねえな」
湯田くんが何だか嬉しそうに迎えてくれる。
あっと言う間にツーアウトになった。
ベンチはまだドンマイムードだけど、石神くんだけは、ホラなと言いたそうな顔をしている。ぼくの両手には何の手応えも残っていないのが不思議だった。
「みんな球が遅いからって油断しちゃダメだ」
ほとんど湯田くんと同じことを言っていた。
そして三番のイッちゃんまでもが、一球目に手を出してしまう。でも打球は上じゃなくてほぼ真下にバウンドする。その力強いバウンドは大森くんが定位置であっさりと捌いてアウトになった。
「ちくしょう行けると思ったんだけどな」
イッちゃんが首を傾げて戻ってくる。
大森くんの投げる球はやけに軽いのだ。まるでピンポン玉を打っているみたいに手応えがない。ぼくは妥当な答えを出せないまま考えごとをしながら二回の裏の守備に向かった。
一方の玉井くんはまだ模索していた。外野から見る玉井くんの姿は、桃三と試合をしていたときの七回以降を見ているようだった。この回、ホームランは打たれなかったものの四点を追加されて、これで点差は五点になってしまう。
そしてこの回以降も一軍レギュラーは得点を重ね、ぼくたちは大森くんの不思議な球に手を焼いて三者凡退を重ね、五回終了時点で遂に十五対十五になってしまった。
得点は同点だけど、ぼくたちはレギュラー陣から一点も取れず、逆に十五点を取られたのだ。次の六回で点が取れなかったらレギュラー陣にコールドされたも同然になる。あわやコールド勝ちから、たった四回の攻撃でゲームを振り出しに戻されたのだ。
監督も機嫌が良さそうに見える。こうなると、なんとかしてもう一度あの監督をイライラさせてやりたくなる。
ぼくは五回表ワンアウトの場面で打席に立った。
大森くんとの二度目の対決は結局ピッチャーゴロに倒れたけど、今回は三球まで粘ったかいがあって、ぼくは大森くんが投げる球の特長を掴むことができた。
「大森くんの球は回転が縦でも横でもないんだ」
六回の表、先頭打者のヨッぴんがベンチから出て行く前にぼくは言った。
「回転してないってことか、カミちゃん」
「回転はしてる。回転はしてるんだけど、ドリルみたいに回転して進んでくるんだ」
「それってジャイロボールってやつだ」玉井くんが反応した。
「ジャイロボール?」
「ああ、メジャーリーグとかで時々、投げる選手がいる。ヨッぴん、奴の球はなるべく真正面から叩くんだ。そうしないと打球が前に飛ばない」
ヨッぴんは、それだけ聞くと打席に向かって行った。
「玉井、真正面から打つってどういうことだよ。今イチ意味がわからねえんだけど」
石神くんが納得のいかなそうな顔で玉井くんに疑問をぶつけた。玉井くんは目を大きくして石神くんを見返す。
「お前、ルールは良く知ってても、技術的なことはあんまり知らねえんだな。しかもあのピッチャーと同じチームのくせに」
石神くんは玉井くんのお父さんがプロ球団で仕事をしていることをまだ知らない。
「うるせえな、いいから教えろよ」
「うちのヨッぴんは天性のホームランバッターなんだ。本人は意識をしていなくてもボールの下半分を正確に叩いている。その方が打球にバックススピンが掛かってボールが上に上がるんだ。だけどジャイロボールに対してその打ち方だと打球は飛ぶというより弾けちまうんだ。俺の言っている意味が解るか」
石神くんは興味津々で細かく頷いている。どうにか意味は理解しているようだ。
「だからバットの真ん中でボールの真芯を叩かないと、ミートしても前に飛ぶ力が分散されちまうんだ」
「ちょっと待てよ、そんな難しいこと吉田にできるのかよ。ってか真正面から叩けとしか言ってねえのに、あいつ何も理解してねえんじゃねえか」
今からでも遅くないからヨッぴんに詳しく教えてやれと言いたげな石神くんはベンチから出て行こうとした。だけどその心配は必要なかった。
ヨッぴんのバットから久々に快音が轟いた。
玉井くんの言った通りに忠実に真正面から叩いた打球は一直線にセンターのフェンスを越えて行った。ヨッぴんは時が止まったようなダイヤモンドをマイペースで一周する。ホームベースを踏んでベンチに戻ってきても、石神くんの口は開いたまま塞がらなかった。
このホームランに呆然としている監督や、相手ベンチの桜井くんたちの顔を見るのは痛快な気分だった。これで十六対十五。ぼくたちの一点リード。
ベンチの全員とハイタッチを重ねたヨッぴんが最後に石神くんの前に立った。放心している石神くんは慌てて両手を上げる。
「なんで、そんなことができるんだよ」
「はぁ?」
「言われたことを、そのまますぐに実行できるなら、誰だって打てるだろって言ったんだ。普通は何でそんなことを言うのか考えるだろ」
ヨッぴんが首を傾げて石神くんに顔を近づける。
「お前は、何か難しく考えすぎなんだよ」
だけどヨッぴんのように、たったひと言の助言で意図も簡単にそれを実行できる人は、そういるもんじゃないと思う。ヨッぴんは特別なんだ。
それが証拠にこの回は、ヨッぴんのホームランだけで終わってしまった。真っ直ぐに叩けばいいと解っていてもそう簡単に行くものじゃない
そして六回の裏、守備に就くのにみんながベンチから飛び出していく。
バッターボックスにはこの回先頭打者の桜井くんが入っているのを見て、ぼくは少し嫌な気分になった。
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