第37話 ピッチャー玉井。
玉井くんがいよいよ投球を開始した。
全力投球のボールが、高橋くんの構えたミットを叩き始める。ライトの守備位置にいると炸裂音が一拍あとから聞こえてくる。こんなに遠くにいてもぼくの鼓膜は共鳴する。球審を務める監督は玉井くんを見たままフリーズしている。少し前から全然動いていない。
それからぼくの耳に届いていた観客席のざわめきは、どよめきでひと休みして今はもう歓声に変っている。
あぁ、穂刈くんが言っていたことは本当だったんだ。
きっと多くの人が、ぼくが初めて玉井くんの投球を見たときと同じ気持ちになったはずだ。
彼が投げる姿をもっと眺めていたい。
どうだ!これがぼくたちの玉井くんだ。
「タイムッ」
監督がようやく動き出した。試合を中断してマウンドの玉井くんに駆け寄って行く。こんなところでいきなりスカウト?まさか、でも何か了解を取っているみたいだ。そしてショートを守っているイッちゃんにも何か話しかけてから、監督は自軍ベンチのレギュラー陣にも声を掛けてホームに戻って行った。
イッちゃんが内外野に向かって声を上げる。
「みんなっ!一軍チームは選手全員交代だってよ!これからが本番だ。締まって行くぞ!」
イッちゃんの掛け声に、ぼくらも全力で応える。勇内太州くんもミッチャも立ち上がって本気で構えだした。
監督がやっと玉井くんの実力を認めたんだ。その上で玉井くんにはレギュラー陣が相手じゃないと勝負にならないと思ったんだ。
でも今さら選手の入れ替えなんて、なんだかズルい気もするけど、これでぼくたちはリトルリーグの第一線で活躍しているチームと本気の試合に挑むことになったわけで、それはそれですごいことなんだけど、なんだかまだ実感が湧いてこない。でもこのままでいい、実感なんか湧いたりしたらきっと緊張が止まらなくなる。
試合は一回裏、ワンストライクから再開する。
得点は十五対ゼロ。この回を玉井くんが無失点で抑えればコールドゲームが成立し、ぼくたちフレンダーズが勝ってしまう。
一軍レギュラーは初回にして勝負が決する大事な局面を背負わされたのだ。それでもぼくらは何もしないまま、玉井くんがこの試合が終わらせてしまうと信じている。だから実感ができないのだと思う。
レギュラーの一番バッターが打席に立った。ぼくの守備位置からでもバッターが桜井くんではないと解る。それでも打席の選手の素振りは駒のように軽快で気力が漲っている。構えたところでピタリとバットが止まると、玉井くんがゆっくりとした投球動作から一球目を投じた。
「ストライクッ」
球審の声が外野にも届いてきた。それに続く観客の歓声がさっきよりも大きくなっている。ピクリとも反応しなかったバッターは打席を外して素振りをする。
気が付くと足元の影がだいぶ短くなっている。強い陽射しが素振りをするバッターの姿をユラユラと揺らし、ぼくは額から流れ落ちる汗をそのままにして、玉井くんの投球をワクワクしながら待っていた。
バッターが打席に戻って試合再開。玉井くんが二球目を投じる。今度はスイングするもバットは空を切る。これで三振だ。よっしゃーと、センターの勇内太州くんがミットを叩いた。
ホームでは次のバッターが打席に入いる。
一球目、二球目と前のバッターと同じ展開が繰り返された。
ところがここから異変が起き始める。三球目と四球目は球が上下に乱れてボールカウントになってしまう。
「どうしたのかな玉井くん」
ぼくは勇内太州くんに聞いてみた。彼も肩を竦めて解らないという仕草をして見せる。
「さすがに緊張してんじゃねえの」
三球目から急に?
玉井くんに限ってそれは考えにくい。きっと他に原因があるはずだ。まさかバッターにはピッチャーにストライクを投げにくくさせるコツでもあるんだろうか……。今いち腑に落ちない。ぼくの知っている玉井くんは緊張してもそれを力にするタイプだし、逃げる球を投げる性格じゃない。
玉井くんが五球目を投げた。
あっ!今までと投げ方が変わっている。
投げる瞬間に玉井くんの横顔が見えた。それは前を見て投げていないということになる。その五球目もやはりボールになった。
どうして急にあんな投げ方をし始めたのだろう。普通のキャッチボールだって相手を見ていなければ、ボールが思ったところに飛んでいかないだろうに。
「カミちゃん。心の準備をしておけよ。そろそろ飛んでくるぞ」
ぼくと違って冷静な勇内太州くんが言ったことは、その直後に現実になった。
前を見ないで投げたボールは荒れ球になる。それは球の行き先が荒れるのではなくて、コントロールができなくなりピッチャーが思ったところに球が飛ばないだけで、ときにはバッターにとって絶好球にもなってしまうこともある。
勇内太州くんはいち早くそれを理解して警戒を呼び掛けてくれたのだろう。
打球は外野に向かって高く舞い上がってきた。初回からこんな快心の打たれ方をする玉井くんを見るのはこれが初めてのことだ。
これが一軍のレギュラーと言うことなのか。
打球を追いかけるぼくの頭の中では ”井の中の蛙大海を知らず” という言葉がグルグルと回っている。これは玉井くんのことじゃなくて、もちろんぼくのことだ。
打球はフェンスにぶつかった。クッションボールを勇内太州くんがキャッチして二塁へ矢のような返球をする。ろくに練習もしていないのに肩の凄さは衰え知らずで、余裕を見せていたランナーは、あやうく二塁でタッチアウトされそうになった。監督が地団太を踏んでいるところを見ると、彼にはきっとあとで監督のお仕置きが待っているに違いない。
「ありゃ鬼だぜ」と勇内太州くんが呟いた。
そのあいだに内野陣がピッチャーマウンドに集まっていた。みんな玉井くんの肩や腰を叩いたりして励ましている。しばらくして内野陣が定位置に戻って行った。
そして玉井くんが練習投球をする。その投球はさっきまでの鬱憤を晴らすかのようないつもの剛速球に戻っている。真っ直ぐに正面を見て投げているからボールは当然、高橋くんが構えているミットに正確に飛んで行く。そして観客の歓声が起こる。 これが本来の玉井くんなんだけど……。
試合が再開して三番バッターが打席に入った。外野から見えるその姿はほっそりとしているけど、腰を据えてバットを構えるスタイルはヨッぴんのような感じに見える。
観客が俄かに騒ぎ出した。次のバッターの桜井くんがベンチから出て来たからだ。石神くんはレギュラー陣は桜井くんを除いてみんな中学生だと言っていた。それなのに、唯一の小学生の桜井くんが四番を任されている。なんて人なんだろう。体格だってずば抜けている。少年野球に高校生が紛れ込んでいるかのようだ。観客席はまるでプロ野球選手が出て来たかのような歓迎ぶりだ。放っておいたらいつまでも止まない声援に、玉井くんは落ち着いて投球動作を始めると三番バッターに対して一球目を投じた。玉井くんはいつもの剛速球を投げた。ぼくは心の中で「よしっ」と叫んでしまう。だけどその次の球は真っ直ぐ前を見て投げたはずなのに、球は大きく反れてあわやデッドボールになる寸前の暴投になった。バランスを崩した打者が打席からエスケープして、玉井くんを抗議の眼差しで睨んでいる。球審を務める監督も心なしかそんな目で見ている気がする。
だけどこの状況にぼくはもう悩んではいない。きっと他のみんなも同じ気持ちを共有している。
あの状況で前を見たまま投げれば、暴投になるのは当然じゃないか。
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