第35話 ルール
「これから一軍と二軍の練習試合を行います。うちの練習試合はいつも5回までだが、今回は特別に通常の少年野球のルールに則って7回までとする。ただし延長戦はなし。十五点差がついたらその回終了時点でコールド。本日は天候がいいから暑さで体調が悪くなったらすぐに申し出るように。それでは練習試合と言うことを意識しないで、練習は本番のようにという言葉があるように、この試合は本番だと思ってお互い全力でプレーしてほしい。ではお互いに礼っ」
「お願いしますっ」
グラウンドでユニホーム姿になって一軍の選手と対峙した緊張感は何とも言えなかった。ぼくの心臓は壊れるくらいドキドキしている。キャプテン同士のジャンケンでぼくらの方が先行になった。
先攻のぼくらは一塁側のベンチを使うことになった。後攻の一軍選手らはグローブを持ってフィールドに散って行く。
バッテリーの二人以外は、これまでの桃三との試合で見たことのある顔ばかりだけどユニホームを着ていると別人に見えるから不思議だ。
「うわっ磯村、やめろお前何やってんだよ」
石神くんが悲鳴のような声を上げた。見るとイッちゃんが石神くんのことを羽交い絞めにしている。他のみんなもイッちゃんを止めようとしないで群がっている。一体何があったんだろう。
「テメー、少年野球のルールが七回だってのを俺たちが知らないと思って黙ってたんだろ。玉井チン。こいつのこと一回ぶん殴っていいぞ。玉井チンにはその権利がある」
そうなのだ。たった今監督が少年野球のルールに則って七回までとすると言っていたのには、ぼくも少し驚いていた。桃三との試合が思い出された。彼らとは毎試合九回まで戦っていたのだ。初戦以降は全敗したわけだけど玉井くんが点を取られるのはいつもスタミナが切れた七回以降だった。もし桃三との試合が全部七回までだったら玉井くんは全試合に渡って無失点ピッチングどころか完全試合だったのではないか。
点を取られた玉井くんが責任を感じて、影でどれだけ苦労したか、それを思うと石神くんに対する視線が憎しみ混じりになる。
その玉井くんが腕まくりをする真似をしながら羽交い絞めにされている石神くんに歩み寄って行った。
「やってくれたな石神」
玉井くんは半ば血の気を失った石神くんに顔を近づける。そして言った。
「だけど今日の舞台を用意してくれたことに免じて、殴るのは勘弁してやる」
玉井くんは両手をあげた。指を鉤型に曲げている。
「その替わり俺たち全員でくすぐり地獄の刑だ!」
「うわっやめろ。それだけはやめてくれ。や、やめ……ギャハハ」
一塁側のベンチ前で石神くんに、くすぐり地獄の刑が派手に執行される。調子に乗った湯田くんと高橋くんが、石神くんのズボンと下着を下ろしにかかっている。下半身を丸出しにされた石神くんが顔を真っ赤にして本気で怒りだした。
「テメーらふざけんなよ。俺の物を見たら自信なくすぞ。やめろ湯田、俺のパンツを返せこの野郎!」
「毛も生えてないのに、この期に及んで自分の一物の自慢をするとは、たいした奴だ」
穂刈くんが楽しそうに笑っている。
この光景を主審のマスクや装備を身に着けた本人のお父さんが呆然と眺めている。これは不味い。ヤバイ。
「みんな、向こうの監督が怒り出す前に始めようよ!」
ぼくはこのまま放っておいたら、いつまでも石神くんをいたぶっていそうなメンバーを止めて、一番バッターの湯田くんにバットを手渡して背中を押す。
守備位置に就いている一軍ナインも笑いをかみ殺している。
いたたまれないぼくは、湯田くんをバッターボックスへと促してネクストバッターズサークルで腰を屈めて無関係を装う。
ベンチではようやく騒ぎが収まって石神くんは半べそでパンツとズボンを上げていた。
「プレイボールッ」
監督の厳粛な声がフィールドのおかしな空気を一掃した。
湯田くんが子供らしからぬ大袈裟な咳払いをひとつして打席に立った。
ピッチャーが一球目を投じる。
ボールがキャッチャーミットを叩く乾いた音をフィールドに響かせる。その直後に監督が「ストライクッ」と宣告する。
「タ、タイムッ」
湯田くんがたまらずタイムを要求した。ピッチャーの球の速さに面を食らって思わずタイムを要求した。ぼくにはそんな風に見えた。少なくとも監督にはそう見えたに違いない。マスクを外したその素顔にどこか満足したような笑みが零れている。味方の一塁側ベンチも時が止まったかのようにみんな固唾を飲んで黙っているような感じだ。
湯田くんは走ってぼくのところにやって来た。それも深刻な顔をして。
「カミちゃん、ベンチ見てみろよ。イッちゃんもヨッぴんも度肝を抜かれたような顔をしているだろ、あいつら球団より劇団に入った方がいいかもな」
「みんなやり過ぎだよ、でどうだったのあのピッチャーの球」
「玉井チンの百分の一だな、まぁ見てろよ」
湯田くんはいつでも物事を大袈裟に表現する。穂刈くんが湯田くんの言うことは話半分に聞いておいた方がいいと言う。それが本当でも五十分の一だ。果して本当のところはどうなんだろう。ぼくの位置からは、よく解らないけど相当に速そうだった。
ピッチャーが二球目を投じた。
その直後、金属バットがボールを叩く音を聞いた。フルスイングした湯田くんは自分の打った打球の行方を追わずに、ぼくのことを指さしながら一塁に向かってゆっくりと走って行く。どうだ本当だっただろう、というドヤ顔をしている。
いきなりのホームランにぼくたちのベンチは石神くんを置いてきぼりにして大はしゃぎだ。三塁ベースを回った湯田くんは相手チームの前で派手にガッツポーズを決める。
「二番バッターッ」
ベンチに戻ってどつき回される湯田くんに見とれていたぼくは、主審に呼ばれ慌てて打席に向かう。主審は少しイラついているように見える。それもそのはずだ。ピッチャーの一球目を見た湯田くんが、ぼくらのベンチも含めて、球の速さに驚いていると思わされていたのだから。
調子に乗った湯田くんの大きな声が聞こえてくる。
「多分、サービスで遅い球を投げてくれたんだよ。きっとこれから本領を発揮してくるぜ」
ぼくはバッターボックスに入る前に一礼をしたけど、とてもじゃないが主審の顔を見ることができなかった。
早くも両方のベンチが盛り上がりだしている。いきなりホームランを打たれたピッチャーは眉間にシワをよせて険しい顔でぼくを睨んでくる。三塁側ベンチの激励はレギュラー陣の声援だ。彼らには桜井くんも含めてまだ余裕が感じられる。
「カミちゃん、ピッチャーたいしたことねえぞ遠慮しないで打っちゃえ」
湯田くんは大体どんなときも歯に衣を着せない。悪く言うと品がない。ぼくは余計にいたたまれなくなって益々、恐縮してしまい一球目は手を出せなかった。
「ストライクッ」
主審の掛け声は、最初と比べてどこか感情的に聞こえるのは気のせいか。
だけどぼくは、この一球目を見て冷静になることができた。相手ピッチャーの球は確かに速い。野球を始めた半年前だったら打てる気なんて全くしなかったはずだ。ぼくはこのときほど玉井くんの凄さを実感したことはない。玉井くんはどんな顔をして、相手のピッチングを見ているだろう。
「ストライクツー」
こんな時に余所見をしたのが悪いと思い反射的に主審に頭を下げた。監督は一瞬キョトンしたが察してくれたのか、少し穏やかな表情になった気がする。もしかしたらぼくがピッチャーの投球に怯んでいると思ったのかも知れない。
ぼくは追い込まれたけれど気持ちには余裕があった。湯田くんの言葉は穂刈くんが言った話半分どころではなかった。このピッチャーは速い。だけど玉井くんには遠く及ばないことは確かだった。
ボール球をひとつ挟んでからの四球目。ぼくの振り抜いたバットは球を真芯で捕らえた。打球はピッチャーの脇を抜けて、センター前ヒットになる。連続安打にこれまた両ベンチが盛り上がる。考えてみるとヒットを打つのはこれが初めてだった。しかも会心の当たりだ。すぐ近くの一塁ベンチからナイスバッティングの声が幾つも聞えてくる。ぼくは照れてしまいベンチ側に頭を下げながら半ば上の空になって一塁に向かって行った。まるで地に足が着いていない。
ぼくは次のバッターのイッちゃんが打席に入ったのも認識していなかった。
気が付くとそのイッちゃんが突如、ぼくの前に迫って来ていた。
「カミちゃん何やってんだよ。早く回れよ」
「うわっゴメン」
イッちゃんもヒットを打ったのだ。ぼくは慌てて二塁に向かってダッシュをする。ヤバいと思ったぼくはヘッドスライディングで二塁に滑り込んだ。タッチはされていない。どうやらアウトにはならなかったようでホッとする。ユニホームに着いた土を払いながら立ち上がると、またしてもイッちゃんが目の前に迫っている。しかも笑っていた。
「カミちゃん、ホームランだよ。ホームラン」
辺りを見渡すと笑っているのはイッちゃんだけじゃなかった。守備に就いている相手選手も笑っている。一塁側ベンチに限っては腹を抱えて笑っている始末だ。ホームインしてベンチに戻るとイッちゃんと一緒にもみくちゃにされた。
ホームベースを踏んだとき、主審を務めるマスクの下の監督の顔は、怒りに震えているようにしか見えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます