第32話 落とし穴

 一日で一番長い5時間目の授業があと5分で終わろうとしていた。

 給食がカレーレイスの日は、その満腹感と満足感とが心地よい睡魔を誘う。ひとしきり睡魔と戦うこと30分。睡魔が去ったあとは野球の練習が待ち遠しくなって、やはり授業に集中できなくなる。きっとみんなも似たような理由で授業に集中できないのではないかとぼくは思う。完全に寝入っている高橋くんのことを石井先生は見向きもしない。もしかしたら先生も同じように思っているのかも知れない。

 それからしばらくしてやっと気の遠くなる時間が終わりを告げ就業のチャイムが鳴った。

 今日の日直が「起立」「令」「着席」と号令をかける。ぼくたちは一斉にランドセルを机の上に叩きつけ教科書やノートを仕舞い込む。

 授業が終わった途端に時計の針は加速度を増すから不思議だ。

 確認をすると、5時間目が終わってから早くも10分が経過している。さっさと帰りの会を済ませたいのに、石井先生の遅々とした動きに苛立ちを覚える。

「先生、早く終わりにしようぜ」

 群がる女子と談笑を始めていた石井先生に向かって湯田くんが言い放った。夏休みのあいだに横浜に引っ越した彼は他の誰よりも通学時間が掛かる。だから湯田くんには堂々とそれを言う権利がある。ぼくは心の中で湯田くんに快哉を送る。と言っても彼は真っ直ぐ家に帰るはずもなく。センブー塾に行ってそのあとはぼくたちと野球の練習をするのだけど。

 ようやく石井先生が腰を上げる。あぁやっと終わってくれる。

 しかし予期せね展開というのは、いつだってこんなタイミングでやって来る。

 ガラッと、ひと際大きな音を立てて教室の扉が開いた。

「藤岡先生っ」

 予期せぬ学年主任の来訪に石井先生は素っ頓狂な声をあげてバネ仕掛けのように立ち上がる。

「ちょっといいなか」

 藤岡学年主任はまるで自分の教室のような立ち振る舞いで教壇に辿り着くと僕たちに向いて、おもむろに眼鏡吹きをとりだして自分が掛けている眼鏡を吹き出した。そんなことをしていても藤岡学年主任は、呆気に取られている教室のみんなの顔を1人づつ確認にしている。こないだ体育館で見せたときと同じ顔をしている。きっとまた何かの不祥事が発生したに違いない。

「このクラスの松信が休んでいる理由を石井先生はご存じかな」

 藤岡学年主任は生徒の方に顔を向けたまま言い放った。

 石井先生が首を傾げながら応える。

「はい、今日は松信君は、体調が悪いということで連絡をもらっていますが」

 マッちゃんはあの事件以来、学校を休んでいた。と言ってもまだ二、三日なんだけど。あれから病院に行くとは言っていたけど、それからどうしているのか、ぼくたちもまだ何も知らなかった。

「松信は、入院していますから当分のあいだ学校には来れませんよ。石井先生」

 藤岡学年主任は石井先生に顔を向けて言った。

「鼻と肋骨の骨折で全治四週間はかかるそうだ」石井先生が両手で口を覆う。

 まさか骨折していたなんて、マッちゃんが殴られていた現場をリアルに思い出したぼくはみっともなく狼狽えてしまったのかも知れない。この教室に来てからずっとサーチライトのように巡回している藤岡学年主任の鋭い視線が、ぼくを捕らえているのがわかる。僕は頑なに石井先生を見ていた。

「松信が入院している病院から学校に連絡が入った。まあ連絡と言うよりは通報に近い。入院の直接の理由は骨折だが、他にも胸や背中には長期にわたる暴行のあとがあるそうだ。これは日常的な暴行によるものだというのが医師の見解だ。本人はなぜそんな怪我を負っているのか頑なに口を閉じているらしいが、これは非常に由々しき問題だ。長期にわたる暴行がどの程度の長さなのかまだハッキリしていないが、普段一緒のクラスで生活している生徒が、気付いてないはずがない。と私は思っている、そこで聞くが、松信の怪我について何か知っている者がいたら手を上げてくれ」

 沈黙の中、ぼくを含めて誰も手を上げる者はいなかった。

 少なくとも、イッちゃんとぼくはその理由を知っている。それでも黙っていなければならないのが辛かった。見方によってはクラスのみんなで寄ってたかってマッちゃんをイジメていると思われても仕方がない。

 藤岡学年主任は握りこぶしに咳ばらいをひとつ落とした。

「今ここで言い難いなら、あとからでも私のところへ来るように……」

 あれ?雷が落ちるような雰囲気だったのに藤岡学年主任にしてはちょっと拍子抜けな感じがする。いやこの先生がこのまま終わりにして帰るはずがない。

「それからもうひとつ、松信の入院している病院に、うちの学校の卒業生が松信とほぼ同時期に3人も入院したらしい。この3人は松信よりも重傷だそうだ。最初に6人運び込まれたが、そのうち3人は入院するほどでもなかったらしい。これは単なるケンカらしいが、この3人も同様に事情を話さないらしい」

 その6人は、あのときの中学生だということは間違いないとして、よりによってどうして同じ病院に入院するんだろう。

 藤岡学年主任は教壇に両肘をのせて前かがみになるとズレた眼鏡を人差し指で直した。ぼくはもう知っている。藤岡学年主任のこの仕草が怒りを増幅を抑える仕草だと言うことを。今日の本題はここからに違いない。

「その単なるケンカがあったブロードウェイのゲームセンターの裏に、磯村、お前も一緒に居たそうじゃないか」

 さりげなく、そして決めつけた言い方だった。だけどどうしてイッちゃんの名前をここで出してくるのだろう。その現場には、マッちゃんもぼくもいたのに。

「どうなんだ磯村」

 以前穂刈君がこんなことを言っていた。藤岡は当てずっぽや見切り発車で、鎌をかけるようなことは言わないぜ。だからあいつが口にすることはハッタリなんかじゃなくて事実だと思って掛かったほうがいい。裏だって取れるとこまで取っているはずだ。俺たちをガキだと思って曖昧な誤魔化し方をする大人とは訳が違う。まあだからこそ対処の仕様もあるんだけど……。

 藤岡学年主任の声は、感情的な含みはほとんどなく、まるで道でも訪ねているかのように普通の話し方を保っている。これはこれで対イッちゃんに向けた戦略なのかもしれない。だけどこの静けさが逆に嫌な感じを醸し出しているのも確かだ。

「磯村、聞こえなかったのか」

 イッちゃんは眉根を寄せた。このまま黙っていたらそれを認めるような雰囲気だ。

「何のことかわかりません」

 イッちゃんは、そう答えた。

「おかしいな、ケンカがあった現場の前で店をやっている人が警察に通報したんだがその現場にいた連中のひとりがお前の名前を叫んだと証言しているんだぞ。これでも白を切るのか?」

 やはりほとんど決定的な証拠を掴かんでいるんだ。藤岡学年主任は自信満々の寄せに入って、この手をどう引っくり返してくれるのか次のイッちゃんの手を楽しみにしているような顔になっている。

 「磯村遅えぞ」あのときの状況と圭樹の声を思い出した。

 頑なに警察沙汰にはしないと、センブーやときわ文房具のオジさんが計らってくれたのに実際は、思いもしない所から既に通報が入っていたのだ。

 イッちゃんはそれでも知らぬ存ぜぬを貫くしかなかった。言ってしまえば圭樹のことまで明るみになって、マッちゃんはもちろん、このケンカのそもそもの原因にまで及んでしまう可能性が高い。

「お前、仲間でも守っているつもりなのか?俺の目にはこのクラスの何人かは真相を知っているように見えるけどな。まあ重傷で入院している連中もかなりの問題児らしくてな、訴えたりすることはないようだが」

 少し落ち着いた口振りを取り戻していた藤岡学年主任のヒートアップは第二波に突入する。

「磯村っ、黙ってりゃあ何でも思い通りに行くと思ったら大間違いだからな。白を切りとおすならそうやって最後まで黙ってろ。いいか俺がそのうち全部明るみに引っ張り出すからな。そのとき引っ掛かってきてみろ。お前だけは絶対に許さんからな。よく覚えてけ!」

 イッちゃんは黙ったまま藤岡学年主任と睨み合っていた。石井先生がふたりのあいだにハエのような視線を彷徨わせている。

 藤岡学年主任は怒り心頭で教壇を平手で叩くと、踵を横に向けて教室の出口に向かい、扉を勢いよく開けたところでこっちに振り返ってから最後に爆弾を用意していた。

「あぁ、それともうひとつ」藤岡学年主任はうっかり言い忘れたように付け加える。「お前たち、桃三の生徒と野球の試合をやっているらしいじゃないか」

 石井先生がハッとした顔をする。おそらく石井先生が話したんだろう。

「磯村がそのケンカに関係していないことがハッキリしないうちは他校との交流は禁止だ!わかったな」

 これには他のみんなも黙っているわけにはいかなかった。玉井くんや湯田くんも立ち上がって抗議するも藤岡学年主任は「以上」と言い残してから立ち去って行った。

 突然ふって湧いたこの事態に、ぼくたちは呆然とするしかなかった。

 こんな形で、あの事件が影響してくるなんて。










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る