第31話 覚醒
ぼくたちは桃三との試合に向けて練習を再開した。
ときわ文房具の事件で骨折を伴うケガをしたマッちゃんは試合には出れなくなってしまったけど、その代わりに虫垂炎で入院していた三ツ谷くんが全快してチームに加入した。もちろんセンブー塾にも復帰している。みんなからは「ミッチャ」の愛称で呼ばれている。
そのミッチャは、ついこないだまで入院していたとは思えないほど俊敏な動きを見せてくれた。打撃のセンスも肩の力もイッちゃんやヨッぴんに負けないくらいの実力を持っている。それに加えて練習している時の表情や体の動きが実に絵になっている。運動神経がいいと言うのはこういう人のことだと思わされる。ぼくはミッチャがボールを持つとある種の期待感をもって見入ってしまうのだ。女子が嬌声をあげるのもわかる気がする。
「カミちゃんも見違えるほど上手くなったし、勇内太州の肩も健在だし、これでミッチャが入ってくれたから、外野は万全だな」
と玉井くんが言ってくれたのは本当に嬉しかった。
外野の守備は見た目ほど単純じゃない。外野の三分の一はぼくのフィールドだ。夏休みのあいだにとにかく走ったのがよかった。打球に応じて自然に身体が反応するようにもなってきている。
「よーし、今日はこの辺で終わりにしよう」
センブーが終わりを告げると、内外野に分かれて練習をしていたみんなが、ホームに集合する。それぞれがグローブを片付けると、みんなは当然のようにバットを用意する。玉井くんだけはグローブをはめたままマウンドに向かう。
恒例の本気の一球勝負が始まる。
ぼくは密かにこのときを楽しみにしていた。
夏休みの後半、連日のように通ったバッティングセンターで130キロの速さの球ならなんとかミートは出来るようになっていたからだ。球速だけで言えバッティングセンターの130キロは玉井くんの投げる球と同等かそれ以上だ。だから今のぼくなら最低でもバットには当てられるという自信がある。
最初の打席に立ったのはいつもの通り湯田くんだ。
「真っ直ぐの、ど真ん中にしか投げないからな」
玉井くんはそう言うと軽い感じで投球モーションに入る。
玉井くんがボールを投げるのを見るのは久々だった。夏休みのあいだに玉井くんはかなり背が伸びていた。それだけじゃない胸板もだいぶ厚くなっているのが解る。そしてビルドアップした玉井くんの投げたストレートは湯田くんのバットに掠りもせずに高橋くんのキャッチャーミットに突き刺さった。
ぼくは目を疑った。それはキャッチャーの高橋くんも湯田くんはもちろん、次に控えている穂刈くんやイッちゃんもヨッぴんもセンブーも同じだった。
本物の驚きは時間を止める。ぼくの自信は一瞬で吹き飛ばされた。玉井くんのボールが打てるかも知れないなんて、少しでも自信を持ったことが恥ずかしくなる。
一体何なんだあの球は、速いとかそんなレベルじゃない。
球が生きている。
そんな表現しかできない。玉井くんは夏休みのあいだに一体どんな練習をしたのだろう。
次の打席に入った穂刈くんもバットに当てることは出来なかった。
次はイッちゃん、ヨッぴんと続く。いつもならここで玉井くんのギアが一段上がるところだ。
「手加減するなよ」
バッターボックスに入ったイッちゃんは構えたバットの先を玉井くんに向けて言った。
玉井くんはコクリと頷くと、本格的なワインドアップの動作から入る。
その球はバッティングセンターのマシンが放つ球とは明らかに質が違うものだった。高橋くんの球の受け方がいつもと違っている。関取のような体格を生かして下からくる球を押さえつけているようなキャッチの仕方だった。
「すげぇ玉井チン」
玉井くんの投球にイッちゃんは動かなかった。バットを振ることを忘れていたかのようだ。頭を傾げているイッちゃんがバッターボックスから外れる。でもイッちゃんの顔は悔しいと言うよりも嬉しそうだった。
次はヨッぴんがバッターボックスに入る。
「イッちゃん、どうだった?」ぼくは感想を訊いてみる。
「この夏、一番成長したのは間違いなく玉井チンだな。悔しいけどあんな球打てる気がしない」
「先生もビックリしたぞ、こりゃ本当に将来が楽しみだな」
大人のセンブーまで手放して褒めている。湯田くんや穂刈くんも口々に玉井くんの凄さを語りだした。ところがその直後だった。
物凄い快音が響く。
センブーが弾かれたように空高く舞い上がった打球を見上げる。
またしても時が止まる。
打球がセンターの向こう側に消えて言った。
「よっしゃー!」
ヨッぴんが渾身のガッツポーズを決める。
玉井くんの成長ぶりにぼくたちは驚嘆していた。イッちゃんでさえその投球に魅入られてバットを振ることができなかった。こんなに凄い人がぼくたちのピッチャーだと言うことに胸がゾクゾクするほど嬉しくなってくる。きっと次の試合に出てくると言う、リトルリーグのスーパースターの桜井くんにだって打てるはずがないと確信できるほど玉井くんの投げる球は凄かった。それなのにその玉井くんからヨッぴんがホームランを打ってしまったのだ。
これ以上ないと思える「凄い」がもうひとつ現れたのだ。
溢れだす感情が受け止めきれなくて涙すら出そうになる。
ぼくたちはまるでヨッぴんがサヨナラホームでも打ったかのように喜びを爆発させて叫んでいた。
打たれた玉井くんも高橋くんも両手を突き上げて叫んでいる。
「吉田、何だかずいぶんスイングが洗礼された感じだぞ。どこかで特別な練習でも受けて来たのか?」
センブーはまだ顔が引きつっている。
「別に特別なことでもないんだけど、夏休みにこのグラウンドでカミちゃんにノックをしたときに、何て言うかパットコントロールのコツが解ったっていうか……」
「何だよヨッぴん、あのときかよ。俺にも教えてくれよ」
と湯田くんがヨッぴんに食いつく。
「口じゃ説明できねえよ」
ならばと湯田くんは、バットを持ちだして今からノックをしようとわがままを言い出した。
「湯田、ノックしたからって誰でも吉田みたいになれるわけじゃないぞ。吉田はみんなのいないところでもきっと沢山練習してるんだ。その積み重ねがあったからノックは切っ掛けに過ぎなかったんだと思うぞ」
センブーが何とか湯田くんを説き伏せて玉井くんとの一球勝負は再開したが、あとのメンバーはぼくを含めてミッチャも空振りで終わった。
打席に立って目の当たりにした玉井くんの球には改めて驚かされる。
手元の辺りで球が浮き上がった。しかも浮き上がったのは球だけじゃない。球の周囲の大気も巻き込んでいるように感じるから不思議だ。それは空気の壁になってバッターのぼくに迫ってきた。ぼくは身体を反らせて妙な態勢でバットを振った。
「カミちゃんビビり過ぎだって、そんなへっぴり腰じゃ当たらねえわ」
キャッチャーミットを外して赤くなった手の平をヒラヒラと振りながら高橋くんが言った。
玉井くんはやっぱり凄い。
この日、ぼくはどれだけ玉井くんが凄いのか、家に帰ってお母さんに話し続けてしまった。お母さんも最初のうちは、ぼくの話を聞いてくれたけど、最後には少しうんざりしているみたいだった。
もしかしたら、リトルリーグのスーパースターの桜井くんに打たれるかもしれないという、ぼくの心配はすっかりなくなっていた。
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