第26話 事件

 ぼくら6年3組は演壇からだいぶうしろの方に陣取ることになった。

 体育館は既に先生と生徒で一杯だった。何かの学校行事とは違い、椅子は出ておらず生徒はみんな体育すわりで背を丸めている。

 生徒は4年生から6年生までだけど先生らは勢ぞろいで、一様に神妙な顔つきをしている。

 生徒たちは困惑の表情を浮かべるも、どことなく他人事のような無責任な素振りで沈黙しながらも時折、体育館の時計を気にしたり仲のいい友達と目配せをしている。

 間もなくして最後のクラスも体育館に入ってきた。

 それからしばらくして6年の学年主任の藤岡先生が演壇に上がった。

 藤岡先生は座っている生徒をゆっくりと睨みつけるように見渡していく。

 そしてマイクのスイッチを入れずに、よく通る大きな声で話し始めた。

「今日、5時間目の授業を返上してここに集まってもらったのは、みんなに知っておいてもらいたいことが起こったからだ。あるいは特定の生徒に対しての呼びかけでもある。だからよく聞いてもらいたい」

 藤岡先生は生徒全員の顔を確認するようにゆっくりと端から端まで顔を廻らせて、全員の注目が隈なく自分に注がれているのを確認してから、ひとつ息を吐いて話しを切り出した。

「今、この体育館にいる生徒で、この学校の前にある、ときわ文房具店で文房具や、何かを今まで一度も買ったことがない生徒はいないと思うが、もしいるなら手を上げてみてくれ」

 そんな生徒がいるわけがない。

 ときわ文房具店は、学校指定の文房具店で登校時には、いつも何人かの生徒が出入りしているのを見かける。今、ぼくが履いている上履きから、縦笛、水着なんかも全部ときわ文房具店で買ったものだ。

「一人もいないってことは、ここにいる全員が多少なりとも、ときわ文房具店で買い物をしたことがあると言うことだ。学校側も今君たちが履いている上履きや授業で使う教科書や縦笛なんかを指定してわざわざ仕入れてもらったりして日頃から大変世話になっている。君たちの中には、うっかり忘れていた鉛筆やノートが買えて助かったという経験をした者もいると思う。ときわ文房具店は学校にとっても君たちにとっても、なくてはならないとても大切な存在だということは、ちょっと考えれば判るな。今、私が言ったことの意味が解らない者はいるか、いるなら手を上げてみろ」

 藤岡先生の口調が荒くなってきていた。この雰囲気の中で手を上げるには相当な勇気を必要とするだろう。上げようものなら藤岡先生にこの場で嬲り者にされそうな勢いだ。もっともときわ文房具店はぼくたちにとって大切な存在なのは言うまでもないことだから、この場で手を上げる生徒は皆無だった。

 藤岡先生の荒い息遣いが、うしろの方にいるぼくにも聞こえてきそうだった。目元が赤くなっている。

「今日の朝のことだ。文房具店の一か月分の売り上げ金が入った集金バッグが、少し目を離した隙になくなってしまったそうだ。誰が持ち去ったのかは未だに判明していない。そのとき慌てて外に出てみると、走り去っていった人影を目撃したそうだ。背格好は少年のようだったと言っている。その少年が持ち去ったのかも解らないままだ。この学校の生徒とも限らない。がしかし、もしそうだとしたら現金の入った集金バックを返してくれれば警察沙汰にはしないと言っている」

 それまでの沈黙が一気に決壊してザワザワとしだした。藤岡先生はこのザワ付きを壇上から被せるように大声を張り上げて続ける。

「いいか!一か月分の売り上げ金がなくなると言うことが、どういうことか君たちには想像が付きにくいかも知れないが、明日から店を開くことができなくなってもおかしくはないんだぞ。ノートや鉛筆が万引きされたのとは訳が違うんだ。それくらいの大金なんだ。私は多少なりともこの件に関して何か知っている者が、この中にいてもおかしくはないと思っている。このあとでもいい、家に帰ってからでもいい、何か知っている者は私か担任の先生に必ず連絡してくるように。いいか時間はあまりないぞ、いつまでも警察に届けないわけには行かないんだからな、警察沙汰になって発覚したら人生を棒に振ることになるぞ。くれぐれもそんな道は選ぶなよ」

 あまりにも衝撃的な事実にぼくは放心してしまい、そのあと藤岡先生が何を話していたのか、あまり覚えていない。

 転校してきたばかりのころ、ときわ文房具に立ち寄ったときのことを思い出していた。ノートを買うつもりだった。手に取ったノートをレジに持って行った。そのときになってレジ横に並べてあるシャープペンの替え芯を見て、芯を切らせていることに気が付いた。だけどあのときのぼくはノートと替え芯を一緒に買えるお金を持ち合わせていなかった。どちらかを諦めなければならない。友達ができた今なら替え芯なんて簡単にもらえるだろうから迷わずノートを選択していたけど、友達がいないあのときのぼくは替え芯を諦めれば字が書けない、ノートを諦めても字が書けない状況だった。そんな迷いを抱えてぼくはレジの前で佇んでいた。

「お金が足りないなら明日でもいいよ」

 レジの前に座っているオジさんが優しい眼差しでそう言ってくれた。ぼくは心見透かされたみたいで恥ずかしくなった。

「よくあることだよ。店に来て他の物を見ているうちに買わなきゃいけない物を思い出すんだろ」

 あの優しいときわ文房具店のオジさんが、ぼくの中で弱り切った顔に替わってしまった。優しくしてくれたのはもちろんぼくにだけじゃないはずだ。周囲を見渡すと、青褪めている生徒もいる。みんな一様にショックを受けているんだ。

「今日はこれで解散する」

 話が終わっても藤岡先生は壇上から下りてこない。生徒の表情を鋭い視線で観察している。時々眼鏡を人差し指で直しながら、特にぼくらのクラスには怖い顔で睨みつけているように見えた。


 ぼくたちはいつものように一度家に帰ってから、センブー塾でまた顔を合わせる。

「藤岡の野郎、本当にマジでムカつくぜ。あの禿げ頭、犯人は絶対に桃二の生徒だって決めつけてるぜ」

 髪の毛を真っ黒に染め直してきた湯田くんだけは、家が横浜だから一度帰るわけには行かない。従って彼だけはまだランドセルを持っている。

「あいつ解散て言ってから、ずっと俺たちの方しか見てなかったよな」

 と高橋くんが続く。これには穂刈くんも同意のようで、いつものように突っ込まないで黙っている。

「でも、お前たちじゃないんだろ」

 センブーが言った。

「当たり前じゃんかセンブー、少なくとも俺たちの中でそんなことする奴はいねえよ」

 珍しく玉井くんが感情的になっている。

「磯村、お前はどう思ってるんだ」

 ずっと腕組をして黙っていたイッちゃんにセンブーが問いかけたけど、イッちゃんは口を開かなかった。どこか一点を見詰めたままじっと動かない。

 なぜかイッちゃんは既にこの事件の大筋を予想できるパーツを持っていてあとはどう繋ぎ合わせればいいのか考えているような感じに見える。少なくともイッちゃんの中では容疑者が浮かんでいるみたいだ。

「玉井チンが言うように、俺たちの中に犯人はいない」

 イッちゃんはきっぱりと否定したけど、どこか含みのある言い方が残した違和感が教室内に静かに伝播していく。

「イッちゃんは心当たりがあるんだろ」

 窓際に座っている長谷川くんが言った。

 長谷川くんは学校が違うから、桃二の騒ぎで授業が中断するのは迷惑なはずなのに、案外面白がっているようだ。

「うん。まだ事件と関係があるかどうかも解らないけど、気になる奴らがいてさ、もしそいつらが関係してそうだったら、みんなとセンブーに相談するよ。俺、今日は帰るわ」

「そうかくれぐれも無理はするんじゃないぞ、磯村」

 センブーはいつもぼくたちの主体性を尊重してくれる。イッちゃんはセンブーが見守る中、さっさと帰り支度を済ませて教室から出て行った。そのあとも教室内は事件のことで持ちきりになって学習にはならなかった。

 珍しく野球の話をすることもなかった。

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