第25話 帰りの会

 最近は目覚まし時計の力を借りなくても、朝の五時には起きれるようになった。野球の練習をガッツリすると夜の九時前には瞼が重くなってくる。底なしの吸引力をもつ深い眠りは疲れたぼくの身体を満タンにするのが、その分早くなるのかも知れない。

 ぼくは着替えるとランドセルを持って一階に下りる。リビングに入る前に早朝練習から戻ったら、すぐに学校に行けるように玄関にランドセルを置いておく。

「お父さん、おはよう」

 リビングではお父さんが家族共用のパソコンの前に座っていた。両手は忙しなくキーボードの上でダンスをしている。時刻は朝の五時十五分。グレーのスラックスに白いYシャツ姿は少しくたびれて見える。この時間お母さんはまだ寝ている。お父さんはぼくの掛け声に振り返るとネクタイを緩めた。

「貴之、ごめんな。お父さん仕事で徹夜だったんだ」

 じんわりと青くなった顎をさすりながら申し訳なさそうな顔をしている。

「うん、大丈夫だよ。一人で行ってくるから」

 落胆する気持ちにはすぐに折り合いがついた。

 それならそれで今日は走ることにしよう。

 家から外に出ると新呼吸を一つする。九月になっても暑さはまだ続いている。朝の新鮮な空気は都心とは思えない緑の匂いがした。ゆっくりと走り出す。センブー塾の前の十字路を左に曲がる頃には、紅葉山公園に行ってグラウンドでダッシュをすることに決めていた。取り敢えずは学校方面を目指して少しピッチを上げる。

 引っ越しをしてきたばかりの頃は、この辺りをあちこちとひとりで探索した。もう随分昔のことのようだ。今では方向感覚も備わっているから知らない道に入ったとしても迷子にはならないだろう。

 そう思うと自分はすっかりこの街の住人になったんだという実感が湧いてきてリラックスして走れている自分に嬉しくもなる。

 道ですれ違う早起きのお婆ちゃんとごく自然に、おはようございますと挨拶を交わし合った。すっかり地域に根差している自分に満足する。

 やがて学校が見えてくる。

 校門は開いているが、人の気配はない。まだ静まり返っている校舎。外から見える下駄箱はまだ生徒の上履きで埋まっている。あの中にぼくの上履きも入っている。

 校門の前でしばらくリズムを取っていたぼくはまた走り始める。校舎の時計は五時半過ぎを指していた。

 ここから紅葉山公園に向かう。

 住宅街の中を何度か曲がって坂を登りきると紅葉山公園が見えてくるはずだ。自然と足の回転が速くなる。上り坂の頂上に見えている歩く人影を目標にして走る。その人影は少しのあいだ見えなくなったが、坂を登りきるとまだ近くを歩いていた。

 紅葉山公園はもう目前に迫っている。その歩いている人を追い抜くときになってようやくぼくはランドセルが目に留まって、それが誰だか気が付いたのだ。

「マッちゃんっ!どうしたのこんなに朝早く」

 いきなりうしろから声を掛けられたせいか、ギョッとしたマッちゃんの両肩が飛び跳ねる。そして目を丸くしてぼくの身体を上から下までスキャニングした。

「なんだカミちゃんか、朝から走っているんだ。こっちは親父の鼾がうるさ過ぎてさ、どうしようもないから早めに家を出たんだ」

「なんだ、でもまだ早いから一緒に紅葉山公園に行こうよ」

 と言いつつ、早めに家を出たと言うのは少し不自然な気がした。

 ランドセルを持って早めに出たと言うのに、マッちゃんは学校に背を向けて歩いていた。早朝過ぎて紅葉山公園で時間でも潰そうかと思っていたのか?

 マッちゃんには特殊な事情があるのをぼくは知っている。以前ぼくの家でシャワーを浴びている痣だらけのマッちゃんの背中を思い出した。ぼくは何も聞かずに二人で紅葉山公園に行くとぼくは誰もいないグラウンドを走り始めた。

 マッちゃんはベンチに座ってそれを見ていてくれた。

 ぼくは何本もダッシュを繰り返した。仕舞いには息が上がって両膝に手を付いて呼吸を整えていると、いつの間にかマッちゃんが側まで来ていた。

「前のときに比べたらだいぶ走れるようになったんだね。カミちゃんは凄いや。でもそろそろ時間だから一旦家に帰ろうか」と言った。

 公園の時計を見るともうすぐ七時になろうとしている。

「そうだね。じゃあまた学校で会おう」

 ぼくたちは互いの家に向かってこの場で別れることにした。


 今日は朝から校内の様子がどこかいつもと違っていた。

 具体的に何がと言われると、ちょっと答えにくい。

 朝礼も普通にあったし、授業もいつも通りだったし、給食は大好きなブドウパンだったし、昼休みには校庭でドッジボールまでやった。

 だけど昼過ぎの五時間目の授業の時間になっても石井先生が教室にこないことで、なんとなく変だという感じが、少しづつ姿を現してくる。それはクラスのみんなも感じていたらしく、ひとりが口にし出すと途端に教室はざわめきだした。

「今日の石井先生、ずっとソワソワしていたよね」

 女子の誰かがそう言うと、みんなも勝手な憶測を口にし始める。

「石井先生の親戚かだれか死んじゃったんじゃない」

「それだったら、今日一日休むとか、早引きしてるでしょ」

「あっ三ツ谷君が入院先の病院で、容体が悪くなったとか」

 三ツ谷くんとは、六年三組の生徒なのだけど、彼は五年生の夏からアメリカにホームステイをしていて、今年の夏休み中に帰国していたらしいんだけど、帰国後すぐに盲腸炎で入院してしまったのだとか。しかも三ツ谷くんはセンブー塾の生徒でもあるらしい。もちろんぼくはまだ一度も会ったことがない。

「ミっちゃんなら、もう退院してるよ。明日には学校に来るって言ってた」

 と言ったのはイッちゃんだった。

 このイッちゃんの情報に何人かの女子が色めき立って嬌声を上げる。もう今日の学校の雰囲気なんてどうでもいい感じだ。三ツ谷くんという人はかなりの人気者らしい。

 そこへようやく石井先生が教室に入ってきた。顔色があまり良くないみたいだ。と言うよりもなんだか険しい顔付きをしている。さては本当に先生の身内に何かあったのかと、少し心配になってくる。

 日直が号令を掛けようとしたけど、先生はそれを制止して教壇に両手をついた。

「今日の五時間目の授業は中止になりました。これから帰りの会をするんだけど今日は特別に四年生から六年生までは全員まとめて体育館ですることになりました。さあみんな用意して」

 喜んでいいのか悪いのか、ぼくたちは一斉にどよめきの声を上げる。石井先生は尚も緊張した面持ちでぼくたちを体育館へ行くようにと促し始める。廊下に出ると他の教室でも同じようなことがことが起こっていて、ゾロゾロ、ザワザワしながら生徒が体育館へと向かって行く。まるで避難訓練でも始まったかのように。

 歩きながら今日一日を振り返ってみると、変だと感じていたのが先生たちの動向だったことにぼくは気が付いた。先生たちは誰一人として笑うのを忘れてしまったかのような、どこか険しい顔をしてぼくたちに接していた。そう言えば廊下を歩いている先生もいなかった。みんな一様に小走りだった。

 明らかに何かがあったんだ。それもあまり良くないことが。

「誰かが死んだんだよ」

「違うよ誘拐されたんだよ」

 他の誰かが言った突拍子もないことが、もしかしたら有り得るかもしれないと思えるほど、体育館は異様な雰囲気に包まれていた。

 そしてぼくは今日初めて、マッちゃんが学校に来ていないことに気が付いた。

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