第24話 忘れ物

「見違えたな貴之!たった三日で何があったんだ?」

 田舎から帰ってきたお父さんを次の日から早速、早朝練習に連れ出していた。

 ヨッぴんのノックに比べたらお父さんのノックはもう楽に付いて行ける。お父さんは野球素人だけど、それでも親に褒められるのはやっぱり嬉しい。

 捕球後は打ったバッターや塁上にいるランナーを想定して、次にどこに送球するか頭の中でシュミレーションしながら返球モーションを加えてみる。

 こうしてお父さんが早朝練習に付き合ってくれたり、お母さんは食事を作ってくれたり汚れたジャージを洗濯してくれるのは本当に有難いことだと思った。

 お盆休みが終わり新学期までの残り約二週間のあいだにぼくはひとりで電車に乗ってほとんど毎日のようにバッティングセンターに通い詰めた。お金は漫画本やゲームソフトを売り払って作る。中野に住んでいて中古の漫画やソフトの買取店に事欠くことはない。

 お陰で130キロの球の速さにもだいぶ慣れてきた。だけどこの速さの球は完璧にミートできたとしてもぼくにはまだまだ筋力不足だと言うことを痛感している。でも速さで言ったら玉井くんのと同じくらいのはずだから、もしかしたらぼくも玉井くんの球にバットを当てるくらいのことはできるようになっているかも知れない。そう思うと新学期が始まるのが待ち遠しくて仕方がない。センブー塾はひと足先に再開しているけど、玉井くんを始め生徒がまだ全員揃っていないから学習後の野球の練習は新学期が始まってからと言うことになっていた。夏休みが終わるのが待ち遠しいなんて初めての経験だ。

 ぼくはこの夏、信じられないくらい野球が上手くなったのを実感している。

 ほかのみんなだってきっと同じ心境で新学期をを迎えているはずだ。

 だけど穂刈くんを除いたぼくたちは見事にある忘れ物をしていた。

 本当のことを言うとぼくは夏休みが終わる五日くらい前にそれに気が付いて、慌てて着手するも、ときは既に遅く半ば確信犯的な覚悟を持って新学期を迎えることになった。


「お前たちは揃いも揃って、夏休みの宿題をほっぽらかして何をやっていたんだ!」

 新学期の登校初日。ぼくたちは放課後の教室に居残りを強いられている。

 一番後ろの席に座っているぼくからは、まばらに座っているみんなの後頭部がみえる。ひとりだけみんなと違う頭の人がいて面白い。穂刈くんだけは廊下でぼくたちが解放されるのを待っていた。

 学年主任の藤岡先生は怒り心頭で怒鳴りまくる。

「答えられないのかっ」

「すいません。私からよく言っておきますので」

 横に控えている担任の石井先生が、ぼくたちに代わって頭をペコペコと下げている。

「石井先生、普段こいつらにどんな教育をしているんですか」

 怒りの矛先が石井先生に向かうと、それまで鼻や耳をほじっていたり、窓の外を眺めていたみんなが藤岡先生に敵視の眼を向けるのが、うしろからでもよく解る。

 そんな中で口火を切ったのはなんと玉井くんだった。席を立ち上がる。

「別に石井先生は関係ねえよ」

 藤岡先生は、サッと顔を赤くして銀縁メガネを乱暴に外した。

「何が関係ないだ!お前ら今日から宿題が終わるまで毎日居残りだからな」

 申し訳なさそうに、これ以上は下がらないほど頭を下げる石井先生を尻目に、藤岡先生は少ない髪を振り乱して、教室の扉を荒々しく開け閉めして去って行った。

 石井先生が大きな溜め息を吐いた。


「チキショウー波平親父が!あいつマジでうぜぇ」

「コラッ、湯田くんがそんな口聞くんじゃありません!」

 石井先生は湯田くんの暴言を窘めるが、表情は至って柔らかい。それどころか半分笑っているようにも見える。イッちゃんと高橋くんがクスクス吹き出しているのに釣られたのかも知れない。

「元はと言えば、あなたの頭の色が原因なんだからね!」

 夏休みのあいだだけと言っていた湯田くんの頭髪は新学期になってもまだ金髪のままだったのだ。これが切っ掛けで教室に乗り込んできた藤岡学年主任は六年三組の生徒七名が夏休みの宿題をほとんどやっていないと言う事実を知ってしまったのだ。

「ごめん先生。すっかり忘れちゃってたんだ。母ちゃんも妹もだれも言ってくれなかったんだ」

 湯田くんは両手を合わせて頭を下げるとランドセルの中から野球帽を出して目深にかぶり顔を隠した。

「それから夏休み中あなたたちは何をやってたのよ全く」

 石井先生は元々も丸い顔をふくらませて、ちょっと強い口調で言った。湯田くんのおどけた態度に火が着いたようだ。すると玉井くんがまた立ち上がった。

「ごめん先生。俺は親父の仕事に付いて全国あちこちに行ってたから宿題をやる暇がなかったんだ。でも半分くらいはやってあるから今週中には終わらせるよ」

 玉井くんが言い終わると、あとは自然にみんなが付いて行く。

「俺は、家の肉屋の手伝いと野球の練習が大変で……」

「俺は、寿司屋のバイト……いや手伝いが忙しかったのと野球の練習で忙しくて」

「俺も野球で忙しくて……」

「先生、ぼくも野球の練習が面白くてつい……」

 遂にみんなが吹き出した。ぼくが最後に面白くてと言ってしまったのが、殊の外ウケたようだ。廊下で待っているはずだった穂刈くんもいつの間にか席に着いていて、みんなと一緒に笑っていた。

「呆れた、あんたたち玉井くん以外、全員野球ばっかりしてたのね」

「先生、実は俺も旅先でいつも野球の練習をしていました」

「なんですって!?」

 石井先生の驚きの声がシャックリの混ざったような裏声になったのが、おかしくてぼくたちは更に笑ってしまう。

 最後には石井先生もみんなと一緒になって笑いだしてしまった。


 このあと石井先生には、桃三の生徒と定期的に野球の試合をやっていることことをぼくらは打ち明けた。

 学校に野球部があるわけでもなく、子供たち同士が学校の外で遊びとしてやっているのだから好きにやったらいいと石井先生は言ってくれたけど、だからと言って勉強を疎かにしていいことにはならないのだからと、夏休みの宿題は必ず終わらせることをぼくらは誓わされた。

「アンタたちやるからには負けるんじゃないわよ」

 一瞬だけ宿題のことかと思ったのはぼくだけじゃないみたいだった。一呼吸おいてみんなの気持ちが爆発する。

「まかせとけよ。先生!」

 あまりにも湯田くんの声が大きすぎてみんなが慌てる。湯田くんは野球帽をかぶり直して席で縮こまる。

 ぼくは石井先生が大好きになった。

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