第23話 中野駅北口
中野駅の北口正面から始まるアーケード商店街はサンモールと言って、初めてブロードウェイ商店街を目的に来た人は少し迷ってしまうかもしれない。でもそのまま迷わずに真っ直ぐ進めばサンモールはやがてブロードウェイに連結するのだ。心配はいらないサブカルの聖地はすぐそこにある。ブロードウェイに行けばぼくの欲しいものは何でもあるはずだった。
えっ中野サンプラザを忘れていないかって、中野のランドマークを忘れるはずがないじゃないか、あの20階建ての白くて大きなロボットの足みたいな中野サンプラザにはボーリングやプールがあるよね。ネットカフェだってあるのを知っているよ。おまけに近くにはドン・キホーテだってある。最早中野にないものを探すのが難しいくらいだ。
なのにどうして中野にはバッティングセンターがないんだ!
ぼくはいつも心の片隅から叫んでいる。最近とくに。
以前センブーにバッティングセンターに連れて行ってもらったことがあるんだけど、あのときのぼくは、今と野球に対する向き合い方が全然違っている。何が違うかって?今のぼくは、お父さんの都合でまたどこかの街に引っ越しても、野球を辞めないと思う。プロになろうなんて思っていないけど、この先ぼくは野球ができる身体と環境がある限りは続けて行くだろう。だからわかるでしょ、ぼくの心の叫びが。
センブーが連れて行ってくれたバッティングセンターが新宿の歌舞伎町だったことだけは覚えている。
またあのバッティングセンターに行けるんだ。
ぼくは家に戻って炊き立てのご飯でコロッケをおかずにしてご飯を済ませると、急いでイッちゃんの家に向かった。センブー塾の前の十字路を右に曲がると自転車に乗った高橋くんの背中が見えてすぐに追いつく。
ふたりでイッちゃんの家の前に着くと二階の窓から顔を出しているイッちゃんを見付けた。
「よしっ行こうぜ」
ぼくたちは自転車で中野駅の北口に向かった。駅前に自転車を置いて電車で新宿に向かうことになっている。
「そう言えばだけど、イッちゃんは何キロの球を打つんだっけ?」
前にセンブーに連れて行ってもらったときは気後れして誰が何キロの球を打ったのか全然記憶にない。
「小学生は130キロまでなんだ」高橋くんが言った。
と言うことは、当然イッちゃんは130キロなんだろう。て言うか130キロって速すぎないか?本当に打てるのかな?ぼくが首を傾げていると、高橋くんがニヤニヤしながら、自転車でぼくに並んできて付け加える。
「イッちゃんとヨッぴんは、シカトして大人のゲージに入っちゃうんだぜ」
「えっ、じゃあ何キロのゲージに入るの?」
イッちゃんは、エヘヘと笑うと「マックスだよ」と答えてからまた笑った。大人のマックスって何キロなんだよ!っていうかそれはもう130キロは卒業してるってこと?
すかさず高橋くんが「えぇそうだったっけ?」と曖昧な反応をする。
イッちゃんはそれ以上は何も答えないで、ぐんぐんスピードを出して先に行ってしまった。
「えっ教えてよ。イッちゃん。一体何キロを打てるの?」
ぼくは立ち漕ぎになってイッちゃんを追いかける。
イッちゃんはペダルを漕ぎながら、頭だけクルリと回してこっちを見ると、ぼくが一番興味をそそられることを言い放った。
「バッティングセンターでどんなに速い球が打てても、玉井チンのボールは打てないんだぜ」
「えーどうしてぇ?玉井くんの方が速いの?」
さらに速度を上げたイッちゃんは角を曲がってぼくの視界から消えて行った。
疑問だけが増え続けていく。高橋くんは聞こえない振りをかましてぼくをシカトする。これはイジメか?
でもこの機を逃したら、その答えは一生教えてくれない気がしてぼくは全力でイッちゃんを追いかけた。
高橋くんをおいてイッちゃんのあとを追う。
サンモールの一本裏で並行している仲見世通りを左に曲がった。国際というパチンコ屋と磯寿司が向き合う十字路に出る。イッちゃんの姿が見えない。もう中央線の線路沿いを右に曲がったのだろう。
急いでぼくたちも坂を登って右に曲がると、そこから今度は坂を下った先の方で自転車のスタンドを出しているイッちゃんを発見した。そこはもう北口のロータリーだ。
「イッちゃん、速いよ」
やっと追いついてぼくらも自転車に鍵を掛ける。そのあいだもぼくはさっきの答えが聞きたくて、しきりにイッちゃんに話をせがだけど、イッちゃんは突っ立ったまま動かないでいる。やっとチェーンロックを掛けたぼくは、イッちゃんの顔を覗き込んだ。
中野駅北口の賑わいはブロードウェイに向かうアメコミファンや商店街の買い物客が大挙してサンモールに吸い込まれて行く。真っ青な空の下は陽炎がひしめき、ビルが外に吐き出す熱風と混ざり合った灼熱の大気はサンモールの看板を歪めている。 駅前の熱気にあたったぼくはボーっとしてしまい、これ以上何かを感じることが億劫になって太陽の眩しさに目を細める。だからジッとしているイッちゃんがどこを見てそんな険しい顔をしているのか皆目見当も付かなかった。
「あっマッちゃんだっ!」
高橋くんはイッちゃんが何を見ていたのか気が付いたようだ。そう言えば前に湯田くんもマッちゃんと駅前で会ったと言っていたのをぼくは思い出した。
それは確かにマッちゃんだった。
だけどマッちゃんはひとりじゃなくて、明らかに桃二の生徒じゃないとわかる五、六人の柄の悪い少年たちと一緒に歩いている。加えてその少年たちの身なりと雰囲気から間違いなくぼくたちより大人だとわかる。多分中学生だ。
そしてマッちゃんは仲間と一緒にいるというよりも無理に付き合わされているような感じに見える。
「マッちゃんっ!」
イッちゃんが叫んだ。マッちゃんを含めたその一団が一斉にこっちに振り向いたけど、ぼくらを見るとマッちゃん以外はすぐに興味を失って、またゾロゾロと歩き出して行く。その先にはサンモールの入り口がある。
マッちゃんは仲間に何か言い残してぼくたちの所に走ってきた。
仲間のひとりが鋭い目つきでぼくたちの方を見ると、何かマッちゃんに言ったのをぼくは見た。きっとすぐに戻ってこいと言ったに違いない。
こっちに走ってきたマッちゃんは笑顔の出来損ないを顔に張り付けている。
「どこかに行くところ?」
「マッちゃん誰だよ、あいつら」マッちゃんの言葉を無視してイッちゃんが言う。
マッちゃんは、近所に住んでいる友達だとか嘯いたようなことを言った。よこから高橋くんがバッティングセンターに誘っても、ちょっと行けないんだと言う。仲間のところに戻るつもりなのは明白だ。
「マッちゃん、九月の第二日曜日に試合だからな」
と言うイッちゃんの誘いには、行くよと返事をしてくれた。
別れ際にイッちゃんが言った。
「ファンタジアだろ。あとで行くわ」
マッちゃんはサンモールの入り口で手を振ると人ごみの中に消えて行った。
このときぼくは、気にもとめていなかったけど、ファンタジアが商店街の中にあるゲームセンターだと言うことをあとから知ることになる。
このあとぼくはバッティングセンターで玉井くんの球よりずっと遅いはずの百キロの球を打つのにだいぶ苦労することになった。多分空振りの方が多かったに違いない。場内の賑わいに気分が高揚してマッちゃんのことなど忘れていたのに身体が思うように動いてくれなかったのは、昨日のノックのせいだと思う。空振りするたびに言い訳がしたい気分になる。
イッちゃんはイッちゃんで店員の隙をみて大人のゲージに入ったもののすぐに見つかって仕方なく130キロのゲージで打ちまくっていた。やっぱり130キロは楽勝なんだ。それでもイッちゃんは険しい顔をしていた。きっとイッちゃんはマッちゃんのことが気がかりになっていたんだと思う。
高橋くんは試合でまだノーヒットとは思えないほど絶好調だった。
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