第21話 高橋精肉店

 留守番三日目の朝を迎える。

 今日は午前中に目が覚めたけど身体のあちこちが悲鳴を上げていて起き上がるのも辛い。ぼくは空腹に耐えられなくなるまで布団の中に潜っていた。仕方なく起き出したのは昼近くになってからだった。階段を下りるにも太腿が凄まじい筋肉痛で思わず「アタタタ……」と声が出てしまう。手すりから手が離せない。

 さすがに三日目ともなると、直ぐに食べれるものは何も残っていない。

 いつでも食べるべき時にご飯の準備をしてくれている、お母さんは偉大な人だと素直に思う。

「お母さん、ご飯は?」

 誰もいないリビングにいつもの口癖が吸い込まれていく。

 身体の節々がギシギシと悲鳴をあげている。極度の筋肉痛なのか判然としないままキッチンに辿り着いた。取り敢えずはお米を研いで炊飯器のスイッチを入れた。それからリビングに行ってローボードの戸棚から千円札を一枚抜いた。留守番中にご飯のおかずを買うために、お母さんがおいて行ってくれたお金だ。戸棚の中にはまだ千円札が5枚は入っている。

 ご飯が炊き上がるあいだに、おかずを買いに行く作戦だ。


 ぼくは筋肉痛と戦いながら自転車に乗って外出する。腕に照り付ける日射しが痛いほどに暑い。早くも背中が汗ばんできている。お盆休みに入っているセンブー塾のある十字路を左に曲がる。駅前とは逆方向だけど、すぐのところにこの辺りの住宅街の台所とも言うべき天神商店街がある。ぼくたちにとっては通学路でもある。

 お盆中の商店街はいつもより閑散としているけど、それでも目当ての店が見えてくると香ばしい油の匂いに鼻孔が刺激されてお腹がグゥゥと大きな音を鳴らした。ぼくはその香ばしい匂いが漂う精肉店の前で自転車を止める。

 店の前にはワゴンが出されていて美味しそうなコロッケがトレーの上で山になっている。

「あっカミちゃん!いらっしゃいっ」

「あれ、もしかして高橋くん?」

 白衣を身に着けて店の前を掃除する高橋くんは商店街の風景に溶け込んでいて、声をかけられるまでぼくは気が付かなかった。

「もしかして、この肉屋って高橋くんちだったの?」

 聞くまでもなかった。高橋くんが着ている白衣の胸には高橋精肉店と刺繍が入っている。

「うんっ言ってなかったっけ?それよりカミちゃん、今うちのコロッケに見とれてただろ」

 きっと高橋くんは店の前を掃除しながら、商店街にくる客に目を光らせているに違いない。ぼくは自転車から下りるとワゴンのコロッケを覗き込む。昼のおかずはコロッケに決まりだ。

「もしかしてこのコロッケ、高橋くんが揚げたの?」

 関取のような体型をした高橋くんは、白衣に白い帽子を被っているとこの上なく小学生離れしていて、まるで店主のように見えてくるのだが、高橋くんは頭を振って否定する。

「そんなわけないだろ。うちの母ちゃんが揚げてんだ。この辺じゃ旨いって有名なんだぜ」

 肉屋のコロッケと言ったら、それだけで美味しそうだ。いつもどこかのんびりとした口調の高橋くんだけど今日は何だかハキハキとしていて、これが本当の高橋くんだという気がしてくる。きっと将来は本当にこの店の店主になるんだとぼくは思いながら、いつになくコロッケの仕込みや材料の仕入れにまつわるチョットした苦労話を饒舌に語る高橋くんを微笑ましく眺めていた。

「ひとつ食ってみろよ」

 高橋くんがおもむろに包み紙に挟んで熱々のコロッケをぼくに渡してくれた。気持ちは遠慮するつもりなのに、手渡されてしまうと空腹のぼくは抵抗できなくて思わず頬張ってしまった。

 口の中を刺激するカリカリの香ばしい衣に歯を入れると、そこからこぼれるひき肉とジャガイモのなんとも言えないコロッケの美味しさが口一杯に広がって幸せな心地に導かれて行く。それは本日初めて口にした食べ物ということや青空の下での遠足気分が醸し出す旨さを割り引いても美味しいはずだった。

「めっちゃ!旨いよこのコロッケ」

「だろっソースなんかいらないだろ!」

 鼻の穴を膨らまして自分の家のコロッケを絶賛する高橋くんもコロッケを頬張っている。

「コラッ!伸一。おやつじゃないんだからバクバク食べんじゃないわよ」

 店の奥から顔も体型も丸々として、ひと目でそれと判る高橋くんのお母さんが、揚げたてのコロッケをバケットに盛ってやって来る。パック詰めは高橋くんの仕事らしい。

 食べかけのコロッケを無理矢理口の中に押し込んだ高橋くんは胸を叩きながら、

「同じクラスの村上くんだよ」とぼくを紹介してくれた。

「あら、あなたが村上くんね。お母さんには会ったことはあるわ。いつもうちで買ってくれるのよ。伸一を宜しくね。コロッケは好きなだけ食べて行きなさい」

 高橋くんと同じ白衣を着たおばさんは、ぼくに優しい笑顔を見せてくれた。

「伸一は程々にしなさいよ」

 高橋くんのコロッケに伸びかけた手をピシャリと叩くと、おばさんは店の奥へと戻って行った。

「ぼく昼ご飯のおかずを買いに来たんだ。コロッケをひとパック買って行くよ」

 ワゴンに乗っている三個詰めのパックを手に取ってポッケから千円札を出した。

「金なんか要らないよ。今母ちゃんが好きなだけ食べて行けって言ったろ」

 そんなの悪いよと、しばらく押し問答になったけど結局ぼくは腰を浮かせるのを諦めて二個目のコロッケをかじることになる。

「ところで、高橋くんは野球の練習はしないの?あっそうだ!」

 ぼくは昨日の穂刈くんと一緒に桃三の練習を偵察したことや例の桜井君のことを話して聞かせた。

「へぇそんな奴がいるんだ。でも俺はあんまり興味がないな。だって玉井チンが打たれるわけがないからな。えっ野球の練習?いつも玉井チンの投球練習に付き合ってるよ。朝とか夕方とかね。だけど今週は玉井チンは九州に行ってるんだ。だから今のところ俺は休みって感じかな」

 高橋くんは話しながらも、どんどん口の中にコロッケを放り込んで行く。ぼくが二個目のコロッケを食べるあいだに彼は三個も平らげている。

「九州って玉井くんの田舎?」

「いや玉井チンの父ちゃんが元プロ野球選手だったの知ってるだろ、実は今でも球団で働いていてさ、その関係らしいぜ」

「えー、もしかしてコーチとかやってんのかな」

「違うな。えっと、スカウトやってるんだって」

「じゃあ九州に有望な選手でもいるのかな」

「そういうことじゃね」

 今日も暑いな、と高橋くんは手をかざして雲ひとつない青空を見上げた。

「玉井くんのお父さんは自分の息子が投げているのを見たことがあるのかな」

「それがさ」

 高橋くんは何やら楽しそうな顔をぼくに向ける。口の周りに黄金色の衣が付いていた。その衣が時々ぼくのところに飛んでくる。

「一度も見せたことがないらしいんだ」

「えっ本当に!でも変化球を禁止にしたのお父さんなんでしょ。それでも見たことがないんだ」

「だって学校に野球部があるわけじゃないし、リトルリーグに入っているわけでもないだろ、玉井チンも自分でアピールする性格でもないしな」

「お父さんはスカウトなのに、自分の息子はノーマークなんだ。なんだか面白いね」

「笑っちゃうだろ。いつか玉井チンの父ちゃんが息子の投球を見てビックリする顔をみるのが俺の夢なんだ」

 本当に野球が好きかどうかよく解らない高橋くんだったけど、彼の夢を聞いてぼくは理解した。高橋くんは野球が好きというよりも筋金入りの玉井くんファンなんだということを。

「おーい」

 人通りが徐々に増えつつある天神商店で聞き覚えのある声がこっちに向かって飛んできた。








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