第20話 ノック

 湯田くんが帰ってからも、ぼくとヨッぴんはグラウンドに残って練習を続けた。

 ぼくは内野と外野を行ったり来たりしながらヨッぴんのノックを受けていた。ヨッぴんが打つ瞬間に内野で捕るか、外野で捕るか自分で判断するのは中々面白い。

 加えてヨッぴんのノックが絶妙なのだ。ゴロを打ってもフライを打っても、ヨッぴんはぼくが捕球できるかできないかギリギリのところに打ってくる。

 ぼくは無心になってボールに食らいついて行った。ギリギリのところで捕球できたときの満足感と爽快感は次へのモチベーションを増幅させる。どれだけ走っても疲れはほとんど感じない。これなら無限に続けられる。まだ買って間もないスニーカーがグラウンドの土で汚れても気になったのはほんの少しのあいだだった。舞い上がった打球と照明の光が重なっても惜しみなく目を見開ける。もうどんな球でも捕れる気になるとヨッぴんのノックはぼくの守備範囲の意表をついて伸びかけたぼくの鼻をへし折りに来る。だけどそれはぼくのレベルが少し上がったことでもあると自分に言い聞かせる。ぼくは今、すごい勢いで野球が上達している。そしてそれを促してくれるヨッぴんのノックに感動していた。

 ぼくたちは夜の八時になって、文化センターを管理しているおじさんが照明を落としに来るまでノックを続けていた。

 ほとんどぶっ通しのノックだった。息はそんなに切れていなかったけど、グラウンドから出て自転車置き場まで歩いて行く途中に、今まで経験したことのない疲労が足に絡みついて一歩、一歩が鉛を引きずっているように重くなって、自転車置き場に着いたときには、ぼくは中腰のままそれ以上動けなくなった。一方のヨッぴんは疲れた様子もなく、ぼくにここで待ってろと言うと、文化センターの中に入って行って自販機の缶ジュースを買ってきてくれた。昨日はマッちゃん。今日はヨッぴんにだ。ぼくは受け取ってお礼を言ってから、練習中にずっと気になっていたことを言った。

「ごめんね。ぼくの練習ばっかりになっちゃったね。でも今日のノックはすごく楽しかったよ」

 ふたりで自転車置き場の地べたに座り込んでいた。ぼくは今頃になって全身汗みずくになってくる。汗が全然止まらない。缶ジュースも飲んだそばから汗に代わっていくみたいだった。

「いや、俺もバットコントロールを考えながら打ってたから、いい勉強になった」

 ヨッぴんはぼくの顔を見てニヤリと笑ってくれた。嘘でもそう言ってもらえると嬉しい。だけど尚も考えながらバットを振る真似をしているところ見るとあながち嘘はないのかも知れない。

「ところで湯田くんは横浜に引っ越したって言ってたけど、まさか転校しちゃうの?」

「いや、しないってさ。だけど中学は横浜の学校に行くことになるだろうって」

「そっか湯田くんにとっては玉井くんやみんなと野球ができるのは今年一杯ってことになるんだね。だからあんなに張り切ってたんだ」

 汗が引けてくると湿ったジャージが気持ち悪い。おまけに真夏の蒸し暑い夜でも少し肌寒さを感じてくる。

「湯田だけは玉井チンと保育園から一緒でさ。幼い頃に嫌がる玉井チンに無理矢理ボールを投げさせたのも湯田だし、桃二で初めて玉井チンを見たときキャッチャーやってたの湯田だったんだぜ」

「そうだったんだ。ふたりは正真正銘の幼馴染なんだね」

 きっと他にも興味深い昔話があるに違いないが、ぼくは寒いのを我慢するのが限界に近付いていた。

「そろそろ帰ろうか。カミちゃん風邪ひいちまうぞ」

 ヨッぴんは立ち上がって尻をパンパンと叩いた。ヨッぴんもシャツが汗でびっしょりになっている。

 ぼくたちは同時に自転車に跨った。ぼくはここで別れるのが急に淋しくなって思わずヨッぴんの背中に話しかけてしまう。

「ヨッぴんはどうしてみんなと野球をやってるの?やっぱり玉井くんがいるから」

 一瞬だけぼくの声が聞こえていないのかと思った。そう思えるほど、ほんの少しのあいだ、ヨッぴんはぼくに背を向けたままジッとしていた。そして自転車に跨ったままゆっくりと上半身をぼくの方に向ける。

 それは、ヨッぴんの中にそれまで言葉としてあったものではなくて、ぼくが問いかけたことで初めて自分の中にあることに気が付いて、慎重に自分でもそれが確かなものなのか吟味しながら言葉にした、そんな感じのひと言から始まった。

「おれさぁ、本当はイッちゃんのこと嫌いなんだ。……幼稚園のときからずっと一緒でなぜかいっつも俺はイッちゃんの引き立て役でさ、どいつもこいつもイッちゃん、イッちゃんて、うんざりしてるんだ」

 ぼくは怖くなってヨッぴんの目を正視できなくなった。ヨッぴんの小さな溜め息があいだに入る。

「だからイッちゃんにだけは負けたくないんだ。今までも一度だって負けたことはないんだぜ。本当は野球なんて好きじゃなかった。いつの間にかイッちゃんに引きずり込まれたんだ。本当にいつのまにかバットを振っていたって感じ」

 ぼくは落としていた視線をヨッぴんの顔に戻していた。なぜかもう怖くはなかった。言葉はきついままだけど口調は落ち着いている。ヨッぴんの話は尚も続く。

「でも野球やってるとなんだか気持ちがいいんだ。ハイになっているって言うか、いくら練習しても飽きねえし全然疲れないんだ」

 ヨッぴんもぼくと同じなんだ。ヨッぴんが深く息を吸った。そして次の言葉に繋ぐ。

「おれ、プロ野球の選手にないたい。桃三と試合をするようになって自分の気持ちに気が付いたんだ。そしたら俺にとってイッちゃんの存在が、すごく大事に思えるようになったんだ。だからリトルリーグの桜井がどんだけ凄くても、おれはイッちゃんしか見えてねえ」

「でも、イッちゃんには今まで負けたことがないんでしょ」

「うん。だけどあいつどこで練習してんのか、直ぐに追いついてくるんだ。いつまでたってもギリギリのままなんだ。ちょっと手を抜いたらきっとすぐに追い越されるに決まってる」

「それって嫌いだったけど、今はライバルになったってことだね」

「まぁそんなとこだな、でもイッちゃんは俺のことなんかきっと眼中にないと思うけどな」

「どうしてそう思うの?」

「どうしてかな、多分イッちゃんは将来プロ野球選手になろうなんて思っていないだろうし、俺たちと考えていることが違うって言うか……」

 ヨッぴんの言いたいことはわかるような気がする。

 ぼくたちは普段、親や先生の目が届いている自宅や学校という建物のあいだを行ったり来たりして生活している。

 それは、放課後や休日に、ぼくたちだけで何処かに遊びに行ったとしても変わらない。目が届かない所でも心は繋がっている。例えば自由に遊んでいても親からもらった小遣いの残りを考えていたり、怒られるから家に帰る時間を気にしたり、宿題のことや明日の授業の予定を常に心に留めている。きっとリードに繋がれている飼い犬とあまり変わらないんじゃないか。でもだからと言ってこの状態に不満などひとつもない。親は子供を育てて守る義務があるし、子供はどうしたって一人では生きていけない。本当はそのことに誰も気が付かないまま生活している。

 けどイッちゃんと一緒にいることでぼくは、いやぼくたちは無力な自分たちに否応もなく気付かされるのだ。

 イッちゃんの発想はいとも簡単に大人との繋がりを断ち切ってしまう。でなければ隣の小学校の生徒と野球の試合をするなどと誰が考えるものか。細かいことを言えば審判のことを考えてなかったりして粗があったりもするけど、とにかくイッちゃんは大人を無視して自分の考えを形にしてしまう行動力がある。普通なら大人たちに任せる領域にも怯むことなく突き進んで行くイッちゃんのトルクに周りのぼくたちは魅了されるのだろう。そしてイッちゃんにけん引されて外の世界に飛び出したぼくたちは、新しい自分に出会う。プロ野球選手になりたいと言ったヨッぴんや、こんなにも野球が好きになったぼくのように。

「あっ俺がこんなこと言ったの内緒だからな」

 イッちゃんが嫌いだったなんて、口が裂けても言えないよ。

「えっもしかしてプロ野球選手になりたいのも?」

「当たり前だろ!絶対に言うなよ」

「なんで、言ったらいいじゃん!ヨッぴんならみんな納得するよ」

「言ったら、ぶっ殺すからな」

 ヨッぴんは半ば笑いながら、長い腕をぼくの首に絡み付けてきた。骨ばったヨッぴんの腕はゴツゴツとしてチョット痛かったけどぼくはヨッぴんとこんな会話ができて嬉しかった。











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