第17話 秘密
マッちゃんのお父さんは普段は仕事でいつも夜が遅いから、お母さんのいないマッっちゃんは家事の全般をそつなくこなすことができる賢い子供だった。電子レンジなんか当たり前のように使えるし食べた後の片づけはもちろん、ぼくの汚れたジャージを洗濯機で洗ってくれたりもした。
「マッちゃんて何でもできるんだね」
お世辞でも何でもなくて、ぼくは心底思ったことを口にする。
「野球は全然だけどね。それと勉強も」
少し照れ臭そうにしているマッちゃんにぼくは名案を持ちかける。
「マッちゃん、今日は泊って行きなよ!」
ぼくの名案にマッちゃんは、逡巡として下を向いていたけど、やがて気持ちを固めた顔でぼくに向き合って言った。
「カミちゃん。ありがとう、でもちょっと泊りは不味いんだ」
「なら風呂だけでも入って行ってよ」
マッちゃんはまた少しだけ考えてから言った。
「ならお風呂だけ入らせてもらおうかな」
ぼくは静かになった家でひとり残るのが淋しくて、マッちゃんに泊ってくれと言い出したんだと思う。
それでも帰ると言い出したマッちゃんをどうにか引き止めたくて、ぼくもマッちゃんのあとを追って風呂場に突入することにしていた。風呂でも楽しく盛り上がって帰るのを名残惜しくさせる作戦だ。マッちゃんが泊ってくれると言ったら、今夜は徹夜でTVゲームをして遊ぶのもいい。
ぼくは驚かそうと思って静かに脱衣所に入って行って、風呂場の戸を一気に開けた。
だけどぼくはマッちゃんがシャワーを浴びているその背中をみて、言葉を失ってしまった。日焼けをほとんどしたことがないような真っ白なはずの背中は、まるで抽象画の絵画のようだった。ひと目でそれと解る痣が背中を覆いつくしている。できて間がないものは赤っぽく、しばらく経過したものは紫になり、治りかけは青から黄色に変色している。それらが幾重にも複雑に混ざり合っていた。それは背中だけに留まらず腕にも足にを及んでいた。
更に振り向いたマッちゃんの胸や腹にある無数の痣は拳で殴り付けたものだとすぐに解ってしまうほど見るに堪えないものだった。
そこにある痣の標本がマッちゃんの全てを物語っていた。
マッちゃんはぼくなんかが想像もつかない過酷な生活を送っているに違いない。
野球にしたって、勉強にしたって、マッちゃんは能力がないわけじゃない。ぼくはこうして数時間一緒にいるだけで、マッちゃんはすごく器用で賢い子だと言うことがわかっていた。ただマッちゃんにはぼくのように遊びや勉強に夢中になれる環境がないだけなんだ。マッちゃんの本当の姿を見ただけでそれが理解できてしまった。
ぼくは自分の子供じみた理由で泊まってもらおうなどと考えたことを恥ずかしく思った。中途半端な優しさはマッちゃんを傷つけるだけなんだ。
「なんだよ、どうしたんだよ。なんでカミちゃんが泣くんだよ」
マッちゃんがシャワーを止める。
ぼくは涙が止まらなくてしゃくり上げるばかりで中々言葉が出てこない。
「マッちゃん、ずるいよ。ぼくはどうしたらポカリのお礼ができるのかわからないじゃないか」
「カミちゃん、俺こんなの何でもないから全然大丈夫だよ。身体を見ただけで泣かれたら俺が惨めじゃんか」
涙が止まらないぼくにマッちゃんは頭からシャワーのお湯をかけてくれた。
次の日、目が覚めたのは昼を回ってからだった。
朝の八時にセットしたはずの目覚ましは、何ごともなかったようにオレンジ色の秒針を回して時を刻んでいる。手に取って裏を見るとスイッチはオンになったままだ。 鳴り続けていたのに起きることができなかった自分の不甲斐なさに呆れる。
昨晩はあれからマッちゃんを家まで送って行った。マッちゃんの住んでいる所は自転車で5分くらいの所にあった。住宅街の中にポツリと建っている2階建てのアパートはひどく古ぼけて見える。家の電気が消えているのを確認したマッちゃんの表情は心底ホッとしているようだった。
塀をよじ登って2階の窓から自分の部屋に忍び込むマッちゃんの姿を見届けてからぼくは家に帰った。
ベッドの上で、昨日の夜道でマッちゃんと話したことを思い出していた。
「カミちゃん、痣のことは絶対に内緒な。それから俺への同情も禁物だから」
マッちゃんがぼくの自転車を漕いでいた。ぼくはうしろに乗っている。時々マッちゃんが顔を顰めていたのは、痣のせいだと言うことを今のぼくは知っている。
「正直に言ってさ、親父と二人きりの生活は面白くもないし、辛いだけなんだけど、中学生になったら新聞配達とかして、なるべく早く独り暮らしをしようと思っているんだ。そしていつか社長になるんだ。だから今は一生分の苦労の何分の一かを先取りしているんだ。そう思ったらこんな辛さいくらでも余裕で耐えられるんだ。実はさ……」
マッちゃんがブレーキをかけてスピードを落とした。
「カミちゃん、降りろマッポだ!」
慌ててうしろの荷台から下りる。マッポとは警察のことだ。ぼくは素知らぬふりで自転車の横を小走りでついて行く。
疑わしい目つきをした自転車の警察官と擦れ違った。角を曲がってぼくは再び自転車の後ろに飛び乗る。
「ビックリしたね。それで」ぼくは話の続きを促す。
「実はさ、痣のことイッちゃんも知ってるんだ。うちの親父酔っぱらってよく磯寿司に出前を頼むんだ。それで時々イッちゃんが出前の空下げに来たとき、俺が親父にボコボコにされてるときでさ、あのときは参ったよ。止めに入ったイッちゃんも殴られちゃってさ」
少し上り坂になった。マッちゃんは腰を上げて立ち漕ぎをする。
「あのときイッちゃんにも言ったんだ。同情するのは俺が弱音を吐いたときだけにしてくれって、そのときは正直に言うから、それまでは何も知らないふりをしてくれって」
ぼくはイッちゃんが、マッちゃんはよく家出しているから中々捕まらないって言っていたときのことを思い出していた。
「マッちゃん、ぼくの家だったらいつ来てもいいからね」
マッちゃんは自転車を漕ぎながら夜空を見上げて渇いた声で笑った。
「だから大丈夫だって、イッちゃんと同じこと言うなよ。今日は少し甘えちゃったけどさ」
ならばぼくにできることは、この先何があってもマッちゃんの味方でいることだ。
ところが、ぼくの決意はすぐに試される時がやってくる。このときは夢にも思っていなかった。
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