第16話 マッちゃん

「お母さん、ご飯は」

 いるわけがないのに、つい口から出てしまう。

 キッチンの炊飯器には炊いてあるご飯が保温状態になっている。

 ぼくは箸と茶碗を食器棚から出すと食卓にラップしてあるトンカツを温めもしないで食べ始める。このあと一度お替りをした。この分だと明日の朝の分までは、ご飯は持ちそうだ。ご飯の炊き方はお母さんに教えてもらっている。覚えているかどうか自信がないけど、お母さんへの最初の電話が、電子レンジの使い方とかご飯の炊き方をもう一度教えてくれなんて口が裂けても言えるわけがない。

「お母さん。走って来るからジャージ出して」

 二階の自分の部屋でジャージに着替える。弾むように階段を下りて玄関でスニーカーの紐を締め直してから下駄箱の上に置いてある家の鍵をつかんで外に出た。

 さっきまで優しい顔をしていた太陽は、ぼくに愛想を尽かせて西の空に傾き始めている。何だかバツの悪さを感じながら、ぼくは静かな街中を走り始めた。


 桃三と週替わりで使うことになっている紅葉山公園のグラウンドは、今週は桃三の番になっている。お盆休みの時期ならさすがに石神くんでも練習なんかしていない気がする。ぼくは平和の森公園の少年野球場の方に向かうことにする。

 紅葉山公園のグラウンドは野球というよりはサッカーを想定したグラウンドで、錆びついたゴールポストが設置してあって他には何もないただの四角いグラウンドだ。これに対して平和の森公園は地図で見ても少年野球場と書いてあって、少し遠いけどぼくはこっちの方が好きだった。桃三との試合もずっと平和の森公園の少年野球場でやっているし、何より来年から通うことになる中学校が近いから、ぼくらにとってこっちのグラウンドの方がホームになるだろうという気がしている。

 誰もいない平和の森公園の少年野球場に着いた。掲示板の横にある時計はもうすぐ午後の4時になろうとしていた。

 ぼくは球場に入ってフィールドを周回し始める。

「一周ごとにダッシュで走るんだ」

 確かイッちゃんがそんなことを言っていたのを聞いたことがある。ぼくは軽く一周すると二週目は全力で走ってみる。たちまち息が上がって半周もしないうちに歩き出してしまった。だけど三週目に入ってからまた全力で走る。結局、半周ダッシュの半周歩きになってしまったが、それでも五周回った。

 イッちゃんたちは一周ごとに普通に走るのとダッシュで走るのを最低でも10周はすると言っていた。とてもじゃないけど今のぼくには真似できない。

 五周も走ったのに時計を見るとまだ時間はあまり経っていない。せっかく来たんだから10周は走ろう。ぼくは気を取り直して再び走り始める。すぐに疲れがMAXに達する。下半身が重くて思うように動かない。最早歩いているのと変わらないスピードでしか走れない自分に失望する。

 それでもなんとかグラウンドを10周回ったぼくは、フラフラになりながら外野の芝まで歩いて行って、そこに大の字になって寝ころんだ。

 肩で息をしながら空をみると西は夕焼け、東は夜。ぼくはその中間にいて左右の目をチカチカさせて、この境界線を独り占めにして楽しんだ。

 息が落ち着くと体を起こした。あんまりにも静かだから急にこの世界にひとり取り残されたような淋しさを覚えて、半ば本気で辺りを見渡してみる。遠くの建物の窓には明かりが点いているけど、それだけじゃあ安心できない。

 と思ったが、一塁側の観客席の芝で誰かが座っていて、こっちを見ていた。一瞬ギョッとしたけど、なんだか恥ずかしくなって慌てて立ち上がる。それと同時に座っているのが誰なのか気が付いた。

「マッちゃん?マッちゃんだよね」少し大きな声で言った。

 するとぼくに向かって手を振り始めている。やっぱりマッちゃんだ。

「待ってて、直ぐそっちに行くから」

 ぼくはバックネットまで走って行って裏に回るとマッちゃんが座っている所に向かう。ヘトヘトになるまで走ったから身体が重い、まだ疲れを引きずっている。水飲み場を探してキョロキョロしながらマッちゃんの所まで行って横に座るとマッちゃんが、

「飲むだろ」

 と言って一本しかない缶のポカリをぼくにくれた。

 水分を渇望していたぼくは「ありがとう」と言ってマッちゃんの好意に飛びついた。

 ぼくは、ほどんど一気飲みで缶を空ける。

 ようやく落ち着くと、ぼくは改めてお礼を言った。その時ぼくはマッちゃんの異変に気がつた。

「マッちゃん、どうしたのその顔」

 マッちゃんは反射的にぼくから顔をそむけたけど、左の目尻と口の端が赤く腫れているのが見えた。

「大丈夫、これくらい何でもないから」

「誰かと喧嘩でもしたの」

「違うよ。親父に殴られたんだ」

 マッちゃんはぼくにそっぽを向けたまま言う。ずっと先には残照色に包まれているマンションが見えた。もうすぐ日没が迫っている。

 ぼくはお父さんに手を上げられたことがない。だからお父さんに殴られたなんてとても信じられなくて、言葉が見つからない。

 この球場で一緒に外野を守っていたことを思い出す。

 みんなで協力しながらひとつのボールを追いかけていても、グラウンドに立つまではみんながそれぞれ違う道を辿ってきているんだと、ぼくはこのとき初めて気が付いた。

「何があったの」

「別に、うちは親父が酒飲みで酒乱なんだ、手が出始めると止まらなくなるから途中で逃げてきた」

 マッちゃんは少し笑った。

「もしかして、いつもそうなの?」

「休みの日なんかはいつもこんな感じ」

「お母さんは?」

「うちは父子家庭なんだ」

「そうなんだ。これからどうするの?」

「親父が飲んだくれて寝静まるまでその辺をブラブラしてから、こっそり帰って寝るさ」

「それも、いつもそうなの?」

「ああ、だいたいね」

 ぼくはマッちゃんがくれたポカリの缶を見つめていた。

「ねえマッちゃん。電子レンジの使い方解る?」

「えっレンジってチンのこと?」

 マッちゃんは腫れた顔をぼくに向けて目を丸くしている。

「うん、今ぼくの家、両親が田舎に帰ってるからひとりなんだけど、おかずが温められなくて困ってるんだ。良かったら家で一緒にご飯を食べようよ」

「えっマジで言ってんの!俺、今日なにも食べてないから死にそうだったんだ」

 それでもひとつしかないポカリをくれたマッちゃんの気持ちにぼくは泣きそうになるのを堪えた。

「じゃあ今から行こう」

 ぼくはマッちゃんを家に連れて帰った。知らない人を家に入れてはいけないというお母さんとの約束をぼくは破ったわけじゃない。

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