第15話 課題

「心配することじゃないよ。カミちゃん。玉井チンはグラウンドが使えない週はひとりで走り込みをしてるんだ」

「なんだ、そうだったんだ。バッティングセンターって聞いて怒ったのかと思ったよ」

「玉井チンがそんなことで怒るわけないよ。あいつは責任を感じてる部分もあるのかも知れないけど、9回を投げきれない自分のスタミナに納得がいかないだけなんだ」

 やっぱりイッちゃんは誰よりも玉井くんのことを解っている。それにしても玉井くんのストイックなところには脱帽するばかりだ。

「だけど負けてる原因ってさ、玉井チンの責任じゃなくて俺たちの守備力のせいだよな、完全に」

 長谷川くんの言う守備力とは、主にぼくとマッちゃんを含めた外野陣のことを言っている。全くその通りだと思う。フライにしろゴロにしろ、とにかく外野に抜けると高い確率で得点されてしまうのだ。守備に就いているというよりも、単なる球拾いに近いものがある。ちなみに長谷川くんは堂々とそれを言ってのけるのに彼だけは未だに練習に参加したことがない。

「でも勝つためには打って点を取らないとな。昨日なんか3対0だったんだぜ。やっぱり打力だよ打力」

 ぼくたちにはそれぞれ課題があった。だけど玉井くんは別として、一体どんな練習をすればいいのか判らないでいた。

 センブーも専門家じゃないし、素人の子供たちだけで野球が上手くなるのは、この辺りが限界なのだろうか。

 ゲームは絶対に課金しないで無敵を目指すのが信条のぼくは、ここまできて誰か大人にコーチしてもらうのは気が進まない。幸い誰もそのことに触れないからいいのだけど、それなら自分たちでもっと上手くなれるように考えないと。

 ぼくが野球を始めてからもう4カ月以上が経っていた。そしてもうすぐ夏休みがやってこようとしている。


 今まで、TVゲームや漫画ばかりに夢中になっていたぼくは、自分でも信じられないくらい野球というスポーツに夢中になっていた。TVゲームや漫画を辞めたわけじゃないけど生活の中心は間違いなく野球にシフトしている。

 だけどスポーツに目覚めるには少し遅かったのかも知れない。これまでずっとインドア派だったぼくの運動神経は全くと言っていいほど未発達のままになっていた。

 取り柄と言えばゲームで鍛えてきた観察眼と動体視力だけど、如何せん身体がそれに付いて行かないのがもどかしくて仕方がない。

 ぼくの課題は全てだった。打つことも守ることも走ることも全部が課題だ。

 とにかく、みんなとは基礎体力に差があり過ぎる、練習にすらまともについて行けてないことを実感したぼくは、この夏休みにまずは基礎体力の向上を目指すことにした。

 すっかり、TVゲームをしなくなったぼくにお母さんは素直に喜んでくれた。ご飯も以前よりたくさん食べるようになった。

 お父さんは朝のランニングに付き合ってくれるようになり、誰もいない早朝の紅葉山公園のグラウンドでノックをしてくれたり、会社が休みの日には新宿のバッティングセンターに連れて行ってくれるようになった。

 夜は部屋で筋トレをしたり、ネットや本で野球の知識を貪るように勉強した。

 リビングでお父さんが観ているプロ野球中継が面白いと感じるようにもなった。これにはお母さんは閉口しているようだけど。


「カミちゃん、最近三振しなくなったよな」

 夏休みも中盤に入ると、みんなから上手くなったと褒められるようになった。何とか身体が付いていけてると自分でも実感していた。こうなると野球がまた一段と面白くなってくる。

 TVゲームをやったり漫画を読んだりするのは極端な話、大人になってもできるし、読んだりもできるけど、イッちゃんたちと野球ができるのは今しかないんだと自分に言い聞かせると、キツイ練習にも耐えられるようになった。

「あなた本気でプロ野球選手になろうとしてるの?」とお母さんに冷やかされることもあるけど、そんな気は全然なくて、ぼくはただイッちゃんたちの足手まといにならずに野球ができるようになりたかったんだ。


 センブー塾がお盆休みに入ると、それに合わせて何人かの生徒は帰省したり家族旅行に出かけて行った。家の中にいても街がどこか閑散としているように感じるのは決して気のせいではないと思う。

 ぼくの家でも田舎に帰る予定になっていたけど、ぼくは野球の練習がしたかったから、お父さんとお母さんの2人で行ってもらうことにした。

 ぼくが野球をはじめたことによって、一日で目に余るほどTVゲームをしたり、漫画を読みふけったりなんてことは無くなった、寝坊までしなくなったものだから、要するに概ね良い子で過ごしていたから、ぼくが家に1人で残ることに反対だったお母さんも、最後には僕の希望を受け入れざる終えなかったようだ。

「三泊四日になるけど、何かあったらすぐに父さんかお母さんの携帯に電話するんだぞ」

 お父さんはあまり心配はしていないようだ。

「うん解ってるって」

「知らない人が訪ねてきても玄関を開けちゃダメよ。身の危険を感じたらすぐに110番するのよ。解ったわね」

 お母さんは少し顔が青い。車に乗る前から車酔いしているようだ。ぼくの方が心配になってくる。

「大丈夫だって、お母さんも生水飲んで、お腹を壊さないようにね。お父さんも車の運転気を付けてね。じゃあね、バイバイ」

 お母さんはぼくの生意気な口に何か憤慨しているような顔をしていたけどぼくはお母さんを無理矢理、車の中に押し込んでドアを閉めた。お父さんが運転席で笑っている。

 ぼくは車が角を曲がって見えなくなるまで手を振って見送った。

 静まり返った家に戻ると、改めて家の中がこんなに広かったのかと少し驚く。

 さっそくリビングのカーペットに寝転んで大の字になった。

 今日から三日間、ぼくは真の自由を手に入れたんだ。

 さて何から始めようか、時刻は午前10時。正午の空に向かって上昇していく太陽が寝ころんでいるぼくのすぐ傍で陽だまりを作っている。ジリジリと離れて行く陽だまりが太陽の動きを教えてくれる。それを眺めていたら少しウトウトしてきた。

 野球の練習をしなくちゃいけないのは解っている。

 いつもなら、お母さんが、

「何やっているの早くしなさい」とか「だらだらしないの」とか言ってぼくの背中を押してくれるけど……。


 ハッとしてぼくは目を覚ました。

 リビングで寝ころんだまま寝入ってしまったのだ。

 時計を見ると。もう午後の2時を回っているではないか。何と言うことだろう!

 真の自由は案外時間が経つのが早い。ちょっと油断すると手足に重い鎖を掛けられてしまう。自由を行使するのは、そんなに楽じゃないみたいだ。

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