第8話 桃三 石神(キャプテン・キャッチャー)
桃三との試合を前にしてぼくには疑問が二つあった。
いくらぼくが素人でも野球をするには選手が9人必要だということくらいは知っている。ところがいつも練習しているメンバーはぼくを入れても7人しかいないのだ。
それをイッちゃんに聞いてみようと思っていたら、センブー塾で一人名乗りを上げてくれた。
長谷川
「あと、ひとりはどうするの?」
「マッちゃんを呼ぼうと思ってる。だけどあんまり学校に来ないから、誘えないんだよなぁ」
イッちゃんが腕組をして頭を傾げている。
「なんで学校に来ないの、引きこもりとか?」
ぼくはまだ一度もそのマッちゃんに会ったことがない。
イッちゃんの視線がぼくを捕える。そのまましばらく何か言いだそうとしているから黙っていると、やがてイッちゃんは眉毛を下げて肩を竦めながら話してくれた。
「その逆でさ、マッちゃんは家出ばっかりしているんだ。誰かマッちゃんを見付けて来てくれよ」
すると生徒の女子にちょっかいを出していた湯田くんが、ひょこっとこっちに顔を向けて言った。
「マッちゃんなら昨日、駅前であった時に言っておいた」
「何だよ湯田、それを早く言えよな、全くよぅ」
湯田くんはイッちゃんの小言をいなして女子との会話に戻る。
「じゃあこれでメンバーは揃ったことになるんだね」
先発メンバーはこれで良し!ぼくはもうひとつの疑問を口にしてみる。
「ところでさあ、今日は木曜日だから試合まであと三日だけど、みんなバッティングの練習ばっかりで守備の練習はほとんどやってないよね大丈夫なの?」
ぼくの質問にイッちゃんはああそのことか、という顔をしながら頭を掻いて上を見上げる。何と説明しようか考えているようだ。そして答えてくれた。
「別にさぼってるわけじゃないんだけどさ、玉井チンのボールが打てる小学生なんているわけないだろ」そこはぼくも同意見なので頷いて見せる。「相手は同じ学年なんだぜ、それでも万が一、ひとりかふたりでも打てる奴がいて1点か2点取られたとしても、俺たちが打ちまくって点を取ればいいって考えなんだ」
うしろ向きで話を聞いていた高橋くんが席を立つと、こっちに向いて座り直した。
「カミちゃんの言いたいことはよっく解る。でもさぁ俺もどうしても玉井チンのボールが打てる奴がいるとは思えねえんだ」
玉井くんとバッテリーを組んでいる高橋くんの言葉にはより説得力がある。
高橋くんはポケットからブラックサンダーを出して食べ始めた。それをイッちゃんが半分奪って、それをまた半分にしてぼくにくれた。
「可能性としては」穂刈くんはイッちゃんの前の席で、長い足を組んでいる。「桃三に玉井チンほどではないにしてもそこそこのピッチャーがいたときだ。いくら玉井チンが0点に抑えても、俺たちが点を取らないと勝てないんだから、やっぱりどうしてもバッティングの練習に力が入るわけよ」
確かにそうかも知れない。玉井くんのボールが打てる小学生がいるとは思えない。いるとしたらイッちゃんかヨッぴんくらいだろう。だから打線のぼくらが点を取れば勝てる。簡単な理屈だ。それでも全くと言っていいほど守備の練習をしていないぼくとしては不安が募るばかりだった。
それからも本当に守備の練習をしないまま、ぼくたちは試合の当日を迎えてしまう。ぼくたちの住んでいる地域には野球の試合ができる場所がいくつかある。地図を見ると縦に細長い中野区を、南北に分断するように通っているJR中央線から北側ばかりにグラウンドがあるのが解る。桃三の校舎は南側だ。ちなみに紅葉山公園もギリで南側だ。野球をやりたい彼らの地域事情が見えた気がして、ぼくは少しだけ彼らに同情していた。
いつもなら休みの日曜日は昼ごろまで寝ているけど今日は、そうも行かない。約束の時間は午前10時。お母さんに9時に起こしてもらうと顔を洗って、平日と同じように作ってもらった朝食のトーストを2枚食べて9時20分に家を出た。
イッちゃんの家まで自転車で5分。
イッちゃんの家の前には既に何台かの自転車が集まっている。インターホンを押さないで、大きな声で呼ぶとしばらくして中からドヤドヤとみんなが出てきた。ほぼ全員が揃っている。
「あれ、玉井くんと高橋くんは」
二人だけ姿が見えない。
「打越公園で肩慣らししてる」
イッちゃんの家は打越公園の並びにある。湯田くんが呼んでくると言って自転車で先に走り出した。
考えてみると休日に学校の友達に会うのはこれが初めてだ。よく晴れたのどかな休日の陽気で、イッちゃんたちといるのが何だか不思議な感じがして胸がドキドキしてくる。
最後に自分の家から出てきたような寝ぼけ眼の長谷川君がイッちゃんの家から出てくると、閉まりかけた玄関のドアを掴んだイッちゃんが頭だけ家の中に入れて、
「かーちゃん。行ってくる」
と元気よく叫んだ。
奥からどこの球場かというお母さんの声に、イッちゃんは「平和の森」と返事をした。
ぼくにとっては9人目の選手の松信真二くんと顔を合わせるのは今日が初めてになる。マッちゃんは同じ6年3組の生徒だけど唯一、センブー塾の生徒じゃない。家出ばかりしているとイッちゃんが言っていたけど、彼はみんなとも仲が良くてとても何か問題がある子供には見えない。問題児というと、つい金髪の圭樹を連想してしまうけど、マッちゃんは色白で少し小柄なところはなんとなくぼくに似ていている所もあって、スポーツがあまり得意そうじゃない感じは、ぼくをホッとさせてくれるものがあった。
ぼくたちは打越公園から出てきた玉井くんたちと合流して9人で、平和の森公園へと向かった。途中、駄菓子屋によってみんなで駄菓子の食べくらべをしながら穏やかな雰囲気で平和の森公園の少年野球場に10時少し前に着いた。グラウンドでは既に桃三の生徒が守備についてノックをしていたのには一同驚かされる。半ズボンに白い靴下をもう汚している子もいる。大人がいるわけでもないのにバッターボックスで球を打っている子は、時おり命令口調で指図なんかして、なんだかやけにピリピリしているように見えた。
ぼくらは自転車を止めてゾロゾロと球場に入る。遅刻したわけでもないのになんだか罪悪感を覚えるのはぼくだけだろうか?
イッちゃんが代表して走って行く。
「よう、石神」
イッちゃんが声をかけた石神くんという少年が桃三のリーダーのようだ。彼はイッちゃんをチラリと睨むとそのまま黙ってノックを3球続けてからようやくバットを下ろしてイッちゃんの方を向いた。何だか憮然として見えるのは、腫れぼったい目蓋を邪魔そうにしている細い目と薄い眉毛のせいかも知れなかった。増田圭樹や長谷川くんとはまた違う少年離れしたこの感じは、ぼくの田舎には絶対に生息していないタイプだ。ぼくは改めて都会で育つ少年たちの奥深さと多様性を考えずにはいられなかった。
ぼくたちの野球の中心にはイッちゃんや玉井くんがいる。かたや桃三の石神くんたちの中にはどんな野球があるのだろう。
「約束は守ってもらうからな」
石神くんがイッちゃんを睨みつけながら言ったように見えたが、ぼくは石神くんは元々が年中怒っているような顔をしているのだと言うことに気が付いた。だけど言葉がつっけんどんだから大半の人は怒っているようにしか見えないだろう。それでもイッちゃんは普通にしているけど、湯田くんやヨッぴんが何ごとかと殺気立った顔をするものだから、ノックで守備位置に就いていた桃三のメンバーも走ってきて、まるでこれから喧嘩でも始めるような雰囲気になってしまった。
中心にいる二人だけが言葉を交わす。
「まるでもう勝ったような言い方だな。その自信がどっから出てくんのか俺はふしぎだよ」
「やればわかる。今日はお前たちから打たせてやるよ。みんな始めるぞ俺たちが後攻だ守備に就け!」
石神くんの号令に桃三のメンバーはどこか不完全燃焼のまま、グラウンドに散っていった。ひとりファーストの守備位置に向かう地黒で肩幅の広い少年がぼくらに向かって中指を立てた。一番近くにいた湯田くんが目を吊り上げる。
「緒賀っやめとけ!」
その場に残って足にレガースを装着している石神くんが制した。どうやらキャッチャーは石神くんがやるらしい。
いよいよ、桃二対桃三の試合が始まる。
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