第7話 一球勝負

「もうだいぶ暗くなってきたから、そろそろ始めようぜ」

 練習の締め括りとして、イッちゃんが言ったこの言葉は、玉井くんとの一球だけの勝負を始めることだった。

 そもそもぼくらの野球チームは、公式リーグに所属しているチームでもなければ、草野球のチームでも何でもない。クラスで仲のいい友達が集まってドッジボールをやったり鬼ごっこをやっているのと何ら変わりはないと言っていい。だからどこかのチームと試合があるわけでもない。ならどうしてこんなに頑張って野球の練習をしているのかと言うと、それは言わずもがなこの玉井くんの投げる球を一度でいいから打ってみたい。ただそれだけで皆、こんなにも本気になっているんだ。

 最初は学校の休み時間のときに始まったらしい。ボールは軟式のテニスボールでバットは軽い金属バットだったそうだ。それでもイッちゃんを始めほかの誰にも玉井くんの投げる球を打つことはできなかったそうだ。それが小1の時の出来事。

 その時からイッちゃんたちは、かれこれ5年ものあいだ、玉井くんとの勝負を続けていることになる。


 今日の玉井くんとの勝負に最初にバットを握ったのは、湯田くんだった。

「よしっ俺も今日からジックリと球を見るぞ!こいっ」

 かくて湯田くんは、宣言通りに球をよく見ようとしたのが仇になり、大きく振り遅れの空振り。

「よりによって玉井チンのボールを見ようなんて無駄だっつうの」

 と言った穂刈くんも空振りに倒れる。 ぼくの見たところ玉井くんは打越公園で投げていた時と比べて随分と力を抜いて投げているように見える。それでも先生が今日ぼくに投げてくれた一番速い球よりもずっとレベチなのは確かだ。


「お前たち進歩がないなぁ」

 高橋くんが玉井くんに返球しながらぼやいている。

 次はイッちゃんが打席に入る。

 キャッチャーミットを構える高橋くんのうしろから、玉井くんの投球を見ていたぼくは鳥肌が立った。玉井くんが打越公園で投げていたときと投球動作が重なったからだ。あのときの剛速球がくる。

 なのに玉井くんは淡々としていて、勝負とは思えないほどリラックスしている感じで球を投げた。

 投げ出されたC級が透明のキャンバスに白い残像を描く。縫い目が見えるとか見えないの問題じゃない。

 それでもイッちゃんは反応してバットを振る。

 当たった!

 しかし打球は前ではなく、鋭く後方に弾けて行った。

「ちくしょうー、差し込まれた」嘆くイッちゃんがバットを地面に叩きつける。

「いや、完全に振り遅れだよ。次は俺だ」

 長身のヨッぴんがバッターボックスからイッちゃんを追い出してバットを構える。

 ヨッぴんだけは左打ちだ。なんだかそれらしい雰囲気を感じる。そしてこのとき初めて玉井くんが左ピッチャーだったことにぼくは気が付いた。

 グラウンドの外では野球道具を軽トラの荷台に積み込んでいた先生が手を止めて、玉井くん対ヨッぴんの勝負に注目している。

 玉井くんは相変わらずリラックスした感じで投球動作に入る。両腕を頭上にあげるワインドアップだ。それはイッちゃんに投げたときと同じだけど目の色が違っている。本気度が増している。背中を照らしている西日が玉井くんのためにあるように感じてぼくはつい見とれてしまった。マウンドにいる玉井くんは今、誰よりもカッコイイ。腕はあんなに細いのにランニングシャツから出ている発達した肩の盛り上がりに力強さを感じた。

 ぼくはいつの間にかアンパイヤのようにキャッチャーのうしろで構えていた。

 だから見えた。玉井くんの投げたボールがバッターの少し手前で浮き上がるのが。

 ボールが引力に逆らって浮くなんて信じられない!浮き上がった軌道上にはぼくの顔がある。だけど僕はギョッとしただけで動けなかった。目をつぶってしまった。その一瞬で全てが終わっていた。目を開くと高橋くんがしっかりとボールをキャッチしていてヨッぴんは空振りしたバットでベースを叩いていた。

 目を閉じてしまったけど、ヨッぴんがバットをスイングしたブンッという音とミットに球が収まるパーンッという音は、ぼくの頭の中で2度と上書きされない領域に記憶された。


「次は、カミちゃんだぜ」

 まさかぼくもだなんて考えてもいなかった。

「えっ、ぼくも?」

 いいぞカミちゃん頑張れ、と声援を送られてぼくはバッターボックスに立った。

「カミちゃん、バットを短く持て」

 ヨッぴんのアドバイスに従って拳ひとつ分バットを短く握る。

 玉井くんの白い歯が見える。笑っている。そして投球動作に入る。それは湯田くんや穂刈くんに投げたときの動作だ。全力投球には程遠い。それならばとぼくは目を見開いてタイミングを合わせることに集中する。

 玉井くんの投げた球はうしろから見ているのとは全く別物だった。先生が投げたのとは次元が違い過ぎる。ぼくの想像を遥かに上回っていた。

 玉井くんの手から離れたボールはまるで自我に目覚めたかのように自らの意思をもって突っ走ってくる。ぼくは速球の威力が描く一直線上の真ん中あたりにいる気がする。ぼくはすっかり球に魅入られてバットを振ることを完全に忘れてしまった。

「なんだよカミちゃん見逃しかよ」

 湯田くんが笑いながらぼくを指さしている。でもそれは馬鹿にしたような言い方じゃない。むしろシンパシーがこもっている。

「最初はみんなそうだ、因みに湯田はバットを振るまで5回は見逃してるから、気にすることなんかないよ」

 穂刈くんが小さな声で湯田くんの心中を教えてくれた。

 ぼくは全然悔しくなんかなかった。

 玉井くんの成長を近くで見ていたいと言うイッちゃんたちの気持ちが痛いほど伝わってくる。玉井くんはあと数年もしたら、きっとぼくらの手の届かない所へ行ってしまう。これは玉井くんと一度でも対戦したら誰でも感じることだと思う。圧倒的な才能を持っている友達が目の前にいるのは嬉しくもあるし、切なくもある。

 イッちゃんたちは毎日それを噛み締めながら玉井くんと野球をやっているんだ。

 この時からぼくの野球に対するうしろ向きな気持ちはだんだんとなくなっていく。少しでも上手くなって玉井くんの成長に貢献したいと思った。下手なままじゃ玉井くんが見切りをつけてどこか新天地に行ってしまうかも知れない。

 今度の桃三との試合が急にちっぽけなことのように感じ始めていた。

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