第6話 村上貴之(ライパチ)

 センブーが左ひざをそれ迄より少し高く上げると、球のスピードがその分増した。

 それでもバットを構えているぼくは球の回転がハッキリと見える。そして目前に迫った瞬間にセンブーから教えられたように力強く、腰の回転を意識しながら腕を畳んでコンパクトにバットを振る。しかしボールはぼくのバットをすり抜けてうしろのコンクリートのキャッチ版にぶつかり僕を無視してセンブーのグローブに戻って行く。さっきから何度も繰り返している光景だった。

「村上ボールが怖いか?」

 センブーが何かに気付いたように言った。塾の学習中に生徒と向き合っている時の顔をしている。

「いいえ怖くはありません。ちゃんとボールが回転しているのも見えています。でもバットを振っても当たる気がしません」

 本当は回転している軟球の縫い目も見えていたけど、それは黙っていた。この辺りの観察方法はゲームを攻略するのと同じ感覚だ。ゲームとの違いはコントローラーが自分の身体と連動していることろだ。ぼくは今まで身体の反射神経というものをスポーツに費やしたことが、ほとんどなかったから、まだレベル0のところにいる。

「ボールの回転が見えていてもバットを振る時に目を閉じていたら絶対に当たらないぞ。当たる瞬間までバットを見ていなきゃダメだ。もう一回いくぞ」

 そうかバットを振る時、ぼくは目をつぶっているのか。

 センブーはひざをほとんど上げないで球を投げてきた。

 かなり遅い球が飛んでくる。球の回転もほとんどない。さっきまで軟球のサイズを表すCの文字がAになっているのも判別できた。きっとセンブーは当たりやすいようにサイズの大きい球を投げたんだ。

 センブーのそんな気遣いを理解しているうちに球はうしろの壁に当たってセンブーのもとに戻って行ってしまった。

「どうした村上、バットを振らないと当たらないぞ」

「すいません。球がA級になっているのが見えたんですけど、バットを振るのを忘れました」

 センブーはしばらくぼくを見つめていたけど「いくぞ」といってまた投げてくれた。今度はしっかりと膝が上がっている。その分だけ早い球が来る。ぼくは目を閉じないように意識してバットを振る。

 空を切った。それでも見えた。

「今のは何級だったか分ったかい」

「C級でした」

 球が回転していても判別ができた。

「でも目を閉じなかったのに当たりませんでした」

「村上、球が回転しているのが見え始めるのはどの辺りだい」

「この辺りです」ぼくは自分の立っている位置から、球の回転が見え始める所をバットで示して先をクルクルと小さく回した。バットを持って腕を真っ直ぐ伸ばした辺りだった。センブーはなるほど、と言う顔で頷く。

「村上、球を見ることに専念しすぎじゃないか。回転を確認してからバットを振っているから当たらないんだ。こっちから見ていると完全に振り遅れている。タイミングを考えてバットを振るんだ。いいかもう一度行くぞ」

 次も同じ速さの球が飛んくる。センブーが言うように「タイミングを考えて」という意味が理解しきれていなかったけど回転がハッキリと見えるポイントに球が来る前からバットを振りだした。それでもボールがバットの上を抜けていくのが見えた。当たらなかったけどぼくは、この時初めてセンブーの言ったことの意味が理解できた。今のはタイミングは合っていたけどバットの軌道がずれていたんだ。

「先生、意味がやっと理解できました。もう一度同じ球をお願いします」

 今度こそ打てる気がした。センブーが球をリリースすると自然に片足が浮いた。

 Cというアルファベットが見える。球の凹凸に詰まっている土の汚れまで見えた。振り出したバットのタイミングも合っている。

 それでも球はバットの上を抜けて行った。

「先生やっぱり駄目です。当たりません」

 センブーは何かを確認するかのようにひとつ頷いた。

「村上、今度はバットの振り方だ。バットはテニスのラケットみたいに下から掬い上げるんじゃない。上から叩きつけるんだ。その方が当てやすいし球も飛ぶんだ。もう一度いくぞ」 

 次にセンブーが投げた球は、これまでで一番遅い球だった。センブーが言うように上から叩きつけたら、目の前で大きくバウンドするイメージしか湧いてこない。それでもぼくは言われた通りに飛んできた球にバットを叩きつけた。

 初めてバットに球が当たった感触は予想外に重くて、球はセンブーが言ったようになぜか上に飛んで行った。

 両手に残るジーンとした痺れにぼくは少し興奮する。だけど球の回転を確認する集中力とタイミングを合わせる作業を両立させるのは相当に難しいということが解った。

「やったな、カミちゃん」

 いつの間にか近くにいたイッちゃんが満面の笑みでぼくを見ていた。

 ぼくは返事をしないで頷くだけに留める。この感触を今のうちに確かなものにしておきたい。

「先生。今度はもっと早い球でお願いします」

 もうセンブーの投球動作でどの程度の球が来るのか解る。バッティングは身体さえ動けばゲーム感覚で考えてもいいみたいだ。

 球は見えている。タイミングの合わせ方も理解できた。それを同時にこなすんだ。


 この日、ぼくは何度もバットに当てることに成功した。ぼくは夢中になった。面白くなってくるとセンブーのアドバイスがぼくの中に染み込むように入ってくる。

 今日一日で理解がかなり進んだのは確かだ。

「やっぱセンブーは凄いな。カミちゃんがあっと言う間に打てるようになっちゃったよ」

 イッちゃんがまるで自分のことの様に喜んでくれるのが嬉しかった。

「センブー、俺が初めての時と比べてどうよ」

 素振りしていた湯田くんが走ってきて言った。

「どっちが上手とかは解らないけど、村上は物凄く目がいいみたいだぞ。湯田は飛んでくるボールのC級マークが見えるか?」

「そんなの見えるわけねえじゃん。えっまさかカミちゃんは見えんのかよ!」

 湯田くんがそんなまさかの顔でしばしフリーズする。

「うん、なんとなくだけどね」

「イヤ、イヤ、イヤ、イヤ普通はそんなの見ようとしないから」

 湯田くんは手をヒラヒラさせながら言う。

 グラウンドに散っていた他のみんなも集まってきた。

「でもちゃんと見えないと球が打てなくない?」

 湯田くんが理解に苦しんだまま、またしてもフリーズする。

「そう言われると尤もなんだけど、俺たちはその辺は感覚で捕えてるんだよ」

 穂刈君が言った。

「感覚で打つなんて、その方が凄いよ」

「何言ってんだよ。凄いのはカミちゃんの方だよ」

 イッちゃんが軟球のCマークを見ながら言う。手の中で回転させながら飛んでくる球を再現していた。かたわらで湯田くんが眉間に皺を寄せてそれを凝視している。

「この時点で湯田どころか、誰よりも素質を持っていることになるんじゃね」

 ヨッぴんが穏やかな顔をして言ってくれた。ここ数日のぼくのヘタクソぶりに一番落胆しているような感じがしていた。ぼくはヨッぴんの穏やかな顔に心底ほっとする。

「村上は足の方はどうなんだ。早いのか」

「センブー、こないだ体育の授業で走ったんだけど俺よりちょっと早いくらいだった」

 センブーの問いかけに高橋くんが笑いながら打ち明ける。はち切れそうなお腹が揺れている。そうなのだ、かなり本気で走ったのにぼくはクラスの男子の中でビリから2番目だったのだ。

「これで足が速ければ1番バッターになれるんだけどな。磯村はどう考えているんだ。今度の試合」

「うん。8番ライトに決めてたんだけど考え直してみる。それよっかさ、もうそろそろ始めようぜ」


 時刻はもう夕方の6時になろうとしていた。

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