第4話 センブー塾
「玉井チンのストレートが打てるのは、俺とヨッぴん、だけなんだぜ」
イッちゃんが自慢げに言う。
ヨッぴんは、
「守備のエラーがなかったら二人ともアウトだから、まだ打ったうちには入らないと思うけどな」
とツッコミを入れたのは、
「いい当たりでも、その時の守備位置でアウトになったり、ヒットになったりするんだから、ホームランを打たないと本当に打ったことにはならないだろ」
穂刈君と似たようなことを言ったのは、
「穂刈も湯田も、打ったこともしないくせによく言うよ」とイッちゃんとヨッぴんがキレイにハモルとみんなが笑った。
「さっきからみんな何言ってんだよ、俺の本気の球は高橋でも捕れないから、まだ一度も投げたことがないんだぜ」
玉井君がそう言うと隣に座っている高橋君が申し訳なさそうにごま塩頭を掻いている。
「ところで、カミちゃんはどこを守る?」
イッちゃんがとんでもないことを口にした。
「えっ守るって、もしかして僕に野球をやれって言うの?」
「何しに来るつもりだったんだよ」今度は穂刈君と湯田君がハモる。
「ぼくはただ単に試合を見に行くつもりだったんだけど、駄目かな」
ぼくは眉毛をハの字にして訴える。生まれてこのかた野球なんて一度もやったことがないんだから。いや他のスポーツだってそうだ。
「今さら何言ってんだよ。じゃあカミちゃんはライパチでいいんじゃねぇ、なあイッちゃん」
とヨッぴんが勝手にぼくのポジションと打順を決めてしまう。普段寡黙な感じの人が言い出すことは、なんか否定しずらい重みがある。
ぼくは嬉しいのと不安がごちゃ混ぜになったまま家に帰ることになった。
家に帰ると玄関でお母さんが待ち構えていた。
「今日から中央学習塾に行くんでしょ」
野球のことですっかり忘れていた。これでぼくも晴れてイッちゃんたちの仲間になるんだ。こうなったら野球でも何でも……やってやる!
「知っていると思うけど今日から新しい仲間が増える。村上貴之くんだ。みんな仲良くやってくれよ」
こうして塾の先生に紹介されると、また新しい学校に転入したような気分になるけど顔ぶれは桃二で過ごす午前中とあまり変りばえしない。
イッちゃんもヨッぴんも玉井くんも高橋くんも穂刈くんも湯田くんもいる。違うのはみんな自分の席に着いて机に勉強道具を出していることだ。
そして元々ゲームセンターの経営者で今は塾の先生になったというセンブーは、身体が大きくてスキンヘッドにサングラスをかけて、竹刀でも振り回している強面かと勝手に想像していたんだけど蓋を開けてみれば、髪は七三分けで黒縁眼鏡、体型はどちらかというと小柄。ハッキリ言わせてもらうとどこにでもいるサラリーマンのおじさんと言った感じ。どうしてあの圭樹がセンブーの名前を聞いただけで態度を変えたのか今はまだ理解できない。
「センブー、カミちゃんを勧誘したの俺なんだぜ、何か褒美をくれよな」とイッちゃんが言った。
「なんだ磯村お前だったのか、よしっ、じゃあ今日はとっておきの新しい公式を教えてやるからな。覚えるまで帰さないぞ」
「マジかよ、そりゃねえだろセンブー、今のなし、聞かなかったことにしてくれよ」
イッちゃんは身体をクネらせて机に突っ伏した。イッちゃんが本気で嘆くところを見ると、どうやらセンブーにこの手の冗談は通じないらしい。それが証拠に穂刈くんが「学習能力がないなあ」と横で呟いていた。
さすがのイッちゃんもこの塾ではカリスマ性が半減している。
ここではセンブーが中心なんだ。まあセンブーの塾なんだから当然か。きっとみんなセンブーがいるからこの塾に通っているんだ。
「みんな今の磯村の行為を
ぼくはイッちゃんの横に座った。
「それから勉強を始める前にもうひとつ。本日付で増田圭樹がここを辞めた。家族の都合で引っ越したんだから仕方ないな」
ぼくは内心ホッとしていた。それを見透かしたようにイッちゃんがぼくにウインクをした。
桃二の6年生は宿題がたくさん出る。いやこれは学年でと言うよりも6年3組がと言った方が正しいようだ。
穂刈くん曰く、
「学年主任の藤岡先生が、俺たちのことを嫌ってるから担任の石井先生に圧力をかけて宿題をたくさん出させているんだ」
と言うことらしい。
したがってセンブー塾の授業は学校の宿題を片付けることから始まる。もしかしたら学年主任の藤岡先生は僕らがセンブー塾に入っているのを見越しているのかも知れない。
みんなはこの塾で、学校の授業中とは比較にならないほどの集中力を発揮する。解らないことはとことん質問するし、センブーも人が変わったように熱くなる。これには僕も気後れするほどだ。もっと和気あいあいとしているのかと思ったのに。これにはちょっとガッカリしちゃったんだけど、どうしてみんながこんなに頑張るのかすぐに判明する。センブー塾は授業が終わってからが本番なのだ。
「センブー、来週の桃三との試合にカミちゃんも出るんだけど野球やったことないみたいだから、ちょっと見てやってよ」
やっとのことでイッちゃんが新しい公式を覚えて今日の授業が終わると、そのイッちゃんがセンブーに言った。ちなみにイッちゃんが覚えた公式は解の公式というもので実際には中学になってから数学の授業で習うものらしい。もちろんほかのみんなもイッちゃんに付き合って公式の形だけは覚えた。あとから聞いたことだけどみんな学校ではほどんど授業を聞いていないのに全員の成績が学年でそんなに低くないのは、きっとセンブー塾のお陰なんだと思う。穂刈くんに限っては学年でトップクラスだということらしい。
「よし、じゃあ今日は紅葉山公園のグラウンドに行って練習しよう」
センブーが言うとみんな待ってましたとばかりに椅子をガタガタと鳴らして席を立った。野球をしない生徒は「試合は観に行くよ」と言い残して帰って行く。
紅葉山公園はJR中央線の線路の向こう側にある森のように樹木の多い公園で他にもグラウンドや図書館やプラネタリウムを併設している大きな施設で、公園内には機関車が展示してある。この街に引っ越してきたばかりの頃に最初に探索したのがここの図書館だったことを思い出す。ついこないだのことなのに、ぼくの周辺事情はあの時から大分変っている。
ぼくたちは自転車で紅葉山公園に向かった。
センブーは野球の道具を積んだ軽トラックで向かう。
グラウンドに着くとイッちゃんたちは各々野球道具を取って練習を始める。
玉井君は高橋君とキャッチボールを開始した。
「村上は他に何かスポーツはやったことはあるのか?」
なぜか野球のユニホームを着ているセンブーが僕に言った。だけど素人にしか見えない。ぼくはちょっと安心する。
「今まで何もやったことありません」
センブーは少し微笑んだ。俺も素人だよというシンパシーを感じる笑みだった。
ぼくはその場の勢いで試合の参加に応じたことを後悔していた。試合に負けるとしたらきっとぼくのせいになるに違いないと最初から思ってはいたけど、練習を始めてすぐにそれを確信していた。
「そんなに緊張することないぞ、むしろ初めての方が教えやすいからな」
「カミちゃん俺たちもみんなセンブーに野球を教わったんだぜ」
少し離れたところでバットを振るイッちゃんが言った。イッちゃんはグラウンドに散っているみんなにノックを始めている。
ぼくはこの日みんなとの練習には混ざらないでセンブーにマンツーマンでコーチをしてもらっている。
キャッチボールで投げたボールは明後日の方向に飛んでいくし、バッティングは空振りばかりを繰り返した。
もしかして才能があったらどうしようと少しでも期待していた自分が馬鹿だったと言うことを思い知らされる。それでも根気強く教えてくれるセンブーに申し訳ないという気持ちで一杯のまま、夕暮れを迎えた。
「今日はここまでにしておこう」
センブーが終わりを告げみんなにも声を掛ける頃には、今度の試合にはどうにか辞退をする理由がないものか考えていた。やっぱり僕には野球なんて無理なんだ。きっとセンブーもぼくの運動神経の悪さに気が付いているはずだ。
汗だくのイッちゃんがセンブーからタオルを渡されて、その場で何か話し込んでいる。きっとぼくのことを言っているんだ。
なんだかイッちゃん合わせる顔がなくて、いたたまれない。
このあとぼくは誰とも話さないで、その場から逃げ出すように家に帰った。
自転車のペダルを踏むたびに、今まで使ったことのない筋肉が悲鳴をあげている。
「お帰り、初めての塾はどうだった」
最悪だよ、でもお母さんは今のぼくの気持ちを知るはずもない。
「うん、面白かったよ」
ぼくから塾に入りたいと言い出したんだから、弱音を吐くわけには行かない。
「ところで貴之、今度の日曜に野球の試合に出るんですって?今日磯村くんのお母さんに聞いたわよ」
親同士が仲がいいのは、ちょっと考えものかも知れない。なんだかお母さんは嬉しそうにしている。
「わかんないよ。そんなの。でも試合って言ってもさ、ただの放課後の遊びの延長だよ」
だいたい正式なチームでもクラブでもないのに、どこでどうして試合なんて決まったんだろう。
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