第9話 凛side

 目を覚ますと、自分の部屋だった。壁時計は午後2時近くを指している。体がだるい。まだ熱があるようだ。全身汗だくで、服が体に張り付いている。その気持ち悪い感覚が、昨日の記憶を呼び覚ます。千愛に告白したこと、千愛が駆けつけてくれたこと、千愛と付き合うことに……なったこと……。まさか。信じられない。まだ夢を見ているのだろうか。でも、あれはたしかに、現実だった、はず。

「それより、学校に行かないと……千愛が……」

「私が?」

 幻聴でも聞こえたのかと思ったが、ベッドの脇を見ると、そこにはたしかに千愛がいた。折りたたみ椅子に座っている。全く気が付かなかった。

「どうして……?」

「今日は土曜日だから午前中授業ですよ凛さん」

「ああ……なるほど……?」

「私はお見舞い。昨日はずっと濡れた服着てたからね、風邪ひいても無理ないよ。はい、おみやげ」

 千愛に手渡されたのはコーヒー豆だった。紙袋からして高級そうな品だが、明らかに病人に渡すものではない。

「普通お見舞いには果物じゃないの?」

「凛って甘いもの好きじゃなさそうだから、よく飲んでるコーヒーにした」

 千愛はふざけているわけではなく、本気でコーヒー豆を買ってきたらしい。果物なら少し食べられる気がしたのに。千愛の前で甘いものを避けてきたことを、少し後悔する。

「凛、汗かいてるね。着替えたら?」

「そうだね……」

 私は立ち上がる。熱のせいか、頭が少しふわふわする。よろけないよう慎重にクローゼットまで歩いて、壁に手をつくと、片手で戸を開ける。「大丈夫?」と声を掛けてくれる千愛に「大丈夫、ありがとう」と返し、中の引き出しから最低限の衣服を取り出す。裸体を見られるのは恥ずかしいので、扉に隠れて、ぐっしょりと濡れた部屋着を取り替える。

 着替えながら、ぼーっとクローゼットの中を見ていると、奥に仕舞い込まれた段ボール箱に目が行った。私が何重にもガムテープを張ったその箱には、親が作ったアルバムが入っている。小学生のころまで、親が熱心に写真を切り貼りしていたアルバムだ。今は見たくないし、未来の私も絶対に見返したりしないだろう。無垢な私と目を合わすなんて、絶対にしたくない。幼い私は、将来当然に恋人を作って、友だちもたくさん作って、楽しい学校生活を送るんだろうと思っていた。そのキラキラした目を見るのが辛くて、中学生の頃、段ボールに全部投げ入れて、封をしたのだ。二度と見なくて済むように。

 それでも

 何故かは分かっている。私は、過去から私だから。私は今のこの瞬間にだけ生きているわけではなくて、なんというか、過去を含めて生きているから。過去を捨てることはできなくて、できるのは、ただ、押し込めて隠すことだけ。それは、いつまでもそこにあって、確実に後ろをついてくる。過去は私の一部だ。なら、過去を捨てることは、私を捨てることだろう。だから、捨てられない。縁を切ることもできない。幼い私と、ずっと付き合っていくしかない。あなたが思い描いた自分になれず、空っぽになってしまった罪悪感とともに。

 でも、今は不思議と、和解できそうな気がしている。

 千愛は恋愛ができるか分からないと言っていた。私と同じで、変な人間なんだと。驚いたけど、不思議とすんなり受け入れられた。私たちは、やっぱり似た者同士だったのだ。

 私は他人と仲良くなるのが下手だ。だから、友だちはいない。千愛のことは、まだ恋人と言っていいのかも分からない。だけど、千愛は「凛がいい」と、はっきり言ってくれた。そんな間柄の人を一人作れれば、私としては大きな進歩だろう。

 シャツを被り、ズボンも履き終わった。

 私はクローゼットをしっかりと閉じる。

 少し熱が上がっているような気がしたが、気にせずベッドに戻ると、千愛はのんきにコーヒー豆の匂いを嗅いでいた。

「小山内さん、昨日のこと。改めて、ごめんなさい」

「別にいいけど、凛、寝てた方が良くない? ふらふらしてるし」

「大丈夫。それより私思ったんだけど。昨日、本当に、告白してよかった」

「何それ。私も、泣きまくってる凛が見られてラッキーでしたけど」

「……」

「いやいやそんなに怒らないでよ。凛ってそうやって黙ってるとき、いつも眉間にきゅっとしわ寄せて、口ぐっと結んでるよね」

 慌てて眉間と口を触ると、千愛はクスリと笑った。

「あ、ほらまた!」

 ふざける千愛に、私は一発頭を叩いてやろうと勢いよく立ち上がった。が、それが大きな間違い。立ち眩みで目の前が真っ暗になると同時に、猛烈な吐き気がこみあげてくる。やばい。視界が定まらない中、のたうち回るように部屋を出て、トイレに駆け込むと、私の体は勢いよく嘔吐した。

「凛、大丈夫!?」

 千愛がドアを叩いている。

 しかし不思議なことに。

 私は、心の底から笑っていた。

 空っぽの胃が、妙に心地よかったからなのか。千愛と冗談を交わせていることが幸せだったのか。よく分からなかったが、とにかく私はしばらく笑っていた。

 笑うのは、本当に久しぶりだった。

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