第7話 千愛side

 まるで百合マンガの中に入り込んだみたいだ。

 勘違いさせてしまった人を追いかける。そんな展開を私が体験するなんて、思ってもみなかった。

 なんでそんなに百合が好きなの、と凛に一度だけ聞かれたことがある。

 今思えば、凛がなんでそんな質問をしたのか、よくわかる。でも、私が百合好きなのは、女の子が好きだからじゃない。中学生の頃、兄の本棚にあった百合本を見てしまって、その衝撃が忘れられず、それから自分で色々探すようになっただけ。特別な理由はぜんぜん無い。というか、私は「恋」を経験したことがない。みんなは当たり前みたいに恋バナするけど、みんな背伸びをしているだけなんじゃないかと未だに思ってる。キュンとするとか、ドキドキするとか、都市伝説並に信じられない。だけど、不安が無いと言えば嘘になる。みんなは順調に大人になっているのに、私だけまだ心が小学生くらいで止まっているのかもしれない。実は脳の病気で、恋の心だけが麻痺してしまっているのかもしれない。

 その点、凛と私は似ていると思っていた。凛は、いつも他人に興味が無さそうだった。いつも凛々しくて、堂々としている、でもそれでいて、周りに気付かれたくないみたいに、好んで一人でいるような、少し変わった人。そんな人が、恋愛に興味があるはずないと思っていた。だから、凛はあらゆる点で私より大人だけど、そこだけは同じなのだろうと、安心していた。


 ——小山内さんが、好きなの。付き合って。


 でも違った。凛は、私のことが好きだった。凛は恋愛ができるんだ。

 凛は、どんな気持ちで告白したんだろう。百合マンガみたいに、心臓がドキドキしたり、切ない気持ちでいっぱいになったり、したのかな。

 でも、私は凛のことを考えても、心臓がドキドキしたりしない。切ない気持ちがこみあげてきたりもしない。

 それがとてつもなく、悔しい。

 凛を見つけたとして、どうすればいいのか。断るのはあり得ない。かといって、受け入れるのも凛を騙すみたいで嫌だ。

 気持ちの整理がつかないうちに、駅が見えてきてしまった。私は屋根の下に駆けこむと、傘の雫も払わずに、あたりを見渡す。

 凛はすぐに見つかった。自動販売機と公衆電話の間、人が二人並んでギリギリ入れるくらいの狭いスペースに、凛は体育座りしていた。全身ぐっしょり濡れている。ブラウスが透けて、グレーの下着が浮き出てしまっている。いつも綺麗に梳かれている黒髪は、頭を掻きむしりでもしたのか、ぼさぼさだ。顔はその髪で隠れて、よく見えない。人違いだと思いたくなるほど、普段とは、かけ離れた姿。でも、私には凛だと分かる。

 もし何か間違えたら、取り返しがつかない。手が汗ばむのを感じながら、大きく深呼吸する。

「凛?」

 威嚇する動物に話しかけるみたいに、優しく声をかけると、女の子はピクリと反応した。

「……何しに来たの」

「探しに来たに決まってるじゃない」

 頭の部分が力なくこちらを向く。凛は髪の隙間からこちらを覗いている。怯えるみたいに。

「さっきは本当にごめん。凛の気持ち、よく分かった」

「……私のこと、気持ち悪いと思った?」

「思ってない」

 迷わず口に出す。迷ったらだめだ。ここで言うことを言わないと、絶対に後悔する。それはなんとなく分かる。

「私は凛のこと気持ち悪いなんて絶対に思わない。むしろ、告白してくれて良かったと思ってるよ。凛の気持ちを知れて、とても嬉しいの」

 そういえばそうだ。凛が告白してくれて、今私はとても嬉しい。凛は私を大切に思ってくれている。そうじゃないと、告白なんてしない。

「凛はあんまり自分のこと話さないから、本当に嬉しい。ねえ、帰ろう。そのままじゃ風邪ひいちゃうよ」

「小山内さんは優しいね。でも、もういいの。明日からもう話さないでおこう」

 全てを投げ出したような態度の凛に、私は頭に血が昇るのを感じた。

「バカ! そんなこと言うな!」

 頭で考えるより先に、私は叫んでいた。

「なに卑屈になってんの! いつもの凛はもっとしっかりしてるでしょ! もっと大人で、堂々としてて、カッコよくて、いつも私を引っ張ってくれる、お姉ちゃんみたいな……っ」

 気付くと、凛の目から涙が流れていた。

「私はそんなんじゃない。弱くて、自分の意思も持てない、惨めな人間」

「凛はそんなんじゃない!」

「小山内さんにはそう見えたかもね! でも私は自分の意思なんて持てない。そういう癖がついちゃってるから。親には否定され、自分の気持ちを蔑ろにされる。たまたま女が好きな人間に生まれただけで、毎日嘘を吐き続け、ビクビクしながら生きなきゃいけない。別に不幸な生まれでもないし、才能にはむしろ恵まれてるはずなのに、いつも不幸だって考えが離れないの。一人でいる時は、線路に飛び込んだり、首を吊ったりするところ、想像してるんだよ。私のこの気持ちがわかる?」

 凛の激しい感情の波に、言葉が出ない。

「どうして私はこう生まれなきゃいけなかったの? 私にだって、自由になる権利はあるはずでしょ!? 自由に恋愛して、自由に将来を決めて……。みんなそうしてるじゃない! でも私は無理なの! それもこれも、私がこんなだから……! 私が……もっと普通な人間に生まれてたら……!」

 凛がポロポロと涙をこぼす。

 胸が締め付けられるみたいだった。凛は、「秘密」を誰にも打ち明けられなかったんだろう。この苦しみを誰にも相談できないまま今まで暮らしてきて、そして初めて、私にそれを吐き出してるんだ。そう思うと、自分のことのように胸が苦しくなる。

 私にできることは? 慰めること? たぶん違う。私は凛じゃない。どんな慰めの言葉も、凛には届かないだろう。

 それならと、私は優しく呼びかける。

「そうだね、凛は普通とは違うかもしれない」

「……」

「でもね、私も普通じゃないの」

 凛は長髪の間から、充血した目で私を見つめる。

「私、まだ恋愛が分からなくて。もうすぐ高校卒業しちゃうのに、誰かにドキドキしたことがないの。変でしょ?」

 いつものように、明るく笑ってみせる。凛だけに見せられる笑顔。

 けれど、凛はまた俯いてしまう。きっと、場を取り繕うための嘘だと思ってるんだ。

「ほんとだよ、凛……」

 私は幼い子に目線を合わせるように、凛に近づいてしゃがみ込む。凛にそーっと手を伸ばす。慎重に、慎重に。

 髪に手が触れる。しっとりとした感触が伝わる。凛は、抵抗しない。私は両手で、髪を少しずつ分けてあげる。顔が見えると、凛は不安げな表情で、こっちをじっと見ていた。その顔は青白く、もう死んでしまっているみたいに、生気が無い。

「同情なら、いらない。もう構わないで」

「同情とかじゃないし、放っておけるわけないでしょ。私は嘘なんてつかないから。ほら」

 私は凛の手を掴むと、自分の胸に押し当てさせた。

 蒼白だった凛の顔に、さっと赤みが差す。

「私、本当にドキドキしないの。男子のことを考えても、凛のことを考えても」

 私の心臓は、何も起こっていないみたいに、いつも通りの鼓動を続けている。

「知らない……急にやめて」

 そう言いつつも、凛は私の手から抜け出そうとしない。目を伏せて、黙っている。

「私も普通じゃないでしょ」

「……だから何。何が言いたいの」

 頑固な凛に私はじれったくなって、手を放し今度は凛の顔を両手で捕まえると、強引に正面を向かせる。

「聞いて」

 凛は反抗するように目だけ下を向いている。

「だから、私には凛のこと何でも話していいんだよ。私、凛のことあんまり知らないって、気付いたの。私、凛のこと大切だと思ってるし、なんなら、親友だと思ってる」

 凛と目が合う。

「だから、凛のこともっと教えてほしい。今の凛のこと、もっと知りたい。そのためなら、付き合ってもいい。ううん、付き合いたい。凛の思う恋愛は私にはできないけど……凛と一緒にいられたら、私はそれだけで嬉しい」

 そう言ってから、自分で自分の言葉に納得する。ああ、そうか。付き合うって、恋愛の意味じゃなくてもいいんだ。

 それから私は精一杯笑いかける。凛の目が揺れている。

「だから、いいよ。付き合おう」

 凛の真っ赤な目が潤んで、雫がこぼれ落ちる。

「……いいの?」

「うん」

「私、女が好きで男が好きになれない変なやつだよ?」

「知ってる」

「ずっと小山内さんのことばっかり考えてて、小山内さんがいなかったら『なんで生きてるんだろう』『いつ死ぬのかな』『眠ったらそのまま死なないかな』ってずっと考えてる重いやつだよ?」

「どんな凛も私は好きだよ」

「……私でいいの?」

「凛でいいんじゃなくて、凛がいいの」

「……それって……ずるい……」

 それから凛は、ダムが決壊したように泣きじゃくった。私は凛の頭を撫でる。凛が私を撫でることはたまにあった。けれど、私が凛を撫でるのは、そういえば初めてだ。

 縮こまって泣き続ける凛は、小さな子どもみたいだった。私はとりあえず隣に座って、凛に身体を寄せていた。

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