第6話 千愛side
凛が泣きながら走り去っていくのを、どうして呼び止められなかったのか。そう悔やみながら、私は必死に凛の後を追った。
凛は足が速い。クラスでも五本の指に入るくらいに。凛は運動神経が抜群に良かった。対して私は下から数えたほうが早いくらいのノロマっぷり。追いつけるはずも無く、すぐに凛の姿を見失ってしまった。スマホでメッセージを送っても、既読は一向につかない。
「凛……」
黒くて厚い雲から、雨は降り続ける。
* * *
凛は私にとっての憧れだ。運動神経が良くて、勉強もできる。それに、とっても美人。高い背の丈、それに見合うスレンダーなボディライン、長くてサラサラの髪、モデルみたいに整った顔、セクシーな泣きぼくろ、あれを美人としか言えない私の語彙力が憎らしい。
そして何より凛は、冴えない私の全てを変えてくれた人だ。いつも私の世話を焼いてくれる凛は、同い年なのになんだかお姉ちゃんに思える時もあった。実の姉より、ずっと頼りになるお姉ちゃん。凛といると、とても安心できた。思えば今までの高校生活は、ずっと凛と一緒だった。凛は間違いなく私の親友だ。
みんなが凛のことをどう思っているかは知ってる。怖い、なんか不気味、愛想が悪い、生意気、浮いてる、真面目ちゃん……。鈍い私でも気付くんだから、あの凛が気付いてないわけない。でも凛は、自分を貫いていた。それもなんだか、カッコよく見えた。疎まれていても凛がいじめられないのは、凛がいつも強いからだ。弱みを見せず、付け入る隙が無いから、みんな陰口を叩くことしかできない。
私も凛みたいに強くなりたいと、いつも思っていた。
凛がいないとき、ここぞとばかりに色んな人が近寄ってくる。男子も、女子も、みんな近づいてきて、人だかりができてしまう。私は怖いんだけど、嫌なんだけど、でも笑顔をつくって、愛想よくしておく。そうすれば傷つかないと、知っている。
ふと、私はある日の休み時間を思い返した。
「小山内さん、今度の日曜ヒマ? 俺らと一緒にカラオケ行かない?」
制汗スプレーの匂いをあたりに振りまくガタイの良いクラスメイトたちは、私にそう提案する。
「えっと、ごめんね、凛と約束があって……」
「また
「え、でも……」
そこに声の大きな女子が割り込んでくる。
「ちょっと、せっかく大谷くんが誘ってくれてるのに断るなんてかわいそうじゃん」
「えっと……」
大谷くん……覚えのない名前だなあ、と思う。クラスにいたかな……? そういえば、クラスメイトの名前を、凛以外ほとんど知らない。
別の男子が話しかけてくる。
「大谷はほっといていいからさ、放課後俺と水族館でもどう? 二人でさ」
「うわ前原、下心見え見えで引くわー。小山内さん、私たちとボーリング行こうよ! 男ども抜きで!」
「え、えっと……」
みんなが一気にまくしたてるので、なんだか疲れてきた。頬の筋肉が釣りそうになってくる。
凛といるときは楽しいのに。リラックスして、自分らしくいられるのに。
私はいつもそうだ。こうやって迫られるのが気持ち悪くて、嫌で嫌で堪らないのに、面と向かっては何も言えない。きっぱり断れる強さが、勇気が、私にあれば。そう思うけど、みんなにどんな風に言われるか分かるから、怖くて……。
視界が滲んできたとき、教室の扉が勢いよく開く。
みんなが一斉に振り返ると、そこには掃除用具を持った凛が、怪訝そうな顔でこちらを見ていた(あのとき凛は委員の掃除当番だった)。
人だかりは一瞬にして解散し、みんな何事も無かったかのように休み時間を過ごし始める。
凛はてくてくと私の前まで来ると、「大丈夫?」とクールに尋ねる。私は笑顔で——本当の笑顔でそれに応える。凛の無表情な、私に関心の無いような顔が、私にはむしろ心地よかった。私に特別な感情なんて一ミリも持っていない、川出凛という存在が、私の、いわばオアシスだった。
* * *
——小山内さんが、好きなの。付き合って。
走りながら、今まで見たことの無かった凛の表情を思い返す。恥ずかしさとか、期待とか、不安とかが入り混じったような複雑な表情が、すがるように私を見つめていた。
正直言って、動揺した。何しろ、凛がストレートに感情をぶつけてきたのは、初めてのことだった。自分がどんな顔をしていたか、全く思い出せない。もしかしたら、凛を傷つけたかもしれない。ママが電話をかけてきてくれて、本当に良かった。
あのときママに、告白されたことを相談した。私の声は裏返りまくってたし、上手く説明もできなかったから、ママもただ事じゃないって気づいたんだと思う。
「相手はどんな子なの?」
「……優しくて、かっこいい子」
「千愛がそう思うなら、いい子なんだろうね」
「でも、私、返事できない」
「どうして? 両想いじゃないの?」
ママは意外そうに言う。
「わかんないよ……」
「分からないなら、急がなくていいんじゃない? お返事は待ってください、って言えば、その子も待ってくれる」
それから電話を切り、背中を押された気持ちで店内に戻った。
最初はママの言う通り、「ごめん、返事はちょっと待って!」と明るく言うつもりだった。でも、凛の顔を見ると、何も言えなくなってしまった。とても、いつもみたいに話しかけられる空気じゃなかったし、少しでも言葉を間違えたら全てが終わってしまうと、本能的に感じていた。
でも、ぐずぐずしているうちに、結局凛を無視するみたいになってしまった。
駄目だな、私。
雨はまだ止みそうにない。走ったせいで、足は既にずぶぬれ。服もところどころ濡れてしまっている。
スマホを確認しても、やっぱり既読はついていない。
凛が行くところは……きっと駅だ。というか、駅以外だったらどこに行くか見当もつかない。寄り道するのは、いつも私が行きたい場所だった。だから凛の行きたい場所も、凛の馴染みの場所も、何も知らないのだ。
そうだ、そういえば、私、凛のこと、あんまり知らない。
——私はアピールしてた。
凛の声が頭に響く。
私、凛のこと、あんまり見てなかったのかな。アピールなんて、全く気付かなかった。凛が私のことを、そんな風に思ってただなんて、本当に気付かなかった。
私は……たぶん、凛と同じ気持ちになることはできない。でもきっと、凛は気持ちを一人で抱えて、とても苦しかったんだと思う。私は大親友を、知らない間にずっと傷付けてたんだ。
私はさっき、何度もごめんね、と言った。気付いてあげられなくてごめんね、という意味を込めて。でも、今はそれがとても、空っぽな言葉な気がしている。
凛のこと、ちゃんと見ないと。
私は駅の方に駆けていく。
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