第4話 凛side
店から出ると、千愛はもう支払いを終えていた。
「もー、まだ中にいたの? 電話するとこだったよ」
はい、とさっきの本を手渡される。
「何か見つけた?」
「まあ、うん。やっぱり色々気になって」
「迷ってたの? なんだか顔色良くないけど。待ってるから買ってきなよ」
思わず自分の顔を触る。思いつめすぎて、酷い顔をしていたかもしれない。笑うことは苦手なくせに、ネガティブな表情は簡単にでてくる。
「迷ってるなら、思い切って買ったほうがいいよ。しないよりする方が、後悔しなくて済むし」
「ううん、大丈夫。行こう」
「……そう?」
とりあえずまだ外は明るかったから、すぐそばのカフェに立ち寄ることにした。入店した途端、また縮み上がるほどの冷気に迎えられる。コーヒーの香りが漂う店内は真新しい。暖色系の照明がリラックスした雰囲気を演出している。客はほとんど女性。男はたまに異性カップルがいるくらい。悪くない店だ。席に着いてメニュー表を開くと、やはり少し値が張るな、と思う。この辺りはなんでも高い。けれど、千愛といる時間に払っていると思えば、惜しくはないか。
結局私は一番安いコーヒーを、千愛は高そうなパフェを注文した。
「凛ってコーヒーはいつもブラックだよね」
千愛は木目調の机を挟んで向かい側に座っている。
「苦いほうが好きなの」
「ふーん。そういえば凛が甘いもの食べてるところ見たことない」
「好きじゃないから」
……実は甘いものも好きだ。けれど、何だか自分に似合わないような気がして、外では食べないようにしていた。
「凛ってほんと大人だね」
「茶化すのはやめて」
「茶化してないよ。凛のそういうところ、好きだな」
千愛は頬杖をついて、上目遣いに私をじっと見つめてくる。
顔が熱くなってくるのを感じる。思わず目をそらす。
「凛はいつも助けてくれるから。私がこうやって元気でいられるのも、凛のおかげだし」
「それは……もともと小山内さんが元気な性格だっただけでしょ。私が何かしたとすれば、背中を押したくらいよ」
「——嘘ばっかりだね」
ドキッとする。千愛とは思えない、低い声に聞こえた。実際は、いつも通りだったのかもしれない。分からない。
千愛はまだ私を見つめていた。その大きな瞳に吸い込まれそうになる。なんだか目眩がしてくる。
飲み物が届いて、私はすぐさまアイスコーヒーを口に含んだ。きっと赤くなっている顔を、一刻も早く冷やしたかった。
今日の千愛は、どうもおかしい。
いや、おかしいのは、私?
「さっき、後悔の話したじゃない?」
千愛はパフェからアイスをすくって、一口含む。
「あれね、凛に初めて話しかけた日を思い出しながら話してたの」
入学したての頃、声をかけたのは千愛からだった。
私は声が上擦らないよう、喋る前に軽く咳払いする。
「小山内さん、とても緊張してたね」
「そうなの! 私、なんとなく凛とは仲良くなれる気がして。でも凛はみんなと話したがらないし、怖い人なのかなとも思ってたから……ちょっと震えちゃって。正直、声を掛けるか迷ってたの」
自分が周りにどう見られているかは、分かっている。でも私が避けられているのは、単に私が拒絶したから。自分の意志で、千愛以外の人間とは話さないようにしていた。理由は、言葉にするのが難しい。私の中には、何か黒くて醜いものが、うごめいている。別に、何か辛い過去があったわけではない。ただ、私の心に溜まったほろ苦い経験、つまり、ちょっとした傷つきや、小さな痛み、後悔、罪悪感、そういったものが積み重なって、この黒い感情は、のさばっている。この黒いものと一緒にいると、みんながバカに思えてくる。自分が特別だと言いたいわけじゃない。ただ、みんな何で生きているんだろう、って不思議に思う。
「でも、私は凛に話しかけて良かったと思う。あそこで止めてたら、絶対後悔してた」
「……どうして?」
「こんなに楽しい高校生活、絶対送れてなかったもん。きっと凛と一緒じゃなかったら、どこかのグループで相づち打つマシーンになってたよ」
千愛ならあるかもしれない。好きな百合の話も言い出せずに、グループの中でただ笑っているだけの千愛。
「私も、小山内さんが話しかけてくれて……嬉しかった」
恥じらいながら言う。えへへ、と千愛は笑った。その顔がどうしようもなく愛おしい。胸がキュッと詰まる。心臓が止まってしまいそう。触れたい気持ちが最高潮に達して、「もう楽になってしまえ」と私にささやく。
私は感情をどうにか抑えながら、さりげなく話題を振ってみる。
「そういえば、ここってカップル多いと思わない?」
「そういえばそうだね。お店綺麗だし、うってつけなのかも」
「あの、小山内さんって、その、好きな人とかいる?」
ほんの一瞬、千愛の顔が曇ったように見えたが、まばたきすると千愛はいつも通りパフェをほおばっていた。
「いやいや、聞いてどうするの」
「なんとなく、気になって」
「もしかして凛、好きな人できたの……?」
千愛は意外だと言わばかりに目を見開いている。
「えっと……」
ここで告白したらどうなるだろう。引かれてしまうだろうか。マンガの幸せそうな二人がよぎる。百合の世界はフィクションで、あんなに都合よく「同じ」相手に出会えるわけがない。そうは分かっていても、もしかしたら、という希望にすがりたくなる。冷静な思考ができなくなる。
しないよりするほうがいい。
そう言ったのは千愛だからね。
「あの、小山内さん。私、実は、好きな人がいて」
「え、本当にいるの?」
困惑気味の千愛を気にする余裕は、もうなかった。汗が吹き出す。手が、震えている。
「それ、小山内さんなの」
「……え?」
「小山内さんが、好きなの。付き合ってほしい」
言ってしまった、と思った。
勢いに任せて言ってしまった。
でも、千愛なら笑顔で快諾してくれそうに思えた。
千愛の「もちろん」という言葉を想像する。
でも千愛は、一瞬固まって。それから目を泳がせた。千愛は何も言ってくれなかった。沈黙は、たぶん一秒か二秒くらいだった。でも、私には永遠に感じられた。心臓が張り裂けたような痛み。血の気が引いていく。寒い。目眩がする。世界が歪み、体が暗闇に溶け込むような錯覚に陥る。
千愛のスマホが鳴った。
「あ、ママからだ。ごめんちょっと出るね」
千愛が席を立つのを、呆然と見送る。千愛の横顔に、いつもの快活さは無かった。
千愛がいなくなると、カフェの喧騒が、急に耳に入ってきた。私は崩れ落ちるように、椅子にもたれかかった。
全身の震えは、しばらく止まりそうになかった。
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