第1話 アウトサイド ヒーロー:2

フォロウィング:ユージュアル アフェアズ オブ ア ユージュアル タウン



 月を隠した黒雲から、しとしとと雨が降り続いている。オーサカ・セントラル・サイトの周辺に点在するサテライト・コロニーの1つ、タカツキ・コロニーの街明かりは消え始め、数件の酒場の看板がライトの光を受け、夜闇の中で銀糸のような雨を浴びながら照らし出されていた。


眠らない店の1つ、路地裏に立つミュータント・バー“宿り木”。しかし今夜は客の姿はなかった。


 決して美しいとは言えない店の床を、若い女給がモップで掃除していた。鮮やかな赤いショートヘアが、薄暗い店内をちょこちょこと動き回る。隅から隅へとモップを動かしては、バケツで絞る。彼女の働きぶりがなければ、店のいかがわしさと乱雑さは一層増していただろう。


「ママ、床掃除終わりました」


 赤毛の女給がカウンターに声をかけると、大きな鰐頭を持った長い首がカウンターの下から伸びてきた。


「ありがとう、ことりちゃん。ぴかぴかになって、まるで表通りのレストランみたいじゃないの」


 ママが深い河のようなアルトで言うと、ことりは「やだもう」とさえずるような声で返しながら、モップを片付けた。


「後はカウンターの下でお掃除おしまいだから、もうあがっていいわよ」


「いいんですか、まだラストオーダーまで時間ありますよね?」


 ママは再び頭をカウンターの下に潜らせた。


「いいのよ、昨日の今日でこんな遅くに、お客なんか来やしないんだから!」


 ことりはカウンター席に腰掛けた。


「そんなに酷かったんですか、昨日の保安官という人?」


 ママは起き上がると、「しょうがない子ね」と言いながら巨体にそぐわぬ身のこなしでノンアルコール・カクテルを作り、ことりの前に置いた。「夜の部にデビューした雛鳥ちゃんへのご褒美よ」


「ママ、大好き!」


「調子いいんだから……でも、そうね、あなたずっと昼だけだったから、あの腐れデッカーのことは知らないわよね」


 そうことりに言った後、「知らなくていいんだけど」とママはひとりごちた。


「お店の中で暴れたんでしょう。それでも、ママがそんなにお客さんのことを悪く言うなんて、珍しいですね」


 ママはボトルから澄んだ海老茶色の液体をグラスに注ぎ、氷を放り入れてぐいと呑んだ。


「あんなの、お客さんじゃないわよ。偉そうで柄も悪いし、飲むもの食べるもの文句タラタラな上に支払いも渋るんだから、これまで何度追い出そうと思ったことか! ケガした子には悪いけど、通報しておおっぴらに出禁にできて、清々するわ」


「ケガしたのってチドリさんですよね、町を離れるって本当ですか?」


 ママの目付きがふいに鋭くなる。


「あなた、チドリちゃんと仲良かったかしら?」


 ことりは気後れしそうになったが、胸を張って答えた。


「ずっとお世話になってました。昼の部が終わった後すぐに店に来て、バックヤードで私に歌を教えてくれたんです」


 カラン、とママが持つグラスの中で氷が音を立てる。


「そうだったの、いい後輩を育ててくれたお礼に、退職金はしっかり出さなきゃね。……町を離れるのは本当よ。ケガは大したことないの、でも」


 ママは言葉を切ってグラスを置いた。


「でも?」


「ことりちゃん、チドリちゃんの為にも、この話は人に言ってはダメよ。今から言う話は、優しい先輩からの最後のアドバイスを、遣り手ばばあが代わりに言っているんだと思いなさいね」


 ことりは頷いてカクテルグラスを置いた。


「あの外道、チドリちゃんの常連だったのよ。後から聞いた話なんだけど、チドリちゃんは脅されたり殴られたり、酷いことをたくさんされてきたんだって。相手が保安官だからって言い出せずにいたの。あいつ、女の子には金払いがいいから、それも泣き寝入りしてた理由でしょうね。でも一週間前、あのデッカーは帰り際に言ったのよ。『次はニルヴァーナを試す』って」


 ニルヴァーナ。その悪名は夜の世界には疎いことりの耳にも伝わっていた。強い依存性を持ち、不用意な使用から中毒に陥ると抜け出せなくなると警鐘を鳴らされているにも関わらず、服用するとたちまち、天にも昇るような高揚感、目覚ましい有能感と集中力の発露、感涙にむせるほどの全能感を一度に味わうことができる……など、惹句は枚挙に暇がなく、オーサカ・セントラル・サイトとそのサテライトの闇の中に広まり続けていた。


「ニルヴァーナって、あの何とかいう麻薬?」


「そう、LDMAね。それで奴が次に来たのが、丁度昨日だったってわけ。チドリちゃんは耐えられなくて断ったの。そうしたらあいつ、逆上してチドリちゃんに襲いかかったのよ。店にいた他の女の子たちや他のお客さんのことも、デッカーの権威を笠に着て散々に罵ってね。でもお客さんたちが奴を取り押さえてくれて、その間に私が通報したというわけ」


 ことりは静かに聞いていた。


「チドリさんは、どうなるんですか?」


 ママは自分とことりのグラスを、カウンターの向こうに引っ込めた。


「チドリちゃん本人はしっかりしてるわ。もっと早く言い出せればよかった、って言ってたけど。これを機会に、あこがれの町でやり直すって」


「あこがれの町、ですか」


 ことりは、タカツキ・コロニーの外をほとんど知らない。地域の中枢であるオーサカ・セントラル・サイトの市街地も、店の先輩たちや羽振りのいい客からの伝聞だけでしか知らなかった。


「いくつも山を越えて、ビワ・グレート・ベイの向こう、ナゴヤ・セントラル・サイトの奥に、ミュータントだけの町があるんですって。どんなミュータントも受け入れる町、そこでお店を持つんだってあの子言ってたわ」


 ミュータントだけの町! ことりは様々なミュータントが大通りを練り歩く様を想像した。明るく、堂々とした人々はおしゃべりを楽しみながらミュータントの店で買い物して、日が沈みかける頃にはチドリの酒場に集まるのだ。酒を酌み交わし、チドリの歌に聴き惚れる。客たちの喝采まで聞こえてくるようだった。


「すごい……!」


「ね。あの子も随分苦労したし、夢を追いかけるのを、応援してあげなくちゃね」


 ママはことりに背を向けて、二人分のグラスを洗い始めた。


「そろそろ、あがってもいいのよ」


「ママのお仕事終わるまで待ってます」


 ママは嬉しそうに「もう、この子は」と言いながらグラスを拭き、棚に片付けた。そして振り返って、カウンターに頬杖をつく少女に向き直った。


「ね、ことりちゃん、あなたはこれからどうしたいの?」


「どう、って?」


「今日は女の子が足りなかったし、夜の部に入ってもらえて助かったわ。でも、これからも夜の部に出続ける必要はないの。お客を取る必要もね」


「私は……」


 ことりが両手首の羽根をもぞもぞと触りながらそう言いかけた時、ドアが開いた。ベルが乾いた音を立てる。


「いらっしゃい」


 ことりがぱたぱたと入り口に駆け寄った。


「席にご案内します」


 店に入って来たのは、ずぶ濡れの男だった。"真人間"で、年の頃は二十代半ばほどだろうか。かすれた細い声で「ありがとうございます」と言い、案内に従ってカウンター近くのテーブル席についた。ことりからタオルを受け取り、ごしごしと頭を拭く。


「ご注文はお決まりですか?」


「何か、食べる物はありませんか」


 男はうつむいたまま尋ねた。


「ごめんなさいね、今日はもうミールジェネレーターを使える子が帰っちゃったのよ。パックのレーションを温めるくらいしかできないけど、いいかしら?」


 ママがカウンターから声をかけると、男は姿勢を変えずに「それで、お願いします」と答えた。


 色の薄いカレーライスと人造米、真っ赤な漬物がレトルトパックから皿に盛り付けられて運ばれてきた。ことりが皿とスプーンを置くと、男は「ありがとう」と言うや、すぐにスプーンを取ってカレーライスをかきこみ始めた。無心で貪り、あっという間に食べ終えると、コーヒーを注文した。


 食器を片付けたことりが、すぐにコーヒーカップを運んできた。男はカップに口を付け、すするように少し飲むとカップを皿に戻し、むっつりと黙って真っ黒なコーヒーを見ていた。しばらくするとまた一口すすり、コーヒーを睨む。同じ動きを一時間ほど繰り返していた。


 コーヒーカップが空になるのを見計らって、ママが声をかけた。


「ごめんなさい、そろそろ閉店なのよ。お勘定お願いできるかしら」


 男はとびあがるように席を立ち、深く頭を下げた。ことりは無銭飲食かと思ったが、違った。


「お願いします、ここに泊めてください」


「そう言われてもねぇ。今日はこの子1人だし……」


 ママがことりを見る。今夜はもう店じまいするつもりだったし、まだことりには早いとも思っていた。今日だって、もし客がことりに目を付けたら、助け船を出すつもりだったのだ。


 男が顔を上げる。疲れきって、助けを求めるような顔。ことりは夜の店に顔を出すことは数えるほどしかなかったが、こんなに困った顔をしながら「店に“泊まり”たい」という男の人を見たのは初めてだった。


「ママ、いいですよ、私」


「ことりちゃん」


 ママは言いかけた言葉を引っ込めた。


「わかったわ。何かあったら、すぐに呼んでちょうだい」




 ことりは店の2階、廊下の突き当たりにある二〇一号室の鍵を受け取った。「足下に気をつけてくださいね」と声をかけて男の前を歩き、店の奥の薄暗い階段を上がる。


「わたし、ことりって言います。お兄さんのお名前は?」


「レンジです」


「そんなに固くならなくていいよ、お兄さんの方が年上みたいだし。こんなお店に来るのは初めて?」


「うん」


 男の声から、少し緊張の色が抜けたようだった。2階に出て、オレンジ色の灯りに照らされた細い廊下を歩く。


「そっか。私もお客さんを取るのは初めてなんだ……着いた。この部屋」


 扉に付けられた金属板に、“二〇一”と数字が彫りこまれている。ことりが鍵を差し込んで回すと、カチャリとやけに耳に残る乾いた音が廊下に響いた。


「どうぞ。靴は入り口で脱いでね」


 扉を開けたことりに促され、中に入る。入り口のそばにはシャワールームがあり、奥の狭い部屋に大きなベッドが横たわる。小さなチェストや鏡台、文机が申し訳程度に並べられていた。そして壁には、閉め切られた小さな窓が一つ。


「狭い部屋だよねぇ」


 ことりはそう言いながらチェストからバスローブを取り出した。


「着替え、どうぞ」


「ありがとう」


 レンジが着替えを手に突っ立って、女の子が部屋を出るのを待っていると、「準備するから、先にシャワー浴びてほしいんですけど」と頬をうっすらと染めたことりに言われ、シャワールームに押し込められたのだった。


 数日ぶりに温かいシャワーを浴びると、肌が少しひりついた。肌に深く食い込んでいた汚れを、ちからをこめてこそげ落とす。備え付けられていた剃刀で髭を落とし、顔を洗って鏡を見た。ようやく“見られる”顔になったと思う。疲れの色は見てとれるが、それはセントラルにいた頃も同じだったので気にならなかった。


 バスローブを着てシャワールームから出ると、バスローブ姿の赤毛の少女がベッドを整えていた。給侍服は壁際のワードローブに掛けられている。


「えーと……」


 なぜ彼女がまだいるのか、なぜバスローブに着替えているのか、尋ねようと思ったが、うまく言葉が出なかった。声を聞いたことりが振り返る。


 シャワーを浴び、身綺麗になると随分印象が変わる。優しそうな人でよかった、とことりは思った。深く息を吸い、ぽかんとしている男に微笑みかけてから深く頭を下げる。


「今夜はよろしくお願いいたします。不慣れなことも多く、不手際もあるかと思いますが、精一杯御奉仕いたします」


 顔を上げ、バスローブを脱ぎ捨てると、幼さの残る、瑞々しい肢体がさらけ出される。白い肌は薄明かりの中で艶やかな光を放つようだった。


「ちょっと、ちょっと待って、だめだって!」


 レンジは慌てて床に落ちたローブを拾い上げ、ことりに被せた。ことりは不満げに口を尖らせる。


「ちょっとお兄さん、私初めてだけど覚悟してきたのに、ひどいじゃないですか」


「そういうのはいいんだよ」


 レンジが顔を背けると、ことりは素早く回り込んで顔を見上げた。


「ここは“そういう”お店なんです!」


「でも、俺は泊まりたいって言っただけで……」


 ことりは呆れたようにため息をついた。


「ミュータント・バーですよ、ここ。“泊まる”ってそういうことなんだけど、知らなかったんですか?」


 ことりの両手首と首は、朱鷺色の羽根に包まれていた。


「ごめん、知らなくて、俺……」


 ことりは店に入ってきた時のようにしょんぼりしている青年に、ベッドに腰かけるように促した。素直に従ったレンジの横に、ことりも腰かける。


「レンジさんは、どこから来たんですか?」


「セントラルの、オールド・キャッスルの近く」


「随分遠くから来たんですねぇ。もしかして、ずっと歩いてきたの?」


「うん」


 ぼそぼそとレンジが答える。ことりは迷子の面倒を見るような気持ちになっていた。


 ことりが体をもたれかけると、レンジは拒まなかった。


「お疲れ様です」


「うん、ありがとう」


「何かしても、しなくてもお代は変わらないんだけど、しなくてもいいんですか?」


「いえ、いえ、いいです、大丈夫です、お金は払います」


 じっと目を合わせながら顔を近づけてきたことりから逃れて、レンジはベッドに突っ伏した。


「そこまで言われると、プライド傷つくんですけど」


 うつ伏せになったレンジの頭を突っつきながら言うことりに、レンジは耳を赤くしながら言い返した。


「初めてなんでしょう、もっと自分を大切にしなさい!」


 ことりは思わず吹き出して、レンジの頭を撫で回し、髪をぐしゃぐしゃにした。


「変なひと」


 レンジは黙って動かない。ことりは優しく撫でて髪を整え直し、レンジの頭に手を置いて子守唄を歌い始めた。


 柔らかい声で紡がれるスローテンポのメロディに抱きしめられ、レンジは深い眠りに落ちていった。




 鳥のつがいがさえずり合う声を聞きながら、レンジはふかふかの布団の中で目を覚ました。


 質素な木製の家具が並ぶ室内には、大きな窓から陽が射し込んでいる。壁には木の板が打ち付けられ、そこから突き出したフックにライダースーツの上半身部分が掛けられていた。


 体を起こすと全身に重だるさを感じる。布団を剥がして立ち上がり、よたつきながら上着に近づいた。内ポケットの中にあるジッパーを下ろして指を突っ込むと、金属質の手触りを確かめた。


 取り出したのは、紐で結んだ銀色のペアリング。くすんだ小さな指輪と、未だ艶の残る大きな指輪。レンジは掌の上に置いてしばらく指輪を見た後、握りしめるようにしながら内ポケットに戻した。


 懐かしい夢だった。知らないはずの景色までありありと思い浮かべられるのは、少女がその夜の出来事をあまりにいきいきと話していたからだろうか。レンジは少しの間目を閉じてから、ジャケットを取って袖を通した。


 ノックの音が響く。


「はい、どうぞ」


 窓の反対側にあった扉が開き、橙色の斑模様が入った青肌の少女が顔を出した。背丈はレンジと同じくらいだが、童顔のためか身長ほどの圧迫感はない。他の部位よりも倍近く大きい両手に、掃除機やら雑巾の入ったバケツやらを持っていた。彼女は昨夜、酒場で働いていた女性店員だった。


「アオさん、でしたっけ? おはようございます」


「はい、おはようございますレンジさん。昨日はお疲れ様でした」


 長い髪の間から笑顔がこぼれる。


「ありがとう」


「お礼を言うのは、私たちの方です。あんなに大きなオニクマを退治してもらって……雷電がいなかったら、町がどうなっていたかわかりません」


 真っ直ぐに感謝の心を伝えられて、レンジは答えに困った。雷電に変身していたら、気の利いた台詞の一つでも言わせてくれたのかもしれないと思ったが、それはそれで恥ずかしいことになりそうだ。


「食事の用意ができているので、下に降りて食べに来てくださいね」


 アオがそう言って扉の向こうに引っ込むと、レンジも両肩と首をぐるりと回してから部屋を出た。


 階段を降りると、一階は酒場“白峰酒造”のバックヤードに繋がっていた。大きな扉を開けると、酒場のホールに出る。客の姿はなく、タチバナが一人、テーブル席に腰かけてコーヒー片手に“カガミハラ・ウィークリー”という名前の新聞に目を通していた。


「おはようございます」


 レンジが声をかけるとタチバナも顔を上げる。


「おはよう。昨日はお疲れさん。よく寝てたが、体調はどうだ」


「身体中が重くて、しんどいですね」


「あれだけ動き回ったんだからな、筋肉痛だろう。まあ、じきに治るさ。厨房に行ってメシをもらってきたらどうだ?」


 レンジとタチバナが話していると、アオがいそいそとお膳を手にやって来た。


「レンジさん、準備できてますよ。さあどうぞ」


 料理をタチバナの向かいの席に並べて、にこにこしている。


 レンジは長身の少女に見守られながら腰かけた。大小の椀が蓋を被って盆の上に並んでいる。隣には緑茶と、青い瓜の漬物が添えられていた。


「いただきます」


 蓋を取ると、味噌汁と白飯が湯気をあげた。濃い色の味噌汁には根菜や茸、そして大量の肉が、一口大と言うには大ぶりに切り分けられて詰め込まれていた。見た目は味噌煮に近い。山菜か野草で獣肉の臭い消しをしているのだろう、青い薫りが、素朴な豆味噌の香りと混ざりあって広がった。


「アオの手料理だぞ」


 タチバナがニヤニヤしながら言うと、アオは恥ずかしそうに頬を染めた。


「せっかくの素材を、ジェネレータに入れるのがもったいなくて」


「わあ」


 レンジは恐る恐る、箸で肉塊を引き上げる。


「この肉は何ですか?」


「レンジさんが昨夜退治したオニクマです」


 同じ材料でもミールジェネレータに放り込まれて謎肉や卵らしきものに加工され、ベーコンエッグ擬きになって出されるのと、どちらがマシだろうか。


「せっかくの初手柄なので、レンジさんには一番美味しい、右掌を取り分けて用意していたんです」


 アオが胸を張る。


「わあ……」


 ままよ、とばかり口に入れると、野趣のある香りを鼻の奥で感じた。しかしそれも一瞬で、すぐにきりりとした苦味が舌に抜け、爽やかな野草の薫りが広がった。脂身と茸の旨味、根菜の甘味が溶け出した汁が染みたオニクマの肉は蕩けるように柔らかく、滋味深かった。


 なにも言わずむさぼり食べるレンジを見て、アオは満足そうに微笑んだ。




「ご馳走様でした」


 料理を完食し、湯飲みも空にしてレンジは手を合わせた。タチバナも新聞を置く。


「さてレンジ、お前さんには今日からうちで働いてもらいたいんだが」


「えっ、そうなんですか」


 何の伝手もなく流れ着いた身としては願ってもない話だ。よっぽどの事がなければ。


「勤務内容を、教えてもらえますか」


 アオが盆を取り上げ、タチバナのコーヒーカップも一緒に載せて片付けていく。タチバナはアオに「すまんな」と言って軽く手をあげてから、警戒するレンジに答えた。


「そうさな、うちは酒場をしながら、町のまとめ役みたいなことをしてるから、まず酒場の仕事がある。接客はしなくていいんだが、こまごまと仕事があってな。片付けとか山に食材やらを採りにいったりとか、まあ言わば雑用だな」


「なるほど」


 まとめ役、というのは事実だろうと、昨夜の店内を思いだしながらレンジは考えた。


「それと、ヒーロー活動だな」


「ヒーロー」


 二つ返事で引き受けようとしたレンジが固まる。


「地域の子どもたちに雷電のヒーローショーを見せるんだ。この前みたいにモンスターが出たら、雷電として闘ってもらう」


「それも撮るんですよね?」


「もちろん、ドローンでばっちり撮る。リアルな闘いは、迫力があるな。昨日のを編集してみたが、これはいい。カガミハラに持っていっても受けるんじゃないか」


「ありがたいお話ですが、お断りさせていただきます」


 レンジが立ち上がりかけると、タチバナは細長い紙切れをテーブルに置いた。


「何です、請求書?」


 手に取って見ると目玉が飛び出るほどの金額が書き込まれている。桁を3つほど間違えたのではないか、と思うほどだ。


「お前さんに貸した雷電の変身ベルト、“ライトニングドライバー”っていうんだがな、ほぼ無傷で発掘された旧文明最終期の遺物なんだが」


 非常に貴重なものだということは、嫌というほどわかる。タチバナは勿体ぶった調子で続けた。


「使ったやつを登録して、他の人間には使えないようにしちまうんだと。だから、買い取ってもらうことになるんだが、どうしてもこれだけかかっちゃうんだよなあ……このままヒーローを続けてくれりゃあなあ、ベルトを貸すだけで済むんだけどなあ」


「慎んでお受けいたします」


 レンジが降参して頭を下げると、タチバナはニッタリと笑って、ライトニングドライバーをレンジの前に置いた。


「契約成立だな、これからよろしく頼むぞヒーロー」


 レンジが渋い顔でドライバーを受けとると、飲み物を手にしたアオが嬉しそうにテーブルに近づいてきた。


「レンジさん、これからよろしくお願いします。雷電と一緒に働けるなんて、夢みたい!」


 そう言って山葡萄のジュースを差し出す。レンジは「ありがとう」と言って受け取った。心地よい酸味が口の中に広がる。


「マスターには、これを」


「おう」


 タチバナは受け取ったカップを傾け、中身をぐびりと飲むと目を白黒させた。


「これは何だ」


「マスターにも、オニクマの一番いいところを取っておきました。熊の胆ドリンクです。残さず召し上がれ」


「残さずったって、お前さんこれは」


 アオは笑顔を崩さず、微動だにせずタチバナを見下ろしている。


「慎んでいただきます」


 先程のレンジと同じ位に渋い顔で、タチバナはコップの中の液体を飲み干した。




「今日の仕事って、どんなことをやるんですか?」


 レンジは口直しとばかりに水をがぶ飲みしているタチバナに尋ねた。


「ウチのについて行って、顔見せがてら近くの温室で野菜を仕入れたり、山で茸を採ったり、だな」


 タチバナはそう言うと、店内を見回した。


「そういえば、マダラはどうしたんだ?」


 コップを片付けに来たアオに尋ねる。


「朝ごはんを食べてから、バイクを診る、って言って外に出たきりですね」


 店の外で子どもが「わーっ!」と元気な声をあげているのが聞こえる。レンジは外に飛び出した。


 店の前にレンジ愛用のバイクが置かれ、ところどころの部品が取り外されて地面に並んでいた。青い斑模様がついたオレンジ色の肌の青年が、部品を調べては拭いたり、油をさしたりネジを留め直したりと、せわしなく手を動かしている。近くに子どもが二人並んで、バイクをいじる青年を見ていた。


「おい、何を勝手にやってるんだ」


 レンジが戸を開けるなり、バラバラになったバイクを見て怒鳴ると、部品を持っていたカエル顔の男が顔を上げた。


「あんた、ちゃんとメンテナンスしてないだろ。セッティングが滅茶苦茶でひどいじゃじゃ馬だ。昨日の夜、ここまで運ぶのに苦労したんだぜ」


「だからってお前……」


 腹をたてるレンジの前に、アオが割って入った。


「レンジさん、兄が勝手をしてごめんなさい。けど、兄は機械いじりの腕だけはいいんです。任せてみてもらえませんか」


「俺、ひどいこと言われてないか」


 不満げなアオの兄をタチバナが肘でつついて黙らせる。


「わかりました。アオさんが言うなら、お任せします」


 カエル頭の男はバイクの部品を置いて頭を掻いた。


「まあ、声をかけずに始めちゃったのは悪かった。俺はマダラ。よろしくな」


「俺はレンジだ。今日からこの店で働かせてもらうことになった。よろしく頼む」


「つまり、“ストライカー雷電”を続けてくれるってことだな。そいつは何よりだ」


 マダラが右手を差し出す。レンジは雷電には気乗りしなかったが、こたえて握手を交わした。それまで警戒していた子どもたちも、レンジの近くに寄ってくる。


「ねぇ、お兄ちゃんって"ストライカー雷電"なんだね!」


 目を輝かせて犬耳の少年が話しかけてくる。


「昨日はありがとう!」


 腕や頬に鱗が生えている少女も、顔を赤くしながら言う。


「すっごくかっこよかった!」


 二人が声を合わせて言うと、レンジは恥ずかしそうに頬を掻いた。


「ありがとう……タチバナさん、あれをこの子たちに見せちゃったんですか?」


「おう、子どもらの反応が見たくてな」


 子どもたちは、嬉々としてヒーローごっこを始めた。


「いくぞ、“でんこうせっかで、かたをつけるぜ”!」


「“サンダーストライク”!」


「ちょっとリンちゃん、雷電が二人もいたら、ヒーローごっこにならないじゃないか」


「何よ、アキちゃんが勝手に始めたんじゃない。あたしだって雷電やりたい!」


 言い争い始めたアキとリンの前に、両手をワシワシと動かしながらアオが立ちはだかった。


「はっはっは! ヒーローが二人になったところで、このディーゼル皇帝に勝てるかな?」


 アオに相手をしてもらった二人が夢中になってヒーローを演じているのを、タチバナは目を細めて見ている。


「この調子なら、他の子どもたちにも受けるだろうよ」


「おやっさんもアオもひどいよ、俺がみんなの避難誘導してる間に、雷電のリアルバトルをじっくり見てたんだろう」


 バイクの部品を組み付けながら、マダラがぶつぶつと文句を言う。


「あの時にはお前さんが当番だったから仕方ないだろう」


「そうは言うけどさ、俺の調整がうまく行ったか、気になるじゃないか。パワーアシストのリミッターを外すとかさ、デリケートな部分もあったんだから。サポートなしでぶっつけ本番なんて危ないに決まってるだろ」


 マダラは手が動くほどに口も回るたちのようだった。


「タチバナさん、俺そんなに危ない状況で戦ってたんですか」


「マニュアルがあったし、サポートはできた」


 タチバナがむすっとして言うと、作業を終えたマダラが顔を上げた。


「無事にライトニングドライバーの初運転ができたことは認めるさ。でも、次からは俺もサポートに入るよ」


「おう」


 二人の話が終わると「『午前9時をお知らせします……』」と町内放送の時報が流れた。


「もうそんな時間か。マダラ、レンジ、早速出発してくれ」


「はいよ。レンジ、バイクはとりあえず部品を戻して動かせるけど、調整が終わるまでもう少しかかるんだ。これからもちょくちょくいじらせてもらうぜ」


「了解。よろしく頼むよ」


「よしレンジ、まずは変身だ」


 タチバナが大きな背負子を持って言う。


「ここでですか?」


「仕方ないよ、変身したら身に付けてるものは皆、スーツの一部になっちゃうんだから。これはすごいんだぞ、分子再構成システムっていう、ミールジェネレータにも使われてる旧文明の技術で……」


 語り始めたマダラに付き合うのが面倒臭くなって、レンジはライトニングドライバーを腰に巻き付けた。


「“変身”」


 突っ立ったままレバーを引き下げると、力強い音楽が流れ始めた。


「『OK, let's get charging!』」


 子どもたちとアオが雷電ごっこをやめて、「変身してる!」と言いながらやってきた。


「『ONE!』」


 テンションの高い声がカウントを始める。


「変身する時に棒立ちってのはどうなんだ?」


「テレビ放送してた“ストライカー雷電”のデータがうちにあるんで、後でレンジに見せて、変身ポーズを練習してもらいますよ」


 タチバナとマダラがぼそぼそと話し合っている。


「『THREE!』」


 アオはわくわくしながら見ているが、子どもたちは冷静になっていた。


「何だか地味だね」


「うん、変身はかっこよくない……」


「『Maximum!』」


「二人とも、始まるよ!」


 ボディスーツと装甲がレンジの体を被い、全身に雷光を思わせるラインが走った。


「『"STRIKER RaiーDen", charged up!』」


「やった!」


「やっぱり、かっこいい……!」


 変身の終わった雷電は、背負子を受け取った。


「農家のみなさんによろしく頼むぞ」


「承知しました。じゃあ、行ってきます」


 銀色に輝くヒーローは黒く磨きあげられた木の枠を背負い、カエル男の案内で山に向かう道を歩いていく。


「なんか、あまりかっこよくない……」


 ぼそっと言ったリンの頭が、アオの大きな手に包まれた。


「働くってかっこよくないことばっかりだよ、リン」


「ふぅん」


 リンは口を尖らせる。タチバナがポンポンと手を叩いた。


「さぁ、俺たちも店を開ける準備をしよう。手伝ってくれたチビには、アオのおやつが出るぞ」


「今日はプリンもどきに桑の実シロップをかけちゃうよ」


 子どもたちは「わあー」と歓声をあげ、先を争って店の中に入っていった。アオとタチバナも微笑みながら店に戻った。




「俺はひ弱なんだからな、力仕事は期待するなよ」


 山道をひょいひょいと歩くマダラが、振り返って雷電に声をかけた。


「どこがひ弱だよ、スーツ着てても追い付けないんだけど」


「そりゃパワーアシストとは関係ない。慣れの問題だよ。……着いたぞ」


 山道の途中に、ふいに開けた空間が広がった。ここはナカツガワ・コロニー周辺に点在する農業プラントの一つ。中央には壁に覆われた巨大な温室が建ち、その周りに物置小屋や休憩所やらが並んでいる。


 マダラは温室の入口にあるインターホンを鳴らした。


「『はいはい、どちら様?』」


 スピーカー越しに年配の女性が尋ねてくる。


「白峰酒造の者です。水曜日までの分の野菜を頂きに参りました」


 マダラが社員証を見せながら言う。


「『あらまあマダラちゃんじゃないの。今日はアオちゃんはいないんだねぇ。野菜持って帰れそうかしら?』」


「今日は新人を連れてきたので、大丈夫ですよ」


「『あら、そうなの! それじゃあ、入口を開けるわね』」


 大きなシャッターがきしむ音をたてながらゆっくり開くと、中は民家風の土間になっていた。野菜が積まれたリヤカーが置かれ、無数の赤い角を生やした緑色の肌のお婆さんが立っていた。


「お疲れ様。お茶くらいしか出せないけど」


「いや、ありがたいです。いただきます」


 女性が魔法瓶から湯呑みに模造麦茶を注ぎ、マダラに手渡した。


「あっ、これって俺、飲めないんじゃない?」


「右耳の辺りをなぞるように、ぐるっと指を回してみな」


 マダラが言った通りに雷電がヘルメットの上をなぞると、顔の周りの装甲がぱかりと開いた。レンジは「おお、開いた!」と嬉しそうに声をあげて、マダラから渡された湯呑みを受け取った。


「おかみさん、紹介します。今日からうちで働くことになったレンジです」


「よろしくお願いします」


 マダラに紹介してもらい、レンジもあわてて頭を下げる。


「まあまあ、タチバナさんから聞きましたよ、片眼の暴れオニクマを退治してくださったんですって! ありがとうございます。それにしても、面白い格好をした方なのねぇ」


「実はですね、このたび、うちの保安官事務所でヒーロー事業を立ち上げることになりまして……」


 マダラは二杯目の茶を受け取って説明を始める。プラントの女性が「あらあら」と言いながら話を聞いているのを、レンジはよく冷えた麦茶を飲みながら見ていた。


「ヒーローショーというのはよくわからないのだけど、孫が喜びそうだねぇ。タチバナさんのとこの若い人が町を守ってくれるのも心強いし、さすが、面白いことを考えなさるねぇ」


「ありがとうございます」


 マダラが頭を下げると、レンジも一緒に頭を下げた。


「頭を上げてくださいな。いつもお世話になってるのは私たちですよ。今日の分のお野菜も、持っていってください」


 そう言ってリヤカーの上の野菜の山を手でさした。


「でも、これだけの量のお野菜、アオちゃんもいないけど運べるかしら? 他のプラントにも行くんでしょう?」


 マダラが雷電の背中に、袋詰めになった野菜を積み上げていく。


「雷電のスーツがあれば大丈夫ですよ……ほら!」


「まあまあ、すごい力持ちなのねぇ。それじゃあ、タチバナさんとアオちゃんにもよろしく言っておいてちょうだいね」


 雷電はマダラと一緒に麦茶のお礼を言うと、背負子に野菜袋を積み上げて温室を出た。


「これは雷電のスーツがないと運べないな」


 山道を歩きながら荷物の重さを感じないことに、レンジは驚いていた。マダラは得意気に「ふふん」と鼻をならす。


「このまま、あと三ヶ所プラントを回るぞ。場所も覚えてもらうから、しっかりついてこいよ」




 二人は十数分、時に数十分山道を歩いてプラントをはしごした。どのプラントもマダラと雷電を丁重に出迎え、大量の農作物を持たせてくれた。


 四つ目のプラントを出る時には、雷電の背中には軽トラック一杯分かと思われるほどの荷物が積まれ、マダラもキャベツではち切れそうになった袋を背中に担いでいた。


「あとは、この道を下れば、行きの登山口と反対側の登山口に、出るから……」


 マダラは拾った枝を杖にして呼吸を乱し、体をひきずるように歩いている。


「本当にひ弱なんだなあ」


「お前、スーツを脱いで、言ってみろよぉ」


「スーツがなかったら、こんな荷物運べないんだが」


「そりゃ、そうだ。畜生、なんか悔しいな」


 マダラが両手で杖をついて深く息をついた。レンジも立ち止まる。


「こんなに野菜を仕入れるんだな」


「当たり前だろ、酒場なんだから」


 息を調えながらマダラが答える。


「酒場ではジェネレータ使うんだよな?」


「じゃあ、食うものの材料に食えないものをぶちこむの?」


 尋ね返されて、レンジは言葉に詰まった。


 ミールジェネレータに木の枝を放り込めば野菜炒めもどきができるし、ネズミの死骸を入れたならステーキも出汁巻き卵も、魚の刺身だって作ることができる。材料が腐っていようが重金属や放射性物質で汚染されていようが、安全な食品に加工できる。


 だからこそ、ジェネレータで作られた食べ物は安価で手に入るし、何を原料にしているか分かったものではないのだ。それはオーサカ・セントラルの目抜通りだろうが、タカツキ・サテライトの裏通りだろうが変わらなかった。


「やな言い方して悪かったな、レンジの言うことはわかるさ。俺も違う町でジェネレータ使ってるのを見たことがあるし」


 そう言いながら、マダラはふたたび坂道を下り始めた。レンジも続いて歩く。


「でも、それは『ジェネレータの本来の使い方じゃない』って俺にメカニックを教えてくれたじいちゃんが言っててな。この町じゃ、野菜は充分手に入るんだし、わざわざ変なものを入れることはないさ」


「なるほど、そりゃそうだ」


山道を下った先に、緑のトンネルの出口が見える。


「もうすぐ町に着くぞ」


「荷物が多すぎて茸採りまで手が回らなかったけどな」


「明日に回すさ。それよりも、戻ったら次の仕事が待ってる。俺はちょっと休むけど」


「あっ、ズルいぞ」


「俺はひ弱だって言ってんだろ! お前だって、雷電のスーツを脱いでそれをやってみろよ」


 二人は言い合いながらトンネルを抜け、まぶしい昼下がりの陽射しの中に出ていった。ナカツガワ・コロニーの登山口ゲートがすぐ目の前に建っていた。




 レンジとマダラが白峰酒造に戻ってくると、酒場と厨房の掃除を終えたアオと子どもたちが、行儀よくテーブル席についてプリンを食べていた。タチバナはカウンターの向こうでタブレット端末と格闘している。


「ただいま戻りました」


「レンジさん、兄さんお帰りなさい」


 アオが返すと、子どもたちも口々に「お帰りー」と返した。一仕事終えた満足感からか、二人とも輝くような笑顔を浮かべている。タチバナが作業を終えて顔を上げた。


「お疲れさん。どうだった?」


「どのプラントもいい感じの反応ですね。野菜もいつもより多目に持たせてくれてます。すごい量なんで、とりあえず入口に置いてますよ」


 マダラがカウンターの前まで行って報告する。


「野菜はこのまま、俺が運びます。どこに持って行ったらいいですか?」


「冷蔵庫の場所を教えるよ。ついてきてくれ」


 タチバナがカウンターから出て、雷電スーツ姿のレンジを厨房に連れていく。マダラは二人に声をかけた。


「俺はちょっと休ませてもらいますね」


「はいよ。体力つけろよ」


「兄さん、プリンはどうする?」


「残しといてくれ。次の仕事前に食べるよ」


 アオに言い残し、マダラは店のバックヤードに向かって歩いていった。




 レンジは野菜の山を厨房に運びこみ、タチバナから指示される通りに押し入れのような冷蔵庫に並べて入れた。一仕事終えると、アオがガラスの鉢に入ったプリンを出してくれた。


「兄さんがジェネレータで作った“プリンもどき”なんですけど」


 そう言いながらアオは笑うが、濃厚な甘味を持つピンクがかった黒いソースが絡んだプリンは舌触りもよく、疲労感を忘れさせるような味わいだった。


「いや、うまいよ。ありがとう」


 ぺろりと平らげたレンジを見て、嬉しそうにアオが笑う。


「お粗末様でした」


 時計を見ていたタチバナが「皆、集合してくれ」と声をあげた。


「これから店を開けるんだが、レンジはバックヤードに回ってほしい。使い終わった食器を洗って乾かして、また厨房に戻すのが主な仕事だが、必要があればゴミ出しとか、他の雑用もやってもらう」


「わかりました」


「アオはいつも通りホールだ。時々厨房で“日替わりメニュー”の様子も見てくれよ」


「はい」


「マダラはどうした?」


 “STAFF ONLY”と書かれたドアが開いて、マダラのカエル顔が飛び出した。


「すいません遅れました! このまま厨房に入ります」


 言うなり首が引っ込み、ドアがバタリと閉まった。


「よし、いつも通りだな。じゃあ開店だ。暖簾を出してくれ」




 店が開いてしばらくすると、レンジは食器の返却口と洗い場、厨房をひっきりなしに行き来していた。食器を受け取って洗い場の食洗機にかけ、乾燥が済んだ皿や碗を厨房に運ぶ。ミールジェネレータの前にいるマダラに渡すと、すぐに新しい料理が機械から滑り落ち、食器に受けとめられたかと思うと整った見た目で盛りつけられていた。それをアオが取って、ホールに運んでいく。代わりに置いていったメモを見て、マダラが次の注目に応えるためにジェネレータを操作する。レンジは返却口にやって来た食器を受け取り、再び洗い場に戻るのだった。


 日付が変わる前に酒場の営業は終わった。客が去ったホールの片付けを終えると、アオは「お疲れ様でした」と言ってさっさと引き上げていった。


 残ったレンジとマダラがテーブルに突っ伏していると、タチバナが二人の前にオニクマシチューの碗を置いた。


「二人ともお疲れさん。“日替わりメニュー”が残ってたから、夜食にどうだ」


 煮込まれてトロトロになったスジ肉が、ドミグラスソースの中に転がっている。レンジは「いただきます」と言うや、ガツガツと食べ始めた。


「俺はやめときます、おやすみなさい……」


 マダラは立ち上がると、ふらふらしながら従業員寮に歩いていく。


「おやすみ」


「おやすみ。明日もよろしくな」


 タチバナはレンジの正面、マダラが座っていた席に腰かけてシチューを食べ始めた。


「お前さん、こういう仕事には慣れてるみたいだな。よく働いてくれて助かったよ」


 レンジはほんの一瞬固まったが、すぐにもう一口シチューをすくって、口に運んだ。


「ありがとうございます」


 黙々と食事を続け、シチューの碗を空にすると「ごちそうさまでした。おやすみなさい」と言って席を立った。


「おやすみ。食器は一緒に片付けとくから、置いといていいぞ」


 タチバナに声をかけられると、レンジは「ありがとうございます」と言って歩き去っていく。


「レンジ、昨日の夜の動画、町内の回線にアップしたぞ」


「えっ」


 振り返ったレンジがぽかんと口を開ける。


「はははっ、皆の反応が楽しみだな」


「勘弁してくださいよ……」


 ばつが悪そうにわらった後、会釈して従業員寮に向かっていくレンジを、タチバナは黙って見送っていた。




 寮の階段を上がり、2階の自室に戻ると、レンジは灯りも着けずに布団を広げ、うつぶせに倒れこんだ。


 ジャケットの上から、内ポケットの指輪に手を当てる。目を閉じると、タカツキ・サテライトの裏通りに建つミュータント・バーのホールや厨房、従業員部屋が次々に、まぶたの裏に浮かんでは消えた。


 柔らかい翼を広げて空に遊ぶような少女の歌声が、どこかから聴こえてくるように感じるのだった。



 翌朝も朝陽と鳥のさえずりに起こされたレンジは、顔を洗ってホールに向かった。ベーコンエッグもどきの朝食を摂った後、タチバナから背負いかごを渡された。


「今日は昨日できなかった茸採りだな。元々の予定だった獣避けの柵の点検も、一緒に進めてくれい」


 レンジがかごを背負い、マダラが機材の入ったリュックサックを背負うと、タチバナが声をかけた。


「レンジ、変身していけよ」


「えっ、今日もですか」


 二人は白峰酒造を出ると、ログハウスやコンテナハウス、バラックなどが入り雑じって並ぶナカツガワの町中を、登山口に向かって歩き出した。雷電は歩いている間、そこかしこから見られているのを感じていた。憎しみや恐れの視線ではない。むしろ興味に近いものが向けられているのを感じる。


 建物の影に、数人の子どもたちがいる。近づいては来ないけれども、話しかけたそうな顔をしてこちらを見ていた。


「すごく見られてるな」


 レンジがぼそりと言うと、マダラはニヤっと笑った。


「昨日の動画を見て、お前さんのファンになったんじゃないか? 手でも振ってやったらどうだ?」


「やめてくれよ」




「あれが、ストライカー雷電」


「かっこよかったねぇ」


 ミュータントの子どもたちは、かごを背負った雷電が歩き去っていくのを見送ってから話し始めた。


「お話ししてみたいな」


「真人間なんだろ、相手してくれないよ。バカにされるかもしれない」


「雷電は、そんなことしないよ!」


 グループにまざっていたアキが声をあげる。


「何でそんなことがわかるんだよ」


「昨日会ったもん!」


 リンがアキの手を握って言う。


「あまり話はしてないって、リンちゃん昨日言ってたの、知ってるんだからな!」


 言い返されて、リンは口をきゅっと閉じる。アキは雷電とマダラが向かっていった山をにらんでいた。




 レンジとマダラはしばらく山道を登った後、背を屈めて沢沿いの小道を歩いていた。


「これは?」


 山菜を採っていたマダラがやって来て、レンジが指さした茸を見る。


「うまいやつだ。採っといてくれ」


「はいよ」


 レンジはかごに付いていたナイフで、茸を根元から刈り取った。


「このナイフ、よく切れるな。金属じゃないみたいだけど、何でできてるんだ?」


「ミュータントのでかい猫がいてな、その牙を磨いで作るのさ」


 マダラが地面に視線を這わせながら答える。


「うへえ」


 レンジは茸をかごに放り込むと、よく似た茸が近くに生えているのに気づいた。


「これも同じ茸じゃないか?」


 持っていた大量の茸と山菜をかごに入れてから、マダラがレンジの背中越しに覗きこむ。


「これはよく似た違う茸だな。毒があって食えない」


「まじかよ、そっくりじゃないか」


「まあ、経験がないと難しいさ。俺は小さい頃からやってるからな。さて、そろそろ獣避けを見に行くとしようか」


 雷電がかごを背負い、二人が立ち上がりかけた時、マダラのポケットから電子音が鳴り始めた。

通信機を取り出して、画面を立ち上げる。


「救難信号だ。行こう、雷電の力が必要になるかもしれない」


「わかった」




 ナカツガワ・コロニーを取り囲む森は、その外縁を獣避けの柵によって区切られている。柵の周囲は木が刈られ、帯のように拓けた土地が延びていた。


 救難信号は柵の程近くから発せられていた。雷電はマダラに先行して、柵沿いの道を駆け抜けていた。


「木が倒れて、柵が壊れてる!」


 立ち枯れた大木が根元から折れ、柵を押し倒して大きな穴をあけていた。


「『信号はその近くだ。人影を探してくれ』」


 通信機でモニターしていたマダラが、雷電のヘッドスピーカー越しに指示を出す。


「了解」


 見回すと、近くの木立がなぎ倒されて新しい獣道ができていた。


 道の先には、大きな猫型のモンスターが横たわっていた。白色の毛皮に、茶色のぶち模様がついている。頭には数発の銃弾が撃ち込まれ、開いた口からは大振りのナイフを思わせる鋭い牙が二本生えていた。


「モンスターの死骸だ。でかくて、2本の牙が生えてる奴だ」


「『雷電のカメラ越しに、こっちでも見えてるよ。ダガーリンクス、牙山猫だな。……けど、死んでる? 本当に?』」


「頭を何発も撃ち抜かれてる。間違いない」


「『信号は消えてない。まだ何があるはずだ。まずは人を探さないと……』」


 マダラが言いかけた時、牙山猫の向こう側に繁った低木がガサガサと揺れた。


 身構えるレンジの前に、猟銃を担いだ赤い顔の中年男性が転がりでてきた。そのまま地面に這いつくばり、必死の表情と身振りでうつぶせるように訴えている。雷電も従った。


「助けに来てくれたのか! あんた確か、タチバナさんとこの動画の」


 狩人が声をひそめて言う。レンジも小声で返した。


「雷電です。何があったんですか?」


「狩りに出たら、山猫たちが茨鹿を狩ってるのに出くわしてな。触らぬ神にと思ってたが、柵の破れ目から鹿と山猫が禁猟区に入っちまった。何とか食い止めようと思ったんだが」


「あの山猫はあなたが?」


 レンジの問いに狩人が頷く。


「あの一匹が精一杯だ。他の猫は逃げ出した。あいつはまだ残っているが、俺の弾じゃ歯が立たん」


「あいつって?」


 立木がなぎ倒され、枝を踏み折る音が近づいていた。


「『茨鹿だ!』」


 ヘルメットのスピーカーから、マダラが叫ぶ。樹の幹を思わせるような脚に支えられ、引き締まった巨大な筋肉の塊が浮かんでいた。更にその上に太い首が建ち、2つの目玉がギラギラと光っている。大鹿は薄く緑色を帯びた毛皮に被われていた。全身の至る所から袋角が肉厚のひだとなって幾重にも重なって飛び出しているさまは、バラの花を思わせる。


 茨鹿は右前脚を引きずって、鼻息荒く周囲を睨んでいる。どの脚も鋭い刃に切り裂かれて血がにじみ、花びらがこぼれ落ちるようだった。


「マダラ、どうしたらいい?」


「『柵の向こうに追い出すのは難しいだろう。繁殖期の茨鹿は神経質だし、狩り立てられて気が立ってるはずだ。もちろん、放っておく訳にもいかない。近くの柵が直せないし、そいつ自身もプラントを荒らすからな』」


「じゃあ、やるしかないのか」


「『ああ、頼む』」


「了解」


 雷電は大きく跳んで、うつぶせている狩人から離れると立ち上がった。


「俺が相手だ鹿お化け、“電光石火で、カタをつけるぜ!”」


 茨鹿は雷電を見下ろすと、雄牛のような低い声で嘶いた。そうして地面を揺らしながら、猛然と突っ込んできた。


 雷電は突撃を横跳びで避け、鹿が体勢を立て直して再度走り込んでくると、脚の間を潜り抜けた。茨鹿の注意を狩人から逸らしたのを見計らうと、手負いの右前脚を殴り付けた。巨大な鹿は構わずに右脚を大きく振り、雷電を引き離した。


「びくともしない! 熊以上の難物だな」


 鹿は後ろ脚で立ち上がり、大振りで左前脚を打ち下ろす。地面が大きく抉れた。


「『まだ足りないんだ。もっと撃ちこみ続けてくれ』」


「簡単に言ってくれるなあ」


 重機に見まごう巨体の突撃をいなし、柱のような脚を蹴りつけて跳び退く。


「『雷電のスーツは、蹴り飛ばされても大丈夫なはずだ。踏みつけられたら危ないから、それだけは気をつけて』」


「もっとやれってか!」


 雷電は茨鹿の股ぐらに潜り込み、左前脚に取りついた。足関節に狙いを定めて殴り続ける。鹿が脚を振り回そうが、後ろ脚で立ち上がろうが武者ぶりついた。


「このスーツは、物を投げるのも強化してくれるのか?」


 殴り続けながらレンジが尋ねる。


「『威力も弾道計算もサポートしてくれるはずだが、どうして?』」


「決め手が足りない。必殺技を使う。充電はどうだ?」


 大鹿が脚を大地に激しく打ち付けた。雷電は転がり落ちて距離をとる。


「『一発分なら、いけるよ』」


 鹿は雷電を正面から睨み付け、体当たりしようとしたがよろめいた。ひたすらに殴られた左前脚の関節が悲鳴をあげたのだ。


「“一撃で十分だ。決めるぜ!”」


 スーツにしゃべらされた決め台詞を口から出すままにして、雷電は茨鹿の蹄に巻き上げられた石をつかんだ。体勢を崩し、落ち込んだ頭に狙いを定める。


「“サンダーストライク”」


「『Thunder Strike』」


 ベルトから音声が発せられ、全身が青白く輝く。雷電が振りかぶると、全身の電光が肩から腕に集まっていく。


 腕を振り下ろして石を投げると、加速した石は一直線に撃ち出され、スラッグ弾のように巨大な鹿の眉間に突き刺さった。そして頭蓋骨を穿ち抜き、脳を貫いて彼方に飛んでいった。


「『Discharged!』」


 茨鹿は断末魔すらあげずに、地響きを立てて倒れこんだ。




 柵に応急処置を施してからマダラが追い付くと、三人は獲物を運んで山を下りた。といってもマダラと狩人は、雷電が引きずっている鹿と山猫が引っ掛からないように、周りの枝を切り払うのがせいぜいだったのだが。


 コロニーのゲート前には、タチバナを通じて話を聞いた人々が集まっていた。興味津々の子どもたち、家事を終えた主婦、避難してきた農業プラントの労働者たち、その他野次馬たちが集まり、山狩りの装備を固めた猟友会と警備部の面々が待機していた。


「雷電が帰ってきた!」


 大きなリヤカーを引いてきたアオが、肉塊を引きずる雷電を見つけて大きく手を振ると、野次馬たちもワアッと声をあげた。男たちはレンジたちに駆け寄り、大鹿と山猫を担ぎ上げてリヤカーまで運んでいった。


 タチバナが雷電の肩を叩く。


「お疲れさん。よくやってくれた」


 プラントの人々が口々に礼を言う。子どもたちも笑顔で近づいてきた。雷電は変身を解いて皆の顔を満足そうに眺めた。


「あれ、アキとリンは?」


 子どもたちも驚いて互いに見回す。真っ先に駆け寄ってきそうな二人連れの姿がなかった。子どもたちがざわつき、大人たちにも波が広がった。


「どうした、アキとリンがいない?」


 マダラが人混みをかき分けてやって来る。


「あの二人には、発信機つきのタグを持たせてるんだ。何かあればすぐに探すことができるようにね」


 マダラが通信機の画面を立ち上げる。地図を開いて画面をさわると、離ればなれになった2つの点が表示された。


「ひとつはこっちに向かってる。もうひとつは山の中だ!」


 人々はざわめき、山狩りの相談をしていた猟友会と警備部の面々は顔を強ばらせた。


 すると山を見張っていた人々の中から「リンが来たぞ!」と声があがる。雷電とマダラたちが駆けつけるとひざをすりむき、泥や木の葉にまみれたリンが、泣きべそをかきながら大人たちに囲まれていた。アオが優しくだきしめる。


「リンちゃん、どうしたの?」


「あたしが、こっそり雷電についていきたいって言ったから……山に入ったら、山猫がいて……アキちゃんはあたしを逃がすために、おとりになる、って言って……」


 リンが泣きながら、途切れとぎれに話すのを聞いて、レンジは銀色のベルトを腰に巻き付けた。


「行ってくる。マダラ、ナビを頼む」


「待ちなよレンジ、ベルトの充電は切れてるだろ」


 マダラは通信機を操作しながら言った。


「必殺技以外は何とかなるだろ」


「ちょっとだけ待ってな……来た!」


 エンジンの音が近づいてきて、バイクの黒い影が走り込んできた。無人の大型バイクはクラクションを鳴らし、人垣を左右に分けながらレンジの前に停まった。ボディのキズやヘコミも修理され、陽に照らされて艶やかな光を放っている。


「どうだ、今朝のうちに修理も調整も終わったんだぜ」


「お前、自動操縦なんて勝手につけやがって」


「いいから、バイクに乗って変身してみな」


 マダラは悪びれずに言う。レンジは文句をあきらめ、バイクに跨がってベルトのレバーを下ろした。


「“変身”!」


「『OK,Let's get charging!』」


 激しいエレキギターとベースの音が轟き、ベルトがカウントを始めた。


「おねがい雷電、アキちゃんを助けて!」


 リンが叫ぶと、レンジは親指を立ててみせた。


「任せて」


「『……Maximum!』」


 黒いボディスーツと鈍い銀色の鎧がレンジを覆うのと同時に、バイクも銀色の装甲に包まれた。


「『"STRIKER Rai-Den", charged up!』」


「成功だ! これがストライカー雷電の相棒、サンダーイーグルだ!」


銀色の装甲には金色から青にグラデーションがかかったラインがかかり、ヘッドライトは猛禽の眼のように鋭い光を放っている。雷電はコツリとバイクを小突いた。


「まさか、ここまでするとはな! 怒る気も失せたよ。なんの役に立つんだこれ」


「いいか雷電、サンダーイーグルはライトニングドライバーのバッテリーを充電する機能があるんだ。バイクのパワーもかなり上がってる。そのまま山道を走れるぜ」


 タチバナが撮影用ドローンを飛ばし、装甲バイクにまとわりつかせた。


「道の修理とかは気にするな。ぶっ飛ばしていけ!」


「了解!」


 雷電はバイクのエンジンをふかし、木々のトンネルに飛び込んだ。




 装甲バイク“サンダーイーグル”は砂利にタイヤを吸い付けるようにしながら、坂道を駆け上がった。一基ずつ搭載された水エンジンとバイオマスエンジンが、息の合った二人三脚で安定した回転数を保っている。マダラの調整は完璧といってよかった。


「マダラ、あんた大した腕だよ」


「『ありがとう! ……バイザーに信号の方向をポイントするよ』」


 マダラが言うと、視界の端に三角と丸のサインが浮かび上がった。


「『三角が雷電、丸がアキの持ってるタグだ。ルートはこちらでナビする。しばらく道なりだ』」


「了解」


 アキの丸は一ヶ所に留まって動かない。マダラが通信機越しに「次の分岐を左」「次は真っ直ぐ」と指示を飛ばす。山道を走り続けると、三角と丸がじりじり近づいていった。


「『もう少しだ! そこのカーブで道を外れて、そのまま真っ直ぐ藪に突っ込め』」


「無茶を言うなあ!」


 文句を言いながらも、雷電はためらいなく藪の中を突き進んだ。石を弾き飛ばし、枝を折りながら道を作っていく。藪を抜けるとダガーリンクスたちが群れ、細い木の周りにたむろしていた。


 行き掛けの駄賃とばかりに一頭を撥ね飛ばす。黒い毛皮の山猫は「ギャン!」と短い悲鳴をあげて転がった。


「『アキは木の上だ!』」


 白地に黒ぶち、茶色の縞模様、茶色と黒の三毛……とりどりの毛色をした山猫たちが雷電を取り囲む。アキは木にしがみついたまま叫んだ。


「助けて、雷電!」


「任せとけ! ……まとめて来やがれ、どら猫ども、“電光石火で、カタをつけるぜ!”」


 雷電はバイクを乗り捨てると、跳びかかってきた山猫を避けた。


「充電はどうなってる?」


 次々に襲いかかる山猫たちから身をかわしながら雷電が尋ねる。


「『必殺技、一発と半分ってとこかな』」


「まとめて一発分にして、放電時間を伸ばせないか?」


「『やってみる』」


 脚に噛みつこうとした山猫を蹴り飛ばす。猫たちは跳びかかってはかわされ、殴られては距離を取ってを繰り返しながら、じりじりと包囲網を狭めていった。今や、前脚を伸ばせば爪の先が雷電に届きそうなほどだ。


「『……できた!』」


 大きく息を吐き出してマダラが言った。


「『放電時間はこれまでの倍だ!』」


「ありがとう!」


 ダガーリンクスたちが壁になって迫る。一斉に身を屈めて、跳びかかろうとした瞬間、雷電も膝を落とした。


「“サンダーストライク!”」


「『Thunder Strike』」


 閃光を纏った右脚が円弧を描き、波のように襲いくる山猫たちを凪ぎ払った。


 撃ち漏らした山猫が間髪入れずに跳びかかってくると、雷電は身を翻して左脚を放つ。雷光の曲線が再び山猫たちを貫いた。


「『Discharged!』」


 立ち尽くす雷電の周りに、ダガーリンクスたちが重なって倒れていた。


 木から滑り落ちるように降りてきたアキは、雷電に抱き止められると泣き出した。ひとしきり泣くと「もう、大丈夫」と言って袖で涙を拭き、雷電の腕から地面に降りた。


 雷電は近くに乗り捨てていたサンダーイーグルを起こすと、座席の荷物入れを開けてヘルメットを出し、アキに投げ渡した。


「わっ」


 アキがあわてて受け止める。


「それ被って、後ろに乗りな。リンが心配してるぞ」


「うん!」




 アキと雷電を乗せたバイクがナカツガワの町に戻ると、鹿狩りを終えた時以上に集まった人々が歓声をあげて、二人を出迎えた。アキは大泣きしているリンとアオからきつく抱き締められ、雷電は町中の人々からもみくちゃにされた。


 人々は祭りの日かのように笑い、歌いながら一団となってナカツガワ・コロニーの中央通りを歩いていった。


 白峰酒造の前にはクレーンが置かれ、首を落とされて皮を剥がれた茨鹿が吊り下げられていた。巨大な肉塊の血抜きは既に終わり、ところどころの身が削ぎ落とされている。タチバナが店の中からテーブルと椅子を運び出していた。


「皆、おかえり。今日は雷電の活躍を祝って、白峰酒造のおごりだ。鹿鍋を食べていってくれ」


 人々は一際大きな歓声をあげた。皆で手伝ってテーブルを並べ、席が足りない分はブルーシートを広げて、宴会が始まった。レンジはブルーシートに腰を下ろすと子どもたちにまとわりつかれながら、ミュータントたちが酒を酌み交わし、鹿鍋に舌鼓を打つのを見ていた。


 大宴会は参加者の歌や踊りを交えながら日が沈んだ後も続いたが、子どもたちがうとうとし始めたのを見たタチバナが拡声器で皆に呼びかけ、酒場が普段店じまいするよりも早い時間に解散した。


 参加者たちも一緒にテーブルと椅子を片付け、茨鹿の肉塊を部位ごとに切り分けて冷蔵庫に放り込むと、祭りの後はあっという間に片付けられた。アオはアキとリンを寝かしつけるために二人を連れていき、マダラは「ライトニングドライバーの調整をする」と言い、ベルトを持って自室に引っ込んだ。


 客たちも去り、がらんとした酒場のホールにタチバナとレンジが残った。タチバナはカウンターの奥からとっておきのウイスキーを取り出すと、ロックにしてなめるように呑みはじめた。客がいる間は呑まないと決めているのだった。


「おやっさん、お疲れ様です」


「お疲れさんは、お前さんだろうに。しかし、レンジからもそう呼ばれるとはなあ」


 タチバナは笑ってグラスを置いた。


「レンジも呑んでなかったろう、どうだ一杯?」


「ありがとうございます。でも、俺は飲まないんで……」


「そうか」


「おやっさん」


「うん?」


「雷電をやらせてもらって、ありがとうございます。お蔭で俺、町の人たちに受け入れてもらえました」


 タチバナは「よせよ」と言って笑った。


「ベルトを渡したのは俺だが、その後はお前さん自身の頑張りじゃないか。まぁ、そう言ってくれるのは嬉しいんだがな」


 タチバナがグラスに再び手を伸ばしかけた時、レンジが「あの」と声をかけた。


「どうした?」


「この町に、チドリさんという人はいませんか?」


「チドリ、ねえ……」


 少し考えたが、名前に覚えはなかった。


「わからんな、どんな“なり”をした人なんだ?」


「女の人なんですが、歳は俺より少し下だと思います。こめかみの周りと首から胸元までと、肘から下が鳥みたいな羽に被われています。脚は、脛の辺りから下が鱗になっていて……」


 タチバナは腕を組んで「ふーむ」とうなった。


「やっぱりわからんな。少なくとも、今この町にはいないだろう」


 レンジはがっかりしたような、どこか安心したような表情で、タチバナの答えを聞いていた。


「そうですか。ありがとうございます」


「そのチドリという人は、お前さんの、その……何だ、ツレか?」


 タチバナの問いに、レンジは「違いますよ」と返して軽く笑う。


「会ったことはないですけど、姉みたいな人です」


「ふうん」


 タチバナは要領を得ない答えに再びうなって、ウイスキーをぐびりと呑んだ。


「ははは、俺にもまだ分からないんです。……それじゃ、おやすみなさい」


「俺からも、ちょっといいか」


 帰りかけたレンジの背中に、タチバナが声をかけた。


「はい?」


 レンジが立ち止まり、二人が黙るとホールは静まり返った。


「その……俺はこの町で保安官の真似事をしてるんだが」


「はい」


 乾いた声でレンジは返した。


「お前さんの経歴を見せてもらった。オーサカ・セントラル保安管区で保安官殺しの嫌疑がかかっていることもな」


 レンジは口を一文字に閉じて、話を聞いている。


「勘違いさせてしまっては済まんが、お前さんを逮捕するわけじゃないんだ。その保安官は悪名高い腐敗デッカーでな。俺も保安官である手前、人を殺すのはいかんと言うしかないが、そいつは調べれば調べるほど、いつどこで殺されてもおかしくなかった。実際、悪徳デッカーがぶち殺されるなんて、よくある話だ。管区をまとめる巡回判事にとってもそいつは厄介者だったんだろう。捜査はすぐに打ち切られた。管区の後ろ暗い事情も一緒に闇に葬って、な」


 レンジは黙って、話の続きを待っている。タチバナは努めて軽い語調で話を続けた。


「まあ、お前さんにかかってたのはあくまで疑いに過ぎないし、ここまでオーサカ・セントラルの捜査が来ることはないさ」


「俺です」


「ん?」


「俺が撃ったんですよ、そのデッカー」


 表情を変えずにレンジが言う。


「そうか」


「何も言わないんですね」


 タチバナは、レンジの表情を探っていた。良心の呵責や、逮捕への恐怖は見えなかった。


「一昨日に言っただろう、この町はどんな奴だって受け入れる、ってな。……いや、一番気になっていることは、そうじゃないんだ」


 タチバナは話を区切り、仕切り直して話しはじめた。


「デッカー殺しの現場で、ミュータントの女の子が撃たれて亡くなってるんだが」


 レンジの目に、怒りとも哀しみともとれぬ色が浮かぶ。


「それが、どうかしたんですか」


 冷徹ささえ感じさせる無機質な声だった。タチバナはレンジの事情に踏み込みすぎたかと思い、一呼吸して間を置いたが、やはり話を続けることにした。


「やって来たばかりだが、お前さんはこの町でよくやってるよ。だが、それは普通の“真人間”にとってはよほど大変なことだってのも、俺は知ってるつもりだ。ミュータントの中にたった一人で入っていくというのはな。普通はどこかでミュータントを恐れるもんだ。それか“自分はミュータントを差別しない人間だ”って意識が鼻につくか、だな。しかし、お前さんはそんなことはなかった。自然にこの町に入ってきたんだ。町の奴らは、ただ役に立つストライカー雷電としてお前さんを受け入れたわけじゃない。仲間として認めたんだ。……だからなあ、俺はお前さんのことを、もっと知りたいと思ったんだ。それで経歴を調べて、事件に出くわした。犠牲者の女の子が気になったのは、長年の保安官稼業から来るクセみたいなものだ」


 レンジは黙って聞いていたが、眼差しの険しさは少しやわらいでいた。


「おやっさんが言った通り、よくある話ですよ」




 脳裏に、タカツキ・サテライトの裏路地が広がった。ごみ袋の山の間に、男がうつ伏せになって倒れている。雲の切れ間から射す月光が、横たわる赤毛の少女を照らした。


 ことりは胸に赤い染みを拡げていたが、穏やかな表情で両目を閉じている。


 よくあることだ、とレンジは内心、繰り返して言った。悪徳デッカーが路地裏で殺されることも、ミュータントの女の子が撃たれて死ぬことも。


 どこにでもあるような町の、ありふれた出来事に過ぎないのだ。


「デッカーらしいやり口で嫌な思いをさせたのは悪かった。お前さんが背負ってるものが何かはわからんが、話すことで楽になるのなら、いつでも話を聞くぞ」


「ありがとう。……でも、大丈夫です」


 レンジは「おやすみなさい」と言って再び歩きだした。戸口に入るとき、振り返ってタチバナを見た。


「おやっさん、また明日もよろしく」


「おう」


 “STAFF ONLY”と書かれたドアが小さくバタリ、と音をたてて閉まる。タチバナは一人で残り、グラスを傾けた。

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