深海

 デジタル表示が変わってゆく。一分は六十秒。最初は一秒から始まる。

 泣きじゃくる聖の背中の暖かさを手のひらで感じながら、そんなことをぼんやり考えている。


 これまでの私の人生は、と私は思った。取るに足らない、たった十七年。これだけ人が泣く姿を見ことがどれくらいあったのだろう。しかも、聖は私のために泣いているようだ。ありがたい、と思えばよいのだろうか。確かに聖はパートナーで友達だ。

 でも。

 今、私は戸惑っている。また時計の数字が増える。何か、何か、と言葉を探す。深い深い海の底で。深海の貴重な生物を探すように。それは奇妙で異端な存在であってもグロテスクであってはならない。濃厚な闇の中であっても暖かく輝く存在。そんな言葉を私は探している。

2:30。私たちは深みに降りてゆく。聖の泣き声が私を夜の底にいざなってゆく。

 「いいじゃん。楽しかったんだよね。念願のきちんとしたライブハウスで歌えたんだから。それは聖のプラスになると思うよ…」私は凡庸な言葉を紡いでみた。私の太ももに突っ伏していた聖が顔をあげる。そこには、いつものちょっと大人びて凛とした雰囲気の聖はいない。泣きはらしたその顔はあどけなさを残した少女がいた。

 「わたしもそう思った…良い経験になるって、そう割り切ってたつもりだったのよ」「でもね、だめだった。いつの間にか奏の作る曲が…音が私の中で大きくなっていたんだよ…自分自身でも気がつかないくらいに」それだけ言うと、再び聖は私の太ももに右の頬をつけて横になる。私は聖の髪に触れる。夜の闇と同じ漆黒の流れがそこにあった。聖は少し前まで、ゆるい校則を利用して髪色を少し明るくしていた。でも、これじゃあ奏とバランスが取れないよね、と言って黒髪に戻した。デジタル時計は3:10を示している。

 そうだ。

 私は不意に思い出した。そうだったのだ。なぜもっと早く思い至らなかったのだろう。こんな、こんな大事なことに。聖の私への思い。いや想い、と言うべきなのかもしれないけど。


 聖、ちょっとごめんね。私はベッドにあったクッションを引き寄せると聖にあてがった。そうしておいてPCへ向かう。もう一度楽曲データをディスプレイに呼び出した。私の楽曲は、カラフルなバーや数字に転化されてディスプレイを埋めている。

 「どうしたの。何か思いついたの」聖のその声に先ほどまでの湿り気は感じられなない。「うん。私がやらなきゃいけないことを再確認したよ。聖、歌詞の仮タイトルで『さくらみみ』っての、あったよね。あの歌詞見せてもらって良いかな」聖は不思議そうに私を見ると、端末を操作して歌詞をを私の端末に送ってきた。公園で桜耳の地域猫たちと遊んでいる時に彼女が思いついた詞だ。3:40。やがて東の空の果てが紫色に染まり出す時間。キーボードを叩きマウスを操作して歌詞を読みながら、私は曲に修正を加える。そうだ。そうだったんだ。こんな大事なことに気がつかないなんて…

 私はためらったけれど、音をスピーカーから鳴らすことにした。音量をコントロールして小さめに。二人で聴くために。


 「ね、聖。私たちは二人で一人になろうよ」私は聖の方を振り向いて言った。胸の奥底でずっとくすぶっていた言葉、それを口に出すことができた。私は曲のコード進行とメロディを紙の五線譜に手書きで書いてゆく。

 「私も聖に謝らなきゃいけない。私はずっと一人だけで曲を作ってた。聖は歌い手で、私はコンポーザーで。でも、それは間違いだった。聖と出会ったことで私の曲はもう私だけのものじゃなくなってたのよ。聖の言葉と聖の声で歌われる曲は、私と聖のものなんだよ」

 「かなで…」

 「コンペの結果とかどうでもいい。私は聖とこの曲を完成させる。聖も歌ってみて。意見を聞かせて。私がそれを形にするから」

 「うん。やる」

 漆黒から紫へ。赤からオレンジへ。そして白い光が。私の音は聖の声を得て次々とアップデートされてゆく。私と聖は、そこに新しい脈動を確かに感じていた。

 そしてその音は階下の両親にも聞こえていた。

 「ねえ、お父さん。奏は私たちより先にいけるかもしれないわね」

 「君もそう思うかい」

 「ええ。それにしても素敵な声…」

 迷い。繋がり。そして、その先へと。

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