それぞれ

 初めてステージで歌ったことについて、そのときの気持ちは、と言われても、聖は気のきいた答えを返すことができない。

 では何を覚えているかと聞かれたら。

 眩しくて暑くて電気で稼働する機材の鉄とビニールが焦げたようなにおいを思い出す。においは聖がステージに立っているあいだ、ずっとそこあった。

 そこは特殊な場所だった。


 聖は成り行きでライブハウスのステージで歌うことになってしまった。

 奏といえば、ずっと家にこもって二次審査に提出する楽曲と格闘している。奏は自分の声に絶対的なコンプレックスを持っていて、これまでヴォーカル・ナンバーを作ったことがない。聖は、といえばヴォーカル・メロディー以外を考えることもできない。ぼんやりした曲の構成やそれを形作るヴォーカルラインは浮かんでくるのだけど。ギターリフとかドラムのオカズなんかは、記憶の底からときおりポツンと浮かぶことはある。

 確かに奏の声はちょっとハスキーで鼻にかかっていて、それがセクシーと言えなくも無いんだけれど、音域も狭くてやはりヴォーカル向きの声とは言えないのだ。

 

 楽曲が仕上がらない限り聖の出番はない。奏はすごく真面目で一途だ。私は少しでも、ちからになりたいと思っていたけれど、まとを得たことが言えない。感覚だけでここまでやってきた聖には、思いを伝えるすべがないような気がした。

 そんな時に、ストリートではなくライブハウスで歌わないか、と誘われたのだ。


 「なんでそんな話になってんの」

 昼休みにカレーパンを齧っていると、佐野が声をかけてきた。

 「先週の日曜日、お前が捕まらないから仕方なく俺と中川だけでってたんだけどさ」そこで声をかけられたのだという。

 「この前、歌ってた女の子は今日はいないの、って声かけられたから、今日は都合がつかなかった、っていうと何とか会えないか、っつーから」聖は紙パックに入った甘すぎるカフェオレを飲んだ。糖分が口腔の上側にまとわりつく。パフォーマンスの時は絶対飲めないな、と聖は思った。

 「その人さ、あの近くのライブハウスで定期的にライブやってるらしいんだ」

 ライブハウスの名前はよく知っている。そこそこ大きなハコだ。ときどきメジャーで活躍しているバンドもやってくる。そこに出ているということは、それなりに実力のある人物なのだろう。そのことが頭をよぎった瞬間、聖は一瞬肌が泡立つのを感じた。

 「そんで、私の連絡先を教えたのね」

 「いやいやいや、それは無いって。さすがにそれほど俺も馬鹿じゃないよ。とにかく、次の俺らのライブ観に来て、直接はなしてみてくれって言った」

 その話の三日後、週末のストリートに男は現れた。


 聖に向かって右側の最前列で、手や足でリズムを取りながらライブを見ている男には年齢を特定できる色んなものが欠損しているような気がした。適度に伸びた髪。表情の読めない細い目。手の皺。視線は常に聖に固定されていて、笑顔のようなものが張り付いている。

 見つめられることには慣れている聖だが、なんとも落ち着かない気分だ。聖は二曲目から、その男の存在を消そうと思った。とにかく音に集中して、目の前の男から焦点をずらして終末のストリートに行き交う人々を見てパフォーマンスをした。男の姿はぼやけてる。が、その男の視線は確実に聖を絡めていって、振りほどくことはできなかった。


 いやあ、素晴らしかった。と、ライブの終わるとその男は拍手をしながら歩みよってきた。聖はぺこりと頭を下げて、あざっす、と応じた。

 「すごいね。いつから歌ってるの」佐野と中川はその様子を笑顔で見ながら、片付けをしている。

 「ここでり始めたのは、あいつらに誘われて仕方なく。それまではカラオケとか」

 「ほう」

 「家のクローゼットの中です」

 「なるほど、じゃあ佐野くんはお宝を発見したってことだ」

 かもしれない、って。聖は軽いいらだちを覚えた。

 「名前がまだだったね。いらかっていいます。甍一いらか はじめ。飲食やりながらバンドやってます。今度、歌ってもらえませんか」

 名刺でも差し出したら放り投げてやろうか、と聖は思った。

 「どういうことでしょう」

 「いや、普通に歌ってほしいだけだよ」

 「普通に」

 「ええ。バンドに入って欲しいってわけじゃないんだ。ゲストとしてライブで一曲歌って欲しい」

 ストリートに面した公園は週末のひかりにあふれている。家族やカップル。若者もいれば老人もいる。日常の光景、自分もその一部だと思っていた。

 その光景の中から自分と甍だけが切り取られた。奏の顔が浮かんだ。今こうしている間にも曲を仕上げようともがいているだろう。奏と見ようとしていた新しい世界があった。もちろん、そこにはいくつもりだ。

 しかし、通りすがりの人々に向けてではなく自分たちのパフォーマンスのために、音楽のために脚を運んでくれる場所がライブハウスである。

 新たに示された地図の座標に聖は興奮を覚えた。


 

 

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