マグカップ

 まいっちゃったね、こないのよ。


 配信が終わって、ひと息ついた寺蜜になぎさが声をかけた。今日の夕食はおそらくカレーライスで、なぎさは玉ねぎのみじん切りに余念がない。これを炒めに炒めてペーストを作るところから、彼女のカレーライス作りは始まるのである。そのために玉ねぎのみじん切りは神聖な作業である。その最中になぎさがいきなり話しかけたのである。寺蜜には最初何のことか分からない。

 「宅配かい。ネットで何か頼んだの」

 のんびりやさんだなあ。その言葉には諦めと優しさがあって、暮れ始めた二人の部屋のフローリングにゆっくりと沈んだ。


 自宅アパートの近くにあるパン屋のイートイン・スペースで、寺蜜はカレーパンを齧りながら、配信の内容を考えていた。それまで趣味としてやっていたギター奏法解説の動画の視聴率が伸びてきたため、チケット制にしてプログラムも見直し、音楽理論や作曲の仕方を自分なりに深めたプログラムとして再スタートさせた。するとコメント欄にいろんな意見が書き込まれるようになり、その中には、なかなか辛辣なコメントも多かった。


 ・チケット制にする意味あるんですか。以前と変わらないんですけど。

 ・音質を改善して。

 ・もっと丁寧に教えて欲しい。

 ・プロ意識に欠ける。というかプロじゃないんですよね。

 ・調子に乗ってないですか。メジャーなお仕事は何か手がけられたことはあるのですか。

 

 無料で公開していた時に書き込まれていた、賞賛と真逆の言葉がコメント欄の半分以上を埋めた。実際に書かれた言葉を目にすると、やはり落ち込んだ。


 まったく金が絡んだ途端にこれだ。


 しかし寺蜜にしてみれば、アルバイトから足を洗うには、この配信講座に賭けるしかないのだ。

 「あの、これよかったら。もうすぐ入れ替えの時間なんで」大振りの白いマグカップに入ったコーヒーが寺蜜の横に置かれる。モニターから目をあげると、良く見かける女性が人懐っこそうな微笑みを湛えて立っている。

 「あー、いつもご利用していただいているんで。たまには。店長にはナイショです。従業員の私が飲んだことにします。あ、私タダなんで」

 それからなぎさが寺蜜の部屋にやってくるまでに時間は掛からなかった。


 ダイニングテーブルで作業をしていた寺蜜は、立ち上がってなぎさの背後に立つ。炒めた玉ねぎとなぎさの香りが心地よく寺蜜をつつんでゆく。

 「今日もおいしいカレーが食べられる」

 「うん。で、さっき私はなんと言ったでしょう」なぎさは、少し芝居がかった口調で、背後の男に問いかける。

 「ごめん。ちゃんと聴いてなかった」

 燃える落ちる太陽が部屋の窓いっぱいにあった。なぎさの表情は影の中に沈んでいて分からない。

 「ようちゃんのそんなところ大好きだな。だから、ずっと一緒にいたい」なぎさの声の成分から、いつもの柔らかさが少し欠けている。


 なぎさは勤めていたパン屋で、サブリーダーを勤めるまでになっていた。リーダーからの指導に加えて、自らあちこちのパン屋を巡り、オリジナルのパンの開発にも余念がなかった。そして、なぎさが考案したオリジナルのパンも店頭に並ぶようになった。

 なぎさは認められたのだ。のめり込んだらいっさい妥協をしない。それがなぎさのアイデンティティであり、それが評価されたのだ。

 「こないの。月に一度のお月様がどっかに行っちゃった」

 来ない。月に一度のお月様。寺蜜はそこでようやく理解できた。

 「なるほど。じゃ、俺も報告しよう」寺蜜の返した言葉に少し面食らったなぎさだったが、すぐに持ち前の好奇心で言葉を返してきた。「なになに。聴かせて聴かせて」陽はもう姿を消して、薄い闇が二人の部屋を染めはじめていた。


 寺蜜は、なぎさに語りかける自分の声を聞きながら、今までにない感情が芽生えてくるのを感じていた。完成させる。あの曲を。竹越が評価してくれた曲の仮タイトルは『バース』。


 いいじゃないか。仮じゃなくて。これでいこう。


 

 

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