プリズナーズ
今日は「哲屋」ではなく他の店で一人で飲みたい気分だった。娘の奏のこと。それから連絡をくれた竹越のこと。
前から気になっている古めかしい木製のドアの店があった。年季の入ったカウンターとテーブル席が三つ。年代もののジュークボックスが置いてあり、ハンブルパイがカヴァーした「ホンキートンク・ウィメン」が流れている。思わず「ほお」と声が出た。それと同時にそう言った自分を嘲笑うもう一人の自分の存在を感じすにはいられなかった。
音楽の、特に商業音楽の胡散くささは、嫌というほど知っているつもりだった。
過去に朔も妻と体験してきたことだ。朔と現在の妻である友梨と仲間たちはデモ審査を勝ち抜きデビューできるはずだった。ただし、提示する条件をのむことで。
英国のバンドに影響された、ソウルフルで少し湿り気のあるメロディアスなロック。所謂ブリティッシュ・ロックが、朔たちのバンドのロックだ。ハンブル・パイやバッド・カンパニー、フリーのようなバンドを目指していた。しかし、買われたのは音楽性ではなく、その演奏技術だったのである。
朔はキーボードを弾き、現在の妻である友梨はベースを弾いていた。作曲はギタープレイヤーが担当することが多く、そのアレンジを朔と友梨で行う。リーダーを置かないのが、朔たちのバンドの信条だったが、デビューに向けて話が動き始めると、音楽理論を多少理解していて、ある程度弁がたつ朔が矢面に立つことになった。
提示されたのは、まず音楽性を多少修正すること。
ある程度の覚悟はあった。しかし、修正は多少なんてものではなくバンドのアイデンティティを崩壊させるのに十分な条件だったのである。リード・ギタープレイヤーとヴォーカルを兼任するサイド・ギター・プレイヤーは、朔が持って帰ってきた書類を放り投げた。まさかのんだんじゃないだろうな。
朔は悔しいのは自分も同じだ、今我慢しよう。売れさえすれば…
これが売れる保証はあるのか、自分たちのアイデンティティはどうなるんだ。しかもカップリングを書いているのは、外部のコンポーザーじゃないか…
その時の朔に二人を説得するのは無理だった。
結局、二人は脱退した。朔と友梨はデュオとしてデビューして、シングルを二曲リリースした。そして身を引いた。
そんなことがあっても、音楽と縁を切ることができずに、趣味として時折楽器に触れることはある。惨めったらしいとは思う。しかし、自らの音に身を任せていると、頭のずっと奥の方に妙に安心するような、とろけるような感覚を感じれらるのである。しかし、嫌悪と虚しさも同時に立ち登ってくるのだ。あの時、同時期にデビューしたバンドのリーダーである竹越は言った。「結局、奴隷なんだよ。俺たちはさ。もう、閉じ込められてしまったんだ。ロックにさ」
その竹越から連絡があったのは、一ヶ月ほど前だった。
「カナちゃんが俺が関わっているコンテストに残っている」
「…」
「どうした、聞こえているか」
「うん。ああ、久しぶりだな。景気良さそうじゃないか」
今度は竹越が黙った。
「奏は自由にやらせているんだ。DTMを弄っているのは知ってたよ。そうか、お前のところに応募したんだな」
「正直、驚いたよ。お前と友梨さんのルーツをしっかり受け継いで、それをさらに自分なり昇華させている。音色のセレクトやリズムの詰めは、まだまだ甘いけど、メロディが良いね。しかもインストだ」
「奏は自分の声に自信が無いんだ。確かに、親の僕が聴いても歌向きじゃない」
それからしばらくポツポツとお決まりの思い出話をした。その間二人の間には、深くて暗い川がゆったりと流れていた。それを二人も感じていた。
「で、だ。次は歌入りの楽曲が課題なんだ」そうなのか、と朔は答えた。
竹越はもちろん手心は加えないだろう。昔からそういう性格だった。ソリッドな性格がバンドを崩壊させて、今は一人でやっている。
「もし、奏が次に行きたければなんとかするはずだ。できなければそれまでだよ」
暗い川は淀みながら揺蕩う。
「アテはあるのか」
「さあ、どうだろう。でも、何故か以前より僕に自分の音楽の話をしてくれるようになったよ。何かを得たのかも知れないね」
奏。好きにやると良い。素敵な相棒と一緒にね。
曲はクリームに変わった。十字路で佇む男。いつだって人は交差点に立たされるのだ。
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