スクラッチ

 五八曲だった。そこに至るまでの数え切れないストーリーがあった。


 ─そんなに好きなことがしたいなら、さっさと家から出ていけ─


 もちろん、懐かしいとは思うし、なぎさと同棲してみて分かったこともある。結婚。それに、子供を持つということ。

 両親の期待の中心は、いつも二つ下の蒼にあった。陸上競技でいつも華々しい成績を叩きだす弟。そのたびに両親は、家で、時にはレストランで弟の祝勝会を開く。自分はいつもその様子を見ていた。高級な肉も新鮮な魚もすべて弟のためにあった。それらに箸を伸ばそうとする自分を、いつも冷ややかに見ていた父。しかし、弟はいつもこう言っていたのだ。


─試合前はいつも、兄貴が教えてくれたアーティストの曲を聞くんだ─


 高校をようやく卒業し、家出同然に寺蜜はライブハウスで知り合った年上のバンドマンのもとに出奔した。

 「兄貴、マジで出ていくのかよ」

 「ああ、この家に俺の居場所は無えんだよ」

 蒼は何も言わなかった。

 「あのさ、今度は兄貴の曲を聞かせてくれよ」

 「俺の曲か」

 「うん。絶対アガると思うんだ」

 一瞬、殴り倒してやろうかとさえ思った。兄を慕う弟。普通なら喜ばしいはずなのに。この運動バカは空気も読めないのか。

 「まあ、気が向いたらな」

 その日以来、家にはまともに連絡してない。

 

 ─ああ、聴かせてやる。ただし、お前だけじゃなくて、もっと大勢の人間にもな─


               ※


 部屋全体が橙色に染まっていく。西日の差し込む部屋はこの季節と秋口が最も快適なのだ。なぎさはまだ仕事から帰ってこない。

 PCで鳴らしていたレッチリを止めると、寺蜜は配信画面を立ち上げて、配信の準備を始めた。

 「皆さん、こんにちは。そして、こんばんわ。今回のレッスンを始めます。準備はよろしいでしょうか、顔出しオーケーの方は…はい、ありがとうございます。テンカさん、チー猫さん、いつもありがとうございます。あ、テルさん、柴コロさん、ありがとうございます。その他、見えない方々もありがとうございます。「ジミのミュージック・ハウス」にようこそ。

 それでは、初めて行きますね。今回はダイアトニックコードとその使い方のおさらいから始めていきます。どうですか、コードは弾けるようになりましたか」

 小さなスクエアに分割された画面の向こうで、視聴者たちが楽器を用意している。年齢や性別は様々。ギターを手にしている視聴者が最も目に付くが、中にはキーボードの前に座っていたり、ベースを手にしている視聴者もいる。バックに部屋がそのまま写っている視聴者もいて、そこからはそれぞれの生活が垣間見えた。その中にかつての自分の生活を思い返したりすることもある。

 「あ、チー猫さん、ミュシャちゃんも一緒にいますね。ミュシャちゃんもよろしくね」チー猫という少女の横には、三毛猫が顔を洗っている姿が映っている。寺蜜の言葉で全員が和んだ。

 何故こんなにも流暢に喋れているのか。自分自身がいちばん驚いている。もともと本番には強いかったし、ハッタリはきく方だとは思っていたが、相手はモニターの向こうである。「ジミのミュージック・ハウス」というヒネリも何も効いていないオンラインサロンの登録者数は現在二百五十名ほど。もちろんこれだけで食べてゆくことはできないが、倉庫のピッキング作業のバイトに比べれば、こちらの方が数倍楽しい。


 家を飛び出してから様々なバイトを掛け持ちし、PCとその周辺機器を買い揃えた。学生の延長でやっていたバンドが解散してしまってから、寺蜜はとにかく音楽で食い繋いでゆく方法を模索し、見よう見まねで始めたのが、オンラインの音楽講座だった。独学で学んだ理論を配信してみよう、そう思い立った。音楽に関係ないバイトから、いつか抜け出すことを目標に。

 しかし、独学だけでは限界があった。音楽理論やギターのテクニックを補完するために、音楽プロデューサーである竹越が主催する、スクールにも通い始めた。当然安くない出費だったが、なぎさが後押ししてくれた。「あんたの音楽は、もっとたくさんの人々に聴いてもらうべきなんよ」彼女は看護婦で、収入は当然、寺蜜よりも上だ。そこに自尊心が傷つかないこともなかったが、なぎさは、バカなこと言っとらんでアンタはさっさ曲書きいよ、と相手にされなかった。その日のことは頭の隅にずっとある。

 最初はオーディオ・インターフェースの使い方もままならなかったが、動画サイトに自分の演奏を投稿することで、ノウハウを掴み、ようやく講座開設までこぎつけたのである。もちろん、寺蜜の目標は現状ではない。

 「それでは、Cメジャー7thです。キーボードの方は展開させないで、お願いします。ベースの方は1・3・5・7を…そう、オーケーです」


 ─できることは何でもやってやる。世界に俺の音を鳴らすために─


 


 

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