マーキング

 目の奥から首筋を抜けて両肩まで。竹越は瞳を閉じて、瞼の上から右手の人差し指と親指とで眼球の硬さを確認するように軽く揉んでみた。そして今度は交互に肩を揉む。

 硬い。

 肩はともかく、眼球が硬いのはちょっと頂けない。眼圧が上がっているのだろうか。無理が効きにくい身体になっているな、と思う。自分の先輩たちがそうであったように、自分も確実に老いてきているのだ。飲みの席で病気自慢をする彼らを、よくからかっていたのだが、自分にもとうとうお鉢が廻ってきたのかも知れない。時計を見ると午前一時になろうとしていた。

 「お疲れ様です。よかったら」スタジオでアシスタントのバイトをしている女の子が白いマグカップに注がれたコーヒーを手渡してくれる。「ありがとう」竹越はそれを受け取ると、まず手のひらでその暖かさを確かめ、それを瞼に当てた。心地よい暖かさが、瞼越しに眼球の固まりをほどいてゆく。ような気がする。

 チカちゃんはさ、と名越は先ほどコーヒーを持ってきた女性スタッフに声を掛ける。「はい」と耳障りの良い澄んだ声でで返事が返ってくる。

 「最近どんな感じなの。オーディションとは受けてるの」ええ、ぼちぼちですけれど。バイトの女の子、関チカは名越の勧めた椅子に座った。

 「で、どうなの、受かってる」

 「小さな仕事は、なんとか。でも、バイトなしじゃキツいですね」

 「今も昔も変わらないんだな、俺もそうだったよ。結局、表舞台には立てずに終わったけど」

 佐伯は高校の時にバンドを組んだ。それからは作っては壊しの繰り返しだ。結局、突き詰めだすと、メンバーそれぞれにやりたいことに微妙な誤差が生まれてくる。青臭い結束に穿たれたくさびは、少しずつ衝撃を受けて、最終的には崩落する。そんなことの繰り返しだった。

 「でも、今はプロデューサーとして認められているじゃないですか」確かに自分は幸運だったのだろう。キツい時期も長かったのだ。今でもバンドとして、アーティストとして、表舞台に立つことにケジメをつけた日のことは、ありありと覚えている。時折、夢にさえ見る。いつも同じような夢を。


 ジャンプスーツを着て、逆さまにストラトを構えた肌の黒いモジャモジャ頭の男が、佐伯の目の前に現れてこう告げるのだ。

─ヘイ!お前の立つ場所はステージじゃあないゼ。そんなこと、分かってんだろう。オレ様に言われなくてもヨォ。

 「ああ、分かってるさ。でも、逃げられないんだよ。見てみろ、ここから出ようにもこんな鉄格子に阻まれちまって。どうすりゃ良いかわかんねぇんだよ」

ーオケ、オケ、オウケイ。じゃあ、特別にこのオレ様がここから出してやるヨ。

 彼はポケットをまさぐると、一つの鍵を取り出した。

 「鍵、なのか。それでここを出られるのかよ」

─オケ、オケ。テキニィーズィーね。お前はこれから、新しい世界に旅立つネ。ユー・キャン・フライ!


 気がつくと、佐伯はリクライニングしたシートに寝入ってしまっていた。ブランケットが掛けてあった。おそらくチカだ。「ああ…またやっちまった」椅子からゆっくり立ち上がると、何かが、乾いた音を立てて足元に落ちた。それはUSBメモリだった。付箋が貼ってある。


 よかったら聴いてみて下さい。関


 鍵の次はUSBかよ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る