第34話 - 敗北

「クロシェ!」


 急ぎ帰還したキースとマリア。エントランスには、目を赤く腫らして大声で泣いているマロンと、その傍にカイネとミウがいた。

 カイネとミウは、静かに目を閉じていて、悲痛な面持ちを晒している。

 キースは彼女らに近付き、尋ねる。


「カイネ、ミウ、マロン。クロシェはどこだ。……なにがあった」

「うわああああああああああ! なにも、なにもできませんでした! ごめんなさい、ごめんなさい、クロシェ様……!」

「マロン、おい、落ち着け、なにが起こったんだ……!」

「クロシェ様は、ご来訪された第六王子ミゼル様と共に、ご出立されました」

 と、いつの間にやら現れたクロードが、恭しく腰を折りながら、話に割り込んだ。

「ミゼルと、クロシェが……? そんなわけあるか、二人でどこへ行くって言うんだ」

「ミゼル様がお出しされた書類にサインをしたあと、速やかに第六領へ向かわれました」

「書類……? どういうことだよ、そんなものが、なんだっていうんだ」

「漏れ聞こえた内容から推察するに、ですが。あれは――」


 クロードが語った内容は、耳を疑うようなものだった。馬鹿げている、と笑い飛ばしたいくらいに。だが、カイネ、ミウ、マロンの反応から、それが冗談ではないことを知る。


「ふざけるな――」


 キースは、外套を翻し、再び玄関へと向かった。マリアがそれを咎める。


「おいおいおい、坊ちゃん、どこ行くんだ。まず落ち着きな……」

「離せ!」


 肩に置かれようとした手を激しく跳ね除け、怒りで充満した目を、彼女に向ける。


「クロード。馬を借りるぞ。すぐに第六領、ミゼルのところへ向かう」

「キース、熱くなるな! 敵陣に飛び込む大将がいるかよ!」


 そんな忠告なぞ聞かず、彼は外へ飛び出し、馬に跨り、暮れる暁の向こうを目指した。

 木の枝から見下ろしていた鳥が一羽、空に舞う。


 第七領から第六領へと連なる道は舗装されていて、途中に設置された関門も、キースを見るや、そのまま素通ししてくれる。

 第六領に入った途端、自らの領地では見たことのない賑わいが増していくのすら、今は腹立たしかった。首都にすら、一切妨げられることなく進入できたので、その勢いのまま馬を飛ばし、ミゼルの王子邸前まで、すんなりと到着した。

 それは、第七領の王子邸の倍ほど豪奢な建物で、見下ろされているかのようですらあった。

 鉄門に鍵はかかっておらず、無造作に開いて中に押し入る。玄関の扉も同様に開くと、煌びやかな光が漏れ出た。


 豪奢な内装は、幾つもの蝋に灯った火に照らされていて、昼間のように明るい。


 正面には大きな階段があって、カツカツと靴音が響いた。上部から――目を伏せるクロシェと、口元を歪めて笑うミゼルの姿があった。


「よォ、キース! 思ってたより早かったじゃんか、ひゃはははは……! 俺がよ、お前が来たら素通しするように伝えたんだぜ? 感謝しろよな」

「話をしにきたんじゃない。ミゼル、クロシェを返せ。用はそれだけだ」

「おいおいおいおいおい! 何言ってんだ? 返せ? クロシェちゃんはな、自分の意思でここにいるんだぜ? だってよォ」


 そう言ってミゼルは、懐から一枚の書類を取り出した。何が書いてあるかなぞ読めるはずもない距離だが、それがどんなものかを、キースは知っている。


「正真正銘、これは、婚姻証明書だよ! 俺とクロシェが夫婦であることを証明するもんだ! 一緒にいるのは、当たり前のことだろ?」


 その言葉になにも返すこともなく。変わらず、目を伏せたまま聞いているクロシェの姿が、これが真実であることを告げていた。

 あまりにも馬鹿げていた。どんな口車に乗ればミゼルなどと結婚することになるのだろうか。


「俺とお前は、もう身内だぜ? ……ま、元からそうなんだが。同じ枠組みの、お仲間になっちまった。第七領の汚え商売のことバラしてやろうとも思ったが、お仲間の悪評立てるほど馬鹿じゃねえさ。一枚噛ませろよ。それで全部、上手く収めてやる」

「ふざけるな……! お前みたいな奴を、信用できるわけがない!」

「お兄様」


 今にも消え入りそうな、か細い声だった。ミゼルの隣で立つ彼女は――震えることなく、精一杯の力を振り絞って、平静を保っているかのように見えた。


「私は、自分の意志でここにいます。だから、どうか、第七領へお戻りください」


 自分を捨てて帰ってくれ、と少女は懇願した。彼女は、自らの役割を、知っていたのだ。

 領地交換の後、お互いが裏切らないための担保。クロシェが第六領にいる以上、キースは手出しができない。ミゼルは、身内の恥は晒さない。

 互いが互いを裏切らないための軛。彼女は自ら人質となったのだ。

 第一王子派の王子を見るだけで、体が震え呼吸すらままならなくなる、と打ち明けたあの少女が、こんなものにサインをしてしまった。汚い脅迫に負けてしまったのだ。

 激情のまま怒りをぶつけようとするキースを制止するように、ミゼルはす、と右腕を掲げた。


「王子同士がこうやって面突き合わせてるんだ。言い合うなら【テーブル】で、だろ? やりあおうぜ、キース」

「お兄様、どうか、どうか、私は、いいから……はやく、ここから、逃げて……!」

「……ミゼル!」


 そしてキースも手を掲げ、口上を唱える。どこからともなく輝かしき天秤が現れた。

 ここはエントランス。ミゼルは階段上で、キースはホールで、それぞれ立ち、睨みあっている。座るべき卓などどこにもないが、この場は紛うことなく【テーブル】となったのだ。

 ミゼルとキースの目の前には「2」ずつのマナが据え置かれた。


「婚姻だと、馬鹿なこと言うな。僕の留守を狙って、掠め取った。ただの誘拐と同じだ」

「……とりあえずよォ。挨拶もなしってのは、どういう了見だ? マナー違反、だろうがよォ」

「そんな話、どうでもいい! ミゼル! こんな婚約は、無効だ!」

「マナー違反だろうが、って聞いてんだよ低脳」


 そしてキースのマナが「1」に減る。直後、凄まじい重力が襲いかかった。


「北方魔術【跪け弱者グラビティ・フォール】。反省しろキース。俺様に楯突いた結果、お前は全部奪われるんだよ」


 ミゼルのマナは「1」に減った後、「2」に戻った。彼が発動させた重力は強烈で、キースは顔を上げることすらできない。

 呆れ顔のままミゼルは、無様に突っ伏すキースを見下ろしていた。


「見てらんねえなァ……そんなに義妹が可愛いかよ? おら、そんな無様じゃ話もできねえから、さっさと面上げろ」

「……ぐ、うぁ、う、あ」


 凄まじい重力はまだ続いている。キースは身動きすることすらできず、その場に突っ伏す。

 その様を見下ろしながら、ミゼルはため息を吐いた。


「面上げろって言ってんだよ、なのに無視か? お前これ、マナー違反だろうよ」


 反論すらできない。そしてキースのマナは「0」となり、ミゼルのマナは「3」になった。


「お兄様……!」


 クロシェが思わず声を上げる。それを横目にミゼルがジロリと睨む。

 この【テーブル】に参加しているのはキースとミゼルのみ。傍観者に過ぎないクロシェのマナは天秤に巻き上げられており、魔法での介入はできない仕組みとなっている。

 だから【テーブル】上の傍観者は、こうして声をかけることしかできないのだが、そんな興醒めな行為を厳しく咎められたのだ。

 その冷たい目に、クロシェの胸は激しく脈打ち、呼吸が荒くなってしまう。


「ミゼル、もう一度言うぞ……婚姻は無効だ。クロシェは、連れて帰る」

「……おいおいおい。お前、もしかしてバカなのかァ~? この状況でよく吠えられるな?」


 重力が解けた瞬間、負けじと強い言葉を吐く、が。ミゼルは心底呆れたように嘲笑った。

「【跪け弱者グラビティ・フォール】」


 再び重力が襲い掛かる。キースは為す術もなく、地面に突っ伏す。ミゼルのマナは「2」になる。


「挨拶が無かったことを詫びろ。あと、さっさと汚え面上げろ」


 だが、この重力場では、満足に話すことも、顔を上げることもできない。指摘に対して何の手も打てず、キースのマナは「0」のままだが、ミゼルのマナは「4」に増えた。


「わかるか? 俺の仕掛けに対してお前はなんの反撃もできない。ループさ。【テーブル】で一番避けなきゃいけねえ状態だよ。足りねえ分のマナは、天秤に預けられた第七領全体のマナから徴収する。――キース。てめえの負けだ」


 ミゼルが発動させる重力から身を守る術をキースは持っておらず、重力に囚われた瞬間、挨拶の件と顔を上げない件の、二件分のマナー違反を取られる。永久にマナを搾り取られる養分と成り果てた状態、これをループと呼ぶ。【テーブル】で最も避けねばならぬことだ。

 この状態に陥ってもなお強情な態度を取ると、国が枯れるほどマナを奪われるしかない。なので、本来飲むはずもない不利な条約を交わすはめになる。

 だからキースは、己の敗北を認め、この【テーブル】を早く閉じてもらうよう乞い願うしかないのだ。だが、重力が消えかかったときに、彼が口にしたのは。


「クロシェを、返せ」


 そんな愚かな欲求だけだった。それを見たミゼルは、わなわなと唇を揺らし、大声で笑う。


「ひゃは、ひゃはははは、ひゃははははははははは! おい、おいおいおいおい! こんな、こんな馬鹿だったけ、お前! 言うに事欠いて、それかよ! 嫌だね、バーーーカ! これはもう、俺の女だ!」


 そしてクロシェを強引に抱き寄せると、歪んだ笑みのまま、自身の頭を擦りつけた。まるで、ぬいぐるみでも扱うように、乱暴に。

 それに対して、何もすることができない。ただ無力のまま、地面に膝をつくしかない。

 また、重力が襲い掛かる。


「マナーってのは、弱者が強者に捧げるもんだろ? キース。謝れ。謝って、領地交換も受け入れると約束しろ。そしたら【テーブル】も閉じてやるよ。似合わねえ意地張るんじゃねえ」

「……ミ、ゼ、ル……僕、は」


 肺が潰れるほど圧迫された中で、彼が絞り出した言葉とは。


「絶対に……許さない、ぞ」


 そんな強がりであった。ミゼルは苛立ち、更に魔法を発動させる。


 延々と繰り返される重力魔法、そしてマナー違反の指摘。無限にループするマナ搾取は続き、最終的には――ミゼルのマナの数字は「36」、キースは「0」となった。


「くだらねえ……あまりにもくだらねえ」


 もはや笑うことすらなく。ミゼルは虫けらの如く転がる弟を見ていた。そのとき、クロシェがミゼルに縋る。両目にいっぱいの涙をためて。


「ミゼル様、これから夫婦となるのであれば、どうか、一つだけ私の願いを聞いて、ください。これだけのマナがあれば、十分です。どうか、どうか【テーブル】を閉じて、ください……!」

「はぁ~。……いいぜ、そうしよう。もう飽きたんだ。出涸らしを愛でる趣味はねえ。ここで終いだよ、とっとと帰りやがれ」


 そしてミゼルは腕を掲げ【テーブル】の終了を告げる。キースも、震える手を上げ、それに同意する。神秘的な鐘の音が遠くに響き、顕現していた金の天秤が、霧散していく。


「お兄様……どうして……こんな……」


 床にへたりこみ、双眸から大きな雫を垂らすクロシェは、呆然と呟くしかなかった。

 あまりに圧倒的な敗北であった。為す術もなく、見たことがないほどに、マナを奪われた。仮に領地交換を避けたとしても、今後第七領の運営を続けるのは不可能と言ってもいいだろう。

 ミゼルはへたり込むクロシェの腕を強引に掴み、館の奥へと戻っていく。一人、ホールに取り残されたキースは、そこからしばらく立つこともできず、這いつくばっていた。

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