第4話

 いよいよ文化祭が翌日に迫った。今日は授業も午前中で終わり、教室ではお化け屋敷の準備が進んでいる。


「佐原さん、赤、取ってくれる?」

「あ、はい」

 野宮くんに言われ、私の近くに置いてあった赤い絵の具のチューブを渡す。

「香織、うちらこっちから黒塗っちゃおうか」

 有紀ちゃんが筆を渡してくれた。大きなダンボールをはさんで野宮くんと反対側に回る。

 教室の前に置くお化け屋敷の看板作り。有紀ちゃんはこういうのを作るのが前から得意だけど、野宮くんも好きな科目は美術らしい。二人とも絵を描きたかったようで、係り決めのときに有紀ちゃんについていったら、野宮くんとも一緒になってしまった。

 野宮くんが赤い絵の具をつけた太い筆を動かす。

「あっ野宮すごーい、字、上手だね」

 文字が乾いたら、ほかの色の絵の具や色鉛筆で輪郭や影をつけてみたり。

「俺、中学のとき美術部だったんだよ」

「ああ、前言ってたね」

「絵とか音楽とか、ゲージュツ的なもの好きなんだよね」

 そうなんだ。知らなかった。意外だ。ふたりの会話を聞きながら、私はひたすら黒を塗る。ダンボールの茶色を塗りつぶす。黒く、黒く。

「あっ香織、そこ赤だよ、赤!」

「え?」あわてて筆を置いた。その下にもべっとり黒がついて、野宮くんがあーっ、って声を上げる。

「そこも、赤で塗る場所……」

「あ……ごめん」

 顔を上げたら、有紀ちゃん、笑ってた。野宮くんも笑っていた。

「いいよ、俺直すよ。ちょっと筆かして」

 野宮くんが器用に筆を運ぶのを、私と有紀ちゃんは感心して見ていた。

 野宮くん、楽しそう。かっこいいね。やさしいね、頼りになるね。

 私はそう思っていた。たぶん、有紀ちゃんも同じように思っていたんじゃないかと、あとになって思う。


「なあ、腹減った。誰かコンビニ行かねー?」


 別のグループで校内に貼るポスターを作っていた数人のなかのひとり、タクくんが、くたびれた顔をして立ち上がる。その言葉に、私たちは顔を見合わせる。もう夕方で、確かにみんなおなかが空いてくる時間だ。

「何か食いたい」と、野宮くんが言った。「タク、ポテチ買ってきてよ」

「野宮、そんなこと言わないでさ。一緒に行こうぜ」

「えー、どうしよっかな」

 たぶん有紀ちゃんと一緒にいたいんだろうな、なんて思っていたら、

「あたし、行こうか」

 ……そういって、有紀ちゃんが立ち上がった。

「おっ、やった、一人はさびしいもんな」

「野宮ポテチね、あとは……」

「あ、ガムテープもついでに買ってきてー」

「おっけー」

 有紀ちゃんがタクくんと一緒に、教室にいるみんなに必要なものを聞いて回る。野宮くんは黙って二人の様子を見ていたけど、二人が教室を出て行くというときになって、有紀ちゃんに声をかけた。

「やっぱり、俺も行こうか」

 有紀ちゃんは、笑って、

「いーよ、そんなに買うもの多くないし。野宮は香織と看板すすめててよ」

 って、タクくんと教室を出て行った。


「俺、わかりやすい、かな」

 作業に戻って数分がしたころ、ぽつりと野宮くんが言った。一緒に看板に向かってる私にしか聞こえないような声で。

「え? そんなこと……」

「あるでしょ」って、苦笑いしている。

「たぶん、もう気づかれてんだろうなあ」

 野宮くんの気持ちを? 有紀ちゃんは、気づいているのだろうか。

 野宮くんと有紀ちゃん、頻繁にメールするらしい。一緒に帰ったり、ふたりで勉強したりも何度かしているらしい。

 けど、それらはぜんぶ野宮くんから聞いたことで、有紀ちゃんが野宮くんのことをどう思っているのかなんて、私は知らない。

「そういう……ところ」

「ん?」

「わかりやすい、ていうか……まっすぐなとこ。いいと思う、よ」

 野宮くんはきょとんとした顔をしていたけど、すぐに「ありがと」って笑った。

 いいと思う、どころじゃない。フォローするところじゃない、そこが、そういうところこそが、野宮くんの魅力だと思うよ。そういうところを好きな女の子が、確実に一人いるんだよ。口が裂けても言えないけれど。

 20分くらいで、野宮くんと二人で看板を完成させた。二人で教室の前の廊下の壁に看板を設置していると、有紀ちゃんとタクくんが廊下の向こうのほうに見えた。

「あ、あいつら、帰ってきた」

 野宮くんが椅子を降り、画鋲を置いて手を振った、その顔は有紀ちゃんを見つけてうれしそうだった。

 有紀ちゃんが教室のなかで食べ物や追加の材料を配っているとき、野宮くんがタクくんの背中をどついてた。ふざけてちょっと怒った顔をしてみせる。手を合わせて謝るしぐさをするタクくんも、野宮くんの気持ち知ってるのかも。

 有紀ちゃんは……

 私は有紀ちゃんの気持ちを知らない。有紀ちゃんも私の気持ちを知らない。

 野宮くんにポテトチップスの袋を渡す有紀ちゃんの笑顔を見ても、受け取る野宮くんの笑顔を見るようには、有紀ちゃんが目の前の人に対してどんな思いでいるのかはわからなかった。




『明日誘ったけど、断られたよ』


 ――そんなメールが、夜に私の元に届いた。野宮くんからだ。

 文化祭、有紀ちゃんと一緒に校内の出し物をまわりたいって、前々から言っていた。そして最後のフィナーレで告白したいと。

『どうして?』

 深く考えずに、指が速く文字を打ち、送信した。

 その返信が、野宮くんにしては遅いな、と思い始めたころにようやく返ってきた。

『友達とまわるって』

 ……友達。野宮くんが名前を出さないその友達というのが誰であるかということは、容易に想像がついた。野宮くんが私にメールを送ってきた理由も、おそらく。

 メールの画面を閉じ、電話帳を開く。有紀ちゃんの名前を探す、意識はしていなかったけど、できるだけゆっくりと。けど、その番号を見つけてからは早かった。発信のボタンを押す。迷ったらもう電話なんてできないと思った。

『……もしもし?』

 すぐに、向こうから有紀ちゃんの声がした。「もしもし、」と言ったが、小さい声しか出ない。

『香織?どうしたの』

 有紀ちゃんって、こんな声だったっけ。……そう考えて、私は今まで一度も有紀ちゃんと電話なんかしたことなかったことに気づいた。

「あのね、明日のことで……」

『明日?ああ』

 ――協力してほしいんだ。野宮くんの声が、頭の中で聞こえる。彼の名前を言おうとする。

『香織、明日一緒にいろいろ見に行こうね。お化け屋敷の係のシフトもかぶってたよね』

 楽しみだよね、って電話の向こうで有紀ちゃんが笑っている。私はそれには応えずに、「野宮くんに誘われたんでしょう」と、言った。

『……野宮?』

「野宮くんと一緒に楽しんできなよ」

『でもあたし、料理部のお店の当番もあるし。それに、香織は』

「料理部のほう、あたしが手伝うよ。ほかのクラスの子とまわる約束もしてるから――」

 有紀ちゃんは何も言わなかった。私がなぜ野宮くんとのことを知っているのか聞いてこなかった、自分が誰と一緒に文化祭を過ごしたいと思っているのか、もっと突き詰めれば彼のことを好きなのか嫌いなのか、本当の気持ちも口にしなかった。

 沈黙に耐えかねた。有紀ちゃんが黙りこくってしまうことなど、しかも私に対してなんて、今まであっただろうか?

「じゃあ、また明日」とだけ言って、かけたときと同じように、迷う前に電話を切った。

 ふう、と息を吐く。涙目になってるのに気づいた。

 がんばった。がんばったじゃない、私。

 ”協力する”って言ったんだもん。今まで何も野宮くんの力になれずにいたんだもん……だから。


 しばらくして、たぶん有紀ちゃんが野宮くんと連絡を取っていたであろう時間をはさんで、有紀ちゃんからメールが送られてきた。『ごめんね』と。

 ――”ありがとう”じゃない。もう、わかっているのに、有紀ちゃんは言ってくれない。私は画面を見つめて自嘲した。


 けれど、有紀ちゃんも、私も、同じだ。

 私に料理ができただろうか。ほかのクラスに親しい友達なんていただろうか。もしかしたら私の想いさえも。

 そんなの、”親友”であるはずの有紀ちゃんが、誰よりも、いちばんよくわかっていることなのだ。

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