第3話
寝る前に、ベッドの上に寝っ転がって携帯の画面を眺めていた。
あの日以来、野宮くんからちょこちょことメールが届くようになった。内容はとても些細なことで、初めのうちは『数学のテストの範囲って教科書の何ページからだっけ』とか、最近になると『今テレビ見てた?』とか、そんな”普通の”メールだった。いきなり恋愛の相談なんかを持ちかけられるんじゃないかと思っていた私は、それに安心して、そして嬉しかった。私のことを、一人の友人としても必要としてくれているのかもしれない。有紀ちゃんのことが好きな野宮くんに、それ以上は望まない。だけどそれ以下にもならずにいることができるのかもしれないって。
「…20、通」
一日に三往復程度で終わってしまうメールのやりとりが、数日の積み重ねで溜まっていく。野宮くんの携帯にも、同じ分だけ私からのメールが残ってる。ピッ、ピッ、……無意識のうちに指を動かして、画面を見てびっくりした。野宮くんからのメールのいくつかに、保護のマークがついていた。その近くに、有紀ちゃんからのメールを見つけて、ひとりで苦笑した。
保護を解除する。ついでにメールごと消してしまうことも一瞬考えたけど、さすがにそれはできなかった。私にとっての野宮くんも、一人の友人以下の存在にはしたくなかった。
文化祭まで二週間になったある日の放課後。私と有紀ちゃんは、教室にいた。
「もーすぐだねぇ、文化祭」
夏服の袖をまくり、風の入る窓際の席に座って、有紀ちゃんが言う。窓の外から、ちょっと気の早い蝉たちの鳴き声が聞こえてくる。
「どうしよっかなー……今日の打ち合わせ、行きたくないなー」
「料理部の? 今忙しいでしょ」
「そう、このあいだやっとお菓子のメニューが決まってさ。今日も試作なんだけど……」
行きたくない、と言って、有紀ちゃんはうちわでぱたぱたと顔をあおいだ。
料理部は、部員のほとんどが女子だ。女の子ばっかりの中にいたら、ちょっとしたゴタゴタとか、人間関係がうまくいかないこともあるだろう。特に、有紀ちゃんみたいな、”女の子らしい”女の子たちがいっぱいいたら。
容易に想像はついた。でも有紀ちゃんは愚痴とか悩みとか、ほとんど言わない。聞いたことない。……私には、言わない。
「ねえ、香織はさ、ほんとに好きな人いないの?」
突然そう聞かれたから、固まった。どうしよう、なんて言おう、って一瞬考えて、有紀ちゃんのほうを見る。
「……そういうひとは、いない」
いつだったかと同じように、そう言った。
”野宮くん”――そう言えたらいい、堂々と言えるような恋ができたらよかったけれども、野宮くんだけは、この場面で名前を言っちゃいけない。絶対に。
「そっか」
有紀ちゃんは、それしか言わない。私の中に、疑問が浮かんだ。
「有紀ちゃんは?」
ちょっとの沈黙のあと、「あたしは、別に」と笑う。
「そう、なの?」
「うん」
”野宮くんは?”って聞きそうになった。ぎりぎりのところで、飲み込んだ。
「てかねー、料理部の子たちが、みんな恋しててさ」
「あ、そうなんだ」
「クッキーとか作りながらね、いつもそんな話してるの。文化祭で告白しようかなーとか……」
「うんうん」
「そういう恋してるかわいー子たち見てると、なんかね、萎える!」
笑ったあと、「うちのクラスの奴好きな子もいてさー」と、付け足した。
「え、そうなの? 誰?」
それは単なる好奇心と、咄嗟に何気なく出た言葉だったけれど、言った瞬間にぎくりとした。
「……タクとか。そのへん」
「ああ、タクくんたちかっこいいもんね」
「そうそう」
”とか”や”そのへん”や”たち”に、タクくんじゃなくて野宮くんが含まれている、と私は思った。それは私が野宮くんを特別な人として見ているから……?
チャイムが鳴った。時計を見ると、5時。
「あー……そろそろ、行こうかな」
打ち合わせ行きたくない、って言いながら、部活が始まる時間を過ぎても教室にずるずると残っていたのは、本心から行きたくないって思ってるわけじゃなかったからだ。
「うん、行ってきなよ。お菓子楽しみにしてるねっ」
「ほんとー? 文化祭のときちゃんと買ってよね」
「もちろん買うよ!」
手を振って、立ち上がった有紀ちゃんを見送った。
有紀ちゃんは……好きな人、いないんだよね?
私は……
ほんの数分後、有紀ちゃんが出て行ったドアを何気なく見たら、そこに、野宮くんの姿があった。
幻覚……?
「あぁ、佐原さん」
幻覚じゃなかった。幻覚を見るほどほれ込んではいないのか、と安心する。
「野宮くん、学校残ってたの……?」
「あー、各クラスの文化祭の係の集まりで」
「そっか、そうなんだ」
野宮くんは少し教室を見まわして、
「佐原さん、一人……?」
「いや、ひとりじゃ、ないよ……」
「一人じゃんか!」
面白そうに笑って、野宮くんがこっちの席にやってくる。隣の席に――さっきまで有紀ちゃんがいたところに、座った。
「あのね、有紀ちゃんといたの」
「有紀?」
「うん。さっきまでいたんだけどね、料理部のほうに行っちゃった」
「あー、まじか」
ザンネン、と言って、苦笑した。目を細めて照れくさそうに、だけど有紀ちゃんの名前を聞いただけで嬉しそうな顔をする彼を見て、ああ恋してるんだな、って思った。
「どんな話、してたの?」
「有紀ちゃんと?」
「うん。その……恋バナとか、すんの?」
「え……んー……」
さっきみたいなのは、恋バナっていうのかな。いつもいつも、ちゃんとした恋の話になる前に終わってしまう。
「ねぇ、あいつってさ、」
「有紀ちゃんは、好きな人はいないって!」
声に力が入ってしまった。言葉を遮られた野宮くんは、少し驚いた顔をしていた。
「……そっ、か」
「うん」
「聞いてくれたんだ。ありがとう」
「うん……」
別に、野宮くんのためじゃないのに。私が知って安心したかっただけなのに。
有紀ちゃんが他の人のことを好きだと言ったら、私はたぶん、野宮くんの役に立てないことを悲しむと同時に、野宮くんの恋が叶わないことを喜んだだろう。
「佐原さんは?」
沈黙のあと、野宮くんが突然聞く。
固まった。さっきと同じだ。
「え……えっと、」
さっきみたいに……有紀ちゃんと喋っていた時みたいに、すぐに否定すればよかったのに。野宮くんは、動揺した私を見て、笑った。その笑顔を見てますますパニックになった。
「好きな人、いるんだ」
「え!? い、いないよ……」
「いるんだー。わかりやすいな」
「いないもん、そんな人……」
「はは、だって、佐原さん、顔真っ赤――」
「っ、好きな人なんて、いないもん!!」
ようやく、だけど不自然にでかい声で思い切り否定して、はっと気づいて野宮くんの顔を見たら、彼はもう笑ってなかった。
「そんな……全力で否定しなくても、いいのに」
ぽつりと聞こえたその声に、私は何も言えなかった。
それはたぶん正しい。せっかく持ってるこの気持ちを、全力で否定する必要なんてないのに。
「……ごめん」
「……いや、私のほうこそ……」
ごめんね、そう言って、悲しくなった。
なんでこんなに卑屈なんだろう? なんで自信を持って好きな人がいるって言えないんだろう? 好きな人に好きな人がいるからとか、きっとそういう理由じゃない。
「でも、俺さ、佐原さんのことも応援したいから」
野宮くんのまっすぐな目が、嬉しくて、痛かった。
「俺が……有紀とうまくいったら、さ。次は佐原さんに、俺が協力する」
野宮くんが笑って、それに返した私の笑みも、”うれしい”とか”ありがとう”とか、そういう風に受け取ってもらえただろうか?
「……どんな人なの?」
私の好きな人が、私の好きな人について訪ねてくる。
「……、かっこいい、よ」
「はは、そっかー」
野宮くんの顔を見て、思った。
たぶん私も、”恋してんなぁ”って、思われているだろう。
「女の子にかっこいって思われたら、男としては、嬉しくないはずないからね。そいつもきっと、喜んでるよ! 自信持て!」
「……うん。ありがとう」
野宮くんは、やさしい。
野宮くんは、まっすぐだ。
そのせいで私は苦しくなって、
だけど、
「……料理部ね、6時までには終わるって言ってたよ」
「え?」野宮くんは一瞬きょとんとした顔をした。「まじで?」
「うん。一緒に帰りなよ。有紀ちゃんも……野宮くんと一緒に帰ったら嬉しいと思う!」
時計を見上げた。もうすぐ、6時だ。
野宮くんが、ぱっと立ちあがる。ためらいはない。
「俺、誘ってみる! 先に玄関行って待ってよ」
「うん。がんばって」
「おう、ありがとう!」
教室を出て行く時、振り返って野宮くんは言う。
「佐原さんも、気をつけて帰ってな。だいぶ明るくなったけど、もう夕方だし……」
「……うん。ありがとうね」
「じゃあな」
「バイバイ」
そうして、さっき有紀ちゃんを見送ったときと同じように、野宮くんを見送った。
机に伏せて、窓の外、玄関のほうが見えないように、目を閉じた。私が野宮くんに近づけば近づくほど、好きになればなるほど、野宮くんは有紀ちゃんに近づいていく。好きになっていく。そう思った。これからも、そうな気がした。
悲しい。泣かない。せっかくの初めてのこの気持ちは消さない。二人に迷惑のかからない範囲で、私は野宮くんを好きでいよう。
いつかこの気持ちに区切りをつけるのならば、伝えるのか封印するのか、どんな形でかはわからないけれど、野宮くんと有紀ちゃんが付き合って、二人が両想いになったときにこそ。
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