第2話

「みんな、聞いてくださーい!」


 帰りのホームルーム終了後、教壇の上に野宮くんが立つ。それまでお喋りをしていたみんなは少しずつ静かになり、帰ろうとしてた子たちも一旦席に着く。

 ざわめきも野宮くんが声を張り上げなくても全員に聞こえるくらいの大きさになった。まだ何も言っていないのに、思わず野宮くんに見とれてしまった。

 彼にはそういう力がある。みんなを惹きつけて、完璧じゃないとしても、自然にまとめていけるような。


「みんな知ってるとおり、来月の頭に文化祭があります。

 あと1ヶ月しかないんで、そろそろうちのクラスの出し物決めたいと思うんだけど……何かいい案ない?」


 また、教室の中が大きくざわつく。野宮くんはちょっと困った顔をしたけど、「ちょっと考えてください」と言って、教卓の横にある椅子に座った。

「ねぇ香織ー、なにがいいかな」

 私の前の席の有紀ちゃんが、こっちを向いた。

「うーん……何がいいかな?」

「何か楽しいことしたいよね」

「楽しいことか……お化け屋敷? ありきたりかな?」

「あーいいかも! あたしお化け屋敷好き!客としてだけどー」

 ていうか、野宮って文化祭の係だったんだねー、と、有紀ちゃんが野宮くんのほうを見た。

 野宮くんは、椅子にもたれて腕を組んで座り、みんなの様子を眺めている。

 知らず知らずのうちに、私は彼の顔を見つめてしまっていた。たぶん自分でも何か案を考えてる顔とか、前の席の男子に声を掛けられてちょっと笑ってる顔とか……野宮くんが立ち上がったから、ちょっと慌てて視線を外した。

「よっし、みんななにか意見あるー?」

 みんなは野宮くんのほうを見るけれど、誰も何も言わない。

「タク。何かない?」

 さっき野宮くんを笑わせてた男子が当てられた。

「えー? 俺!?」

「そう、おまえ」

「考え中でーす」

「なんだよ、その小学生みたいな答え! ちょっと立ってて、あとでまた聞くから」

 タクくんが立ち上がると、クスクス小さな笑いが起きる。ほんとに小学生みたいじゃん、って。

「えっと、じゃあ……次は誰に言ってもらおうかな」

 野宮くんが、周りを見回す。みんなは彼と目を合わせないように下を見ている。

 私は、……野宮くんの顔を、また見ていた。じっと見ていた。

 それで当然、目が合った。


「佐原さん」

「えっ」

 目が合って、名前呼ばれて、しまったって思った。ずっと見ていたって気付かれたかもしれない。

「えっと……、特になにもない、です」

「そう? そっか。じゃあ……」

「おい野宮、佐原さんは立たせないの?」

 タクくんが言う。私はびっくりして野宮くんを見た。

「タクうるせーよ、女子に何言ってんだよ! 佐原さん気にしないで」

 でも、野宮くんはそう言って笑っている。私を見て、苦笑いって感じじゃなく、微笑んでくれた。

 やさしい。あたしなんかにも顔を見て笑ってくれる。

「じゃあ次、……有紀っ」

「ん?」

 頬杖をついてぼーっとしていたらしい有紀ちゃんは、当てられて顔を上げた。しばらく考えたあとに、口を開く。

「じゃー、お化け屋敷」

「おお、お化け屋敷ね。いいじゃん」

 野宮くんが黒板に”おばけやしき”と書く。

「だれか、他には?」

 やっぱり誰も何も言わない。みんなが、今度は私も、不自然に目を反らした。だけど、見ていなくても野宮くんは笑った顔をしてるのがわかったような気がした。

「じゃー、タク。何か思いついた?」

「……お化け屋敷でいいんじゃね?」

「お化け屋敷にするか」

「みんな、お化け屋敷でいい?」

 タクくんの声に、いーよー、ってみんなが答える。話し合いがわりとすぐに、自分に当てられることなく終わって、みんなほっとした顔をしている。

「よし、じゃあ今日はこれで終わり! お化け屋敷頑張りましょう!」

 みんながやれやれ、という風に立ち上がる。カバンを持って教室を飛び出していった人もいる。

 野宮くんが、こっちにやってきた。

「有紀、ありがとーな。おかげで早く終わったよ」

「あはは、いいよ!」

 最初にお化け屋敷って言ったの香織だから、と言って、有紀ちゃんがこっちを見た。

野宮くんに笑顔でこっちを向かれて慌てた。

「まじで? 佐原さんありがとう! 助かった」

「えっ、いや、そんなこと、ないよ」

 野宮くんに話しかけられること、ありがとうって言われること、なんだかとても慣れない感じで、だけど嬉しくて、でも目の前で談笑している野宮くんと有紀ちゃんを見ていると妙な気持ちで、

 不思議なんだけれど、……野宮くんが有紀ちゃんを”有紀”って呼んでいることに気付いたことは、なんだかとても寂しかった。




 翌日の放課後、私はひとりで教室を後にしていた。

 いつもは有紀ちゃんと帰るんだけど、有紀ちゃんは料理部に入っていて、今日は文化祭で販売するお菓子について話し合いと試作の会があるらしい。

 2階から階段を降り、夏に近づきかけた風が流れている廊下を歩き、昇降口まで行って、靴を履き替えているときに、声を掛けられた。


「佐原さん?」


 男の子の声で突然名前を呼ばれて、驚いた。振り向いてさらに驚いて固まった。

 野宮くんが、私の後ろに立っていた。上履きを脱いだ。外履きのスニーカーを、履いた。

 声を出せないまま、顔が火照っていくのがわかった。

 どうしよう。いや、今までどおりでいい、挨拶、しなきゃ。


「……ばいば、」

「あのさ、話があるんだけど」

「……え」

 私に言われたんじゃないと思った。まさか、って。

 でも見回しても周りには私たち以外の人はいなくて、いやそんなことよりももっと確かなことに、――野宮くんは私の顔をまっすぐに見ていた。


「誰かと帰る約束、してた?」

「あ、ううん、べつに」首を振る。

「じゃあ、一緒に帰ろーぜ」


 私の目の前、ほんの数十センチのところで彼がにっこりと笑った。

 そしてすぐに目線を反らし、はにかんで……一緒に帰ろうというその言葉を普通に受け入れかけたけど、一瞬の後に彼の声から感じる雰囲気に、その意味に気付いて、頭の奥がくらりとした。

 うっすらと汗ばんで見える彼の顔、たぶん私の顔も。それは夏の始まりの夕方、気温のせいだけではないはずで。


「……話って、なに?」


 先に昇降口を出ようと歩き出しかけてた野宮くんの後ろで、私はまだ上履きのまま動けないでいた。

 振り向いた野宮くんが何か言う前に、早口で喋った。

「あたし、先生の所に用があったの、忘れてた。ごめんね、だから一緒に帰れない」

「ああ、……そっか。じゃあ……」

 じゃあ今。今、言うんだ。聞くんだ。

 鼓動が早くなる。それを伝える音が耳の中で響いてうるさい、痛いくらいに。


「俺、好きな人がいるんだ」

 その言葉は、ある程度予想していた通りで、

「てか……同じクラスなんだけど」

 そして、私は、

「もうすぐ文化祭だし、告白したい、から、」

 私は、ある程度ではあったけれど――


「――佐原さんに協力して欲しいんだ」


 ――期待もしていたのかもしれない。

 だって、その言葉を聞いた瞬間の衝撃は、とても大きなものだった。


「……、きょうりょく、」

 うまく頭が回らず、小さく反復した。

「有紀のことが好きなんだ。だから佐原さんに協力してほしい」

 さっきまで赤すぎるほど赤かった自分の顔の熱が、さっと引いていくのがわかった。顔色も、赤どころか、白に近いほどになっていたかもしれない。

 ゆきちゃん。今度は声には出さなかったけれど、また頭の中で反復した。野宮くんは、ゆきちゃんのことが、すき……。

「いいよ」

 その言葉を言うまで、笑顔を作るまでの私の顔は、どんな風になっていたんだろう。

「ありがとう!」

 野宮くんはそう言って本当に嬉しそうに笑う。その顔がちゃんと見れないのは、たぶん眩しいからだけじゃない。

「佐原さん、有紀と仲いいよね。いろいろアドバイスしてくれる?」

「うん、もちろん。うまくいくといいね」

「ほんとにありがとうな。……あ、メールで相談してもいいかな」

 野宮くんが携帯を取り出した。アドレスを交換する。決定ボタンを押して、野宮くんのアドレスが私の携帯に刻まれた。

 嬉しいはずなのに。飛び上がって喜ぶほど嬉しいはずなのに、……野宮くんも喜んでくれているけれど、それは私のメールアドレスを手に入れたからじゃないんだ。

「そういえば、ここだったなー。有紀に一目ぼれしたの」

 携帯をしまって、野宮くんが昇降口を見回して言う。

「入学式の次の日あたりだったかな。この靴棚のとこでさ、初めて話したとき。

 俺ね、こう見えても結構人見知りするんだけどさ、有紀がおはようって言ってくれたとき、すげえいい顔だなあと思ったの。

 よろしくっていってくれたの。……それがね、嬉しかった!」


「そうなんだ」としか、言葉が思いつかなかった。聞かなきゃよかったと思った。


「……ごめん、先生待ってるから……!」


 それだけ言うと、私は早足で廊下を職員室のほうへ歩き出した。

「バイバイ」と、後ろから野宮くんの声が聞こえた。いつもみたいに挨拶を返せなかった。早足で、とにかく早く野宮くんから遠ざかりたくて、角を曲がってから走り出す。

 職員室の前なんて、すごい勢いで通り過ぎた。脇の階段を駆け上り、また廊下を走って教室へたどり着く。

 誰もいない教室に飛び込んで、自分の席に座って息を整えている間に、自分が涙を浮かべているのに気付いた。


「ばかだなあ……」

 青白かったであろう私の顔が、さっきとは別の感情で赤に染まっていく。

 私はさっき、野宮くんの言葉に、何を期待したんだろう?

 もしかしたら――私にとって特別な存在になりかけてる人が私のことも特別に感じているかも、って思っていたのかもしれない。

 自惚れた。そんなわけ、なかった。わかっていたはずなのに。野宮くんにとって私は、有紀ちゃんの友達でしかない。そんな存在にはなり得ない。

 そして、私にとって特別な存在になりかけていた野宮くんは、確かに特別な存在になった。皮肉なことに――今日、たった今、ようやく気付いたから。


 私は野宮くんと同じだ。きっと私も、あの日の朝野宮くんにひとめぼれしていたんだ。かっこいい、やさしい、憧れる惹かれる、それだけじゃなくて、私は野宮くんが好きなんだ。野宮くんが有紀ちゃんを好きなのと同じように。

 たとえ野宮くんが、あの朝有紀ちゃんの後ろにいた、もうひとり挨拶を交わした女の子のことを覚えていないとしても。


 廊下から甘い香りが漂ってきていた。料理部が、家庭科室で文化祭のためのお菓子を試作しているんだろう。


『用事あったのに引きとめちゃってごめんな。これからよろしく』


 絵文字のないシンプルなメールが、私の携帯を震わす。

 私に対する彼の気持ち――その気遣いが、”よろしく”の意味が、ほんの一滴、画面の文字を滲ませた。

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