『あたりまえ』
お小遣いを渡され、お昼もどこかで食べてきなさいと言われたこともあり、健太郎は完全に行き場を喪失してしまう。とりあえず大村に行くしかない、と自転車をこぎ出そうとしたのだが、そういえば逆方向って言ったことがなかったな、と時間もあるので行ったことのない方へ漕ぎだした。ほどなくすると――
「小港海岸、か。行ってみるか」
自転車を止めて、緑生い茂るトンネルを潜り抜ける。すっかり足に馴染んだ島民御用達のギョサンと足の間に白い砂が入り込んでくる。きめ細かなそれは踏みつけるたびに心地よい感触を生み出し、どうにも歩くことが楽しく感じてしまう。
緑のトンネルを抜けるとそこには――
「おー」
白い砂浜、真っ青な海、こんなにも美しい場所なのに人っ子一人いない広い海岸があった。父島の海と言うことで相変わらずの美しさであるが、誰もいない空間と言うのは珍しい。大村の方は観光地としてそれなりに栄えており、どの時間でも誰かはいる。それに比べてここ小港海岸には時間帯のせいか、それとも時期のせいか、誰一人おらずこの景色全てが健太郎の独り占め、という感じなのだ。
「なんか、悪くないな、こーいうの」
砂浜で転がろうが、着の身着のまま海に入ろうが、誰に咎められることもない。外であり、公共の場であり、されどプライベートな心地よい矛盾。
「…………」
とりあえず健太郎は海に入ってみる。季節は九月半ば、もう内地では海に入っているのはウェットスーツを着たサーファーぐらいのものだろう。
ひとしきり浅瀬で泳いでみたり、でんぐり返ししてみたり、誰も見ていないのをいいことに奇行を繰り返した後、健太郎はぼーっと砂浜の上で体育座りをしていた。
暇である。聞こえるのは波の音だけ。寄せては返し、寄せては返し――
「あー」
などと、わけのわからない声を出してみたり、一人きりを満喫する。
「……やばいな、これ、癖になりそう」
青柳健太郎はお尻を払って立ち上がった。さすが小笠原の日差し、海に入って濡れたシャツなどはすでに乾きそうな気配を見せている。どうにも変なスイッチが入った健太郎はこれを機に父島を攻略してやろう、と鼻息を荒くする。
目指せ、父島一周。
「も、もう、無理ぃ」
しかし、その思惑は数分の内に砕かれる。
そもそも小港海岸でさえかなりのアップダウンがあったのに、島の反対側へ回り込もうなどあまりにも無謀な試みであったのだ。
完全に山、ここを走破するにはママチャリでは分が悪い、と心の中で言い訳しながら、登った分シャーっと駆け下りていく。
下りの風の何と心地よいことか――
「さて……とりあえず、適当に時間潰そっと」
結局、扇浦周辺から知らない場所を目指そうとするとどうやっても坂、と言うよりも山にぶち当たってしまうことが判明し、健太郎はしずしずと大村の方を目指す。
こうやって周りをきょろきょろしながら移動するのは、もしかしたら初めてかもしれないと思いながら自転車をこぐ健太郎。思えば最初はきつかったちょっとしたアップダウンも、買い物やライブに向かうために自転車を乗りまくっていたことで、何も感じなくなった。
今となってはそこそこの距離がある扇浦、大村間など屁でもない。
「ふむ、境浦海岸か……そういえばあれ、気にはなっていたんだよね」
健太郎は自転車を止めて、海岸に向かう。
道中、嫌でも目に入っていた海の中に沈む錆びた塊。何かの残骸かな、とは思っていたが今日の日まで特に気にも留めていなかった。
そんなものを眺めながら、何の意図かわからないが海に向かってこげるブランコの上でのんびり身体を揺らす健太郎。なんだこのブランコ、と思う前に体が勝手にブランコをこいでいた。ブランコ自体、おそらく小学生ぶりであろう。
「あー」
ぼけーっとブランコで体を揺らしながら、スマホで境浦海岸、錆び、と頭の悪い検索をする。そんなワードでもきっちり答えに辿り着いてくれるのがインターネットの素晴らしい所。
「濱江丸、太平洋戦争で、撃沈。そうか、あれも、戦跡なんだ」
山歩きで見たあの景色と同じもの。そう思うと何だか同じ景色であるはずなのに、見え方が違ってくる。もう、船の原形すらほとんど残っていない。錆に塗れ、自然と調和しつつある。きっとあの下では魚たちが巣として活用しているのだろう。岩礁と同じように。
こういう景色を見ると、何とも言えぬ想いが渦巻くのだ。
自らが経験したわけでもないものであっても、遺されたモノの物語があるから。
健太郎はしばらくそれをじっと眺めた後、無言で旅に戻る。
○
青柳健太郎は今、充足の極みにいた。
さて、昼食はどこで食べようか、と色々探したのだが弁当屋は見つかれど飲食店はあまり見当たらない。マイマイ曰く小笠原のメインストリートと称された場所にはクローズドの看板がかけられており、飲み屋なので夜からね、という主張が強かった。
そんな中、ようやく入り込んだその店は一見して普通の定食屋さん、町の食堂みたいな雰囲気だった。さほど期待せずに入り、とりあえずおすすめの丼ものを注文したのだが――
「なんてこった」
思った以上にパンチの効いた味付け、淡白な身質である南国の魚を美味しく食すために加えられたひと工夫、ごま油がにくい。その暴力的なまでの味わいに、健太郎は久方ぶりにジャンキーなものを食べられた、と満足げな表情を浮かべていた。
そうして今に至るのだが――
「あれ、健太郎?」
充足感に包まれながら地べたに座り込み、天を仰ぐ一人ぼっちの少年に声をかけてくる奇特な者がいた。まあ、マイマイなのだが。
「あれ、マイマイの知り合い?」
「地べたに座ってアイス頬張ってるぞ」
「俺らと同じくらい? 何で学校行ってないの?」
「大学生だろ。たぶん。まだ夏休みだし」
「マイマイに大学生の知り合いがいるのか⁉ しかも男の⁉ ダメだろ、内地の大学生なんて全員ヤリ○ンだって前兄ちゃんが言ってたし」
体操服姿の高校生たちが健太郎に反応したマイマイを見て騒然としていた。少し離れたところでげんなりとした表情の初音もいたが、面倒くさそうなので絡む気はなさそうである。
「ふぁにふぃふぇんふぉ?」
「な、なんて言ったの?」
「んぐ、ぶは、欲張って頬張り過ぎた。何してんの、そんな恰好で」
「うん、それね、実はあたしのセリフだと思うんだ」
「僕は一人旅」
「……その結果、アイスを片手に、2Lのペットボトルでお茶を飲んでいるんだ」
「うん。長旅で喉が渇いちゃって、小さいサイズじゃ足りないと思ってさ」
「そっかぁ」
「マイマイたちは、これ、体育?」
「そ、学校の外をえっちらおっちら走ってる」
「ふーん、大変だね」
「健太郎、だんだんニートが板についてきちゃったね」
「我ながら、どうやらのんびりする才能があったみたいなんだ。今日、凄く楽しんでいる自分がいて、驚いている。自分探しの旅は成功だと思うんだけど、どうかな?」
「……頭、大丈夫?」
「……そんな変なこと言ってる、僕」
「だいぶ変だと思う」
「そっかぁ」
マイマイですら若干引き気味のおひとり様モードの健太郎。「ま、またあとでね」と言って走り去っていったマイマイと、クラスメイト達を尻目に健太郎はごくごく茶をしばく。この男、図太過ぎる。
「…………」
終始我関せずの姿勢を取っていた初音が賢かった。
今の健太郎の脱力っぷりを止められる者はいない。
○
健太郎はぼーっと建物の上で入港風景を見つめていた。ぞろぞろと観光客や島民と思しき人たちが船から降りてくる。燦燦と照り付ける太陽を見て微笑む人、健太郎と同じように地に足がついたことで安堵し笑みをこぼす人、様々である。
降りてきて、各々宿の人たちと合流したりして、少しずつ人垣が消えていく。
健太郎は人の流れから、次はモノの流れに視線を移した。船に積まれたコンテナが続々と降ろされ、待ち切れないとばかりに業者がコンテナから軽トラなどに荷物を積み込んでいく。あれがきっと商店に並ぶのだろう、と健太郎は予想した。
とにかく流れが早い。皆、てきぱきと動いている。コンテナのやりくりをする大きなフォークリフトなど岸壁を行ったり来たりでとても忙しそうである。
「……大変そうだなぁ」
重たそうなダンボールを軽々と運び凄まじい速さで荷台に積み上げ、満載になったらすぐさま出発し、また列に並ぶ。二千人分の食料などがやりくりされているのだ。ゆっくりしている暇はない。何しろ遠くを見ればすでに奥様方は今か今かと待ち構えている。
待ち望んでいた食料、葉物野菜など足が早いものは今日、今、ここで買っていかねばならないのだ。それを楽しみにしている家族のため、皆時間を作ってあそこで待機しているのだろう。何もなさ過ぎて眺めているだけの健太郎とは違うのだ。
とりあえず、祖母の代わりに買い物しておこう、と健太郎は商店へと向かった。
目的は、足が早そうな生鮮食品と、この島では貴重な菓子パンである。この味が恋しくなってきた、と言うことは彼も立派な島の一員、かもしれない。
○
主婦たちとの壮絶な死闘、もとい買い物を終え、健太郎は大村海岸にいた。今日、三つの海岸を彼は見た。小港海岸、境浦海岸、大村海岸。そして以前、マイマイの案内で宮之浜海岸にも行っている。計四か所、いずれも美しい場所だとは思った。たぶん、他にも健太郎が知らないとても綺麗な海岸はあるのだろう。母島にも行っていないのだから。
だが、健太郎は思う。それら全てを見たとしても、自分にとって最も美しいと感じる景色はきっと、この場所なのではないか、と。
自然の美しさ、それを切り取ったような小港海岸や宮之浜の美しさは都会では得難いものである。境浦の遺物と自然の調和も筆舌に尽くしがたい。
それでも大村海岸の、人と自然が入り乱れた当たり前の風景が、健太郎にはたまらなく感じてしまうのだ。色んな人がいて、近くには町があって、商店があって、昼休みにはちょいと海にでも入ろうか、と気楽にやってこられるこの場所が――
ありのままの島を映し出すこの場所こそが、一番美しいのだと彼は思った。
「よし、帰ろっと」
今日は祖母のおかげで、全力で緩めることが出来た。これ以上なく、緩み切った。だからこそすっと入り込んできた景色がある。物語がある。
見つめることが出来た景色がある。
島の匂いを思いっきり吸い込んで、自分の中に島を満たして、健太郎は家路につく。今日、ようやく、島の『あたりまえ』が体に馴染んだ気がした。
○
「……ストップ。健太郎、今のワンフレーズ、何を考えていた」
ミッチが演奏を止め、健太郎に問う。
「え、と、波が寄せては返して、みたいな感じをイメージした、と思います」
他二人の驚いた表情からは、今のが良かったのか悪かったのか判断はつかない。健太郎自身としても少し適当過ぎたかな、と思わなくもなかった。
「悪くない。繋げ方は良くなかったが、今のフレーズは良かった」
「ありがとうございます」
ふにゃりとした笑みに、ミッチは毒気を抜かれたような顔になる。昨日までは張り詰めきった顔をしていたのに、今日になってかなり力が抜けた様子。
いつもならしないミスをする代わりに、いつもなら絶対出てこなかった一面が少しずつ顔を出し始めていた。ミッチは苦笑するしかない。正直、今回の一件が彼にとってプラスに働くかはわからなかった。自由に潰される可能性もあったから。
だが、ジャズに適応し始めた彼を見て思う。
そんな心配、杞憂でしかなかった、と。
(そりゃまあ、あの節子先生の孫だ。心配なんぞ野暮だわな)
元々の地力がこの場では桁違いなのだ。適応すれば、繋がり始めれば、早い。
「あれ、今日みんな調子悪い?」
「み、ミスしたくせに生意気な」
「そーだそーだ!」
ニートのくせに生意気な、と二人から噛みつかれる健太郎。それをよそにミッチは何とか形には出来そうだ、と安堵する。あとは、舞台を用意してあげるだけ。
彼にとって、彼女たちにとって、最高の舞台を――
ミッチは「休憩だ」と言って防音室の外に出る。向かう先は、
「節子先生、お願いがあります」
この家の家主であり、ミッチの師である青柳節子。
「おや、改まってなんですか?」
「綾子ちゃんの連絡先をください。それと、本番、サポートをお願いしたいんです」
「高校生だけでやるからこそ、意味があるのだと思いますけどね」
「いっぱしの環境を用意してやりたいんです、あの子たちには。ベースの音が必要です。あればきっと、彼らは最高の体験が出来る」
「そうですねえ」
節子は苦笑しながら、口を開いた。
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