海のアクティビティ
ジャズフェスティバルの本番まであとわずか。練習も煮詰まってきて、かなり形になって来た。ミッチの教え方が良かったのか、皆の飲み込みが早いのか、とにかく日増しに三人ともジャズになりつつあった。とはいえまだまだ納得は出来ていない。
今は一分一秒を争う時期である。
それなのに――
「何故だ」
青柳健太郎たちは今、大海原のど真ん中にいた。
その理由を彼らは知らない。知らないけどとにかく事実として彼らは海の上に浮かぶ船の上に立っていた。ちなみにその船は漁船であり、船長は海老原父である。
ちなみにこうなった経緯は、あまりにも毎日熱中し過ぎており心配になった七海、海老原家の親がミッチに相談、青柳節子も交え三家族とミッチで話し合いの場が設けられた。そして、節子の鶴の一声で彼らは海に放り出されることになったのだ。
一応、息抜きの一環なのだが――
「おう、テメエが健太郎か。よろしくなァ」
「ど、どうも」
「娘に手ェ出してねえよなァ。ただのお友達だよなァ」
何故か初っ端から喧嘩腰の海老原父(年配者からは通称エビゾー)に睨まれ委縮する健太郎に、それを見て父に手を上げる初音、手を上げられてから何故かより敵意が増した海老原父、さらに委縮する健太郎、何も理解せず海を楽しむマイマイ、現在こんな構図である。
「って言うか、何で親父が船出してんの? 漁でも付き合わされんの?」
「馬鹿言え。漁にお前らみたいなへなちょこ連れて行くか。今日はあれだ、暇だったんで特別にこいつをツアー船にだなぁ」
「ハァ⁉ どういうこと⁉」
「う、うるせえなぁ。とにかくお前らはアクティビティを楽しめばいいんだよ」
「漁協とかにちゃんと言った? 役場には?」
「子どもがいらんこと考えるな。何年この島で漁師やってると思ってんだ。そんなもん、全部力業でねじ伏せて船出してるに決まってんだろ」
「ち、力業って」
「とにかく、今日は完全にオフだ。ミッチさんからも練習は無し、全力で楽しんでくるようにって言伝を預かっている。オンオフは切り替えろ。抜く時は抜け」
「そ、それは」
「んじゃ、兄島海中公園に向かうぞ」
「ほ、本当にツアーやるの⁉」
海老原父操船の下、突如始まった父島名物海のツアー。果たしてこれに何の意味があるのか、本番まで時間が僅かだと言うのにするべきことなのだろうか、初音は悶々とした考えを浮かべていた。もうすでに切り替えてウキウキと健太郎にシュノーケルなどを装備させてあげるマイマイに苛立ちすら浮かべていた。
こんな場合ではない。そんな張り詰めた心は――
「ひゃっほーい」
海に飛び込んだ瞬間、消えた。
誰よりも文句を垂れていたのに、三人の中で誰よりも早く、勢いよく海に飛び込んだ海老原初音。巨大な水しぶきと共に、彼女は海の中に消えた。
続いてマイマイもくるくる回転しながら飛び降りる。二人とも健太郎のように重装備ではなく、足ヒレすらつけずに素潜りする。
これが島っ子か、と戦慄する健太郎。
あるものすべて装備した健太郎は意を決して海に飛び込む。彼は別に泳げないわけではない。幼少期は突き落とされたがため溺れてしまったが、プールでなら二五メートルぐらいは泳げるし、平泳ぎであればもう少し長く泳ぐくらいは出来るのだ。
まあ、水中を自在に泳ぎ回る彼女たちを見ると、とてもではないが自分も泳げるとは言えなくなってしまうのだが。
それにしても――
(すごいな、これは)
海中公園、と言うだけあって、そこには大小さまざまな魚たちが縦横無尽に泳いでいる。驚くべきはその水質、五メートル、八メートルぐらいの深さがあるにもかかわらず、底にある珊瑚までくっきり見えるのだ。水族館の水よりも澄んでいるのではないかと思うほどに。
海に浮かんで海面を覗くだけで、泳げずともキラキラした世界が見える。
大きな魚が触れられそうなほど近くを横切る。小さな魚が群れを成して珊瑚の間をするすると泳いでいく。何とも優雅で、言葉にできないほど美しい風景。
それに――
(綺麗だなぁ)
人魚のように水中を舞う二人を見ていると胸がドキドキしてしまう。彼女たちにとって今健太郎がしている装備など重荷でしかないのだろう。同じ人間とは思えない。魚の一種なのではないか、などとわけのわからないことばかりが浮かんでくる。
美人ではあると思っていたし、整っている顔立ちだとも思っていた。でも、綺麗だな、と思ったのは、たぶん今日が初めて――いや、赤灯台で見たマイマイの背中を含めれば、今日で二度目、か。幻想的な風景に、彼女たちはよく映える。
そんなことばかりを考えていた。
○
「いやー、泳いだ泳いだ。久しぶりに泳いだわー」
「あたしもー。意外と泳がないんだよねえ。昔はいっつも泳いでいたのに」
「確かに。高校生になってからは初めてかも」
それであれだけ泳げるのだから、小さな頃からの積み重ねって凄いなぁと健太郎は思う。ちなみに、彼女たちを綺麗だ、などとは口が裂けても言えない。それだけ軟派な性格ならば、人生の中で彼女の一人でも出来ているはずである。
彼女どころか友人も数えるほど――
哀しいかな、ここで素直になれないのが非モテ男のサガである。
「健太郎は終始浮き輪付きだったねえ」
「浮き輪じゃなくて救命胴衣だい」
「折角海に沈めてやろうと思ったのに……にっしっし」
「あ、謝れ! 昔の僕に謝れ!」
「?」
いつもの如く健太郎と初音が口論をして、マイマイが疑問符を浮かべる構図。それを横目に海老原父はあの小僧、海の藻屑にしてやろうか、などと考えていた。
娘を立ち直らせてくれた恩はあれど、それとこれとは別の話。娘の貞操は絶対に死守する。その強い意志が海老原父の目には宿っていた。
「次は、ドルフィンスイムするぞ。マイマイ、その辺に双眼鏡あるから海見てくれ」
「ラジャ!」
マイマイは双眼鏡を片手に船の舳先に立つ。
「……何をしてるの?」
「イルカ探してるんでしょ。ドルフィンスイムやるってんだから」
「海見てわかるものなの?」
「まあ、飛び跳ねたりするし……私はよくわかんないけど、マイマイは海のガイドもやる気なんでしょ、おじさんみたいに。だからまあ、練習も兼ねてるんじゃない」
「へえ、海のガイドとかもあるんだ」
「むしろ花形じゃん。あんた本当に小笠原のこと興味ないのね」
「……そ、そんなことないよ。今は凄い興味あるし」
「ふーん、じゃあさ、こっちに住めば?」
「ぶっ⁉」
「なになに、健太郎転校するって⁉」
彼女的最重要案件を聞きつけて、舳先からマイマイが飛び込んでくる。
「ほら、愛しのマイマイが求めていますよ、健太郎君」
「ちゃ、茶化すなよ。って言うか、僕この前あんな姿見られているんだけど」
「「あっ」」
現在、マイマイたちのクラスでは健太郎は珍獣のような扱いとなっていた。同じ高校生だと判明したことで、本来休みですらない状況であのニート極まった立ち居振る舞いをしていた、と同世代からは畏怖の視線が向けられていたのだ。
まあ、ある意味キャラが立ったとも言えなくはないが――
「それに、ちょっと考えていることもあるんだ。学校には戻るよ。間に合う内にね」
それはつまり、近い内に健太郎がこの島からいなくなることを示していた。
「う、うう、小笠原、嫌いになっちゃった? やっぱり、やることないから? 菓子パンが沢山食べられないから?」
マイマイ、泣く。
「い、いや、嫌いになってないよ。むしろ、逆と言うか、その、何て言うかな」
口ごもる健太郎を見て、マイマイの泣き顔がさらに崩れる。
「いつか、ここに胸を張って戻ってくるために、行こうと思うんだ」
二人は健太郎の言葉に目を見張る。
「好きになったよ。僕も、この島が」
以前の自分ならば思っていても口には出せなかったこと。今は、するりと口に出すことが出来る。閉じていた何かが、開かれているような感じ。
この島での生活が自分を変えた。
「だからこそ、ちゃんと勉強したいんだ。ミッチさんに教えてもらって、ジャンル問わずプロって凄いんだな、って再認識できた。技術的な部分もそうだし、概念的な部分、言語化し辛い所でも自分の考えが、芯がある。僕はまだ、それを持っていない」
母のように世界中を飛び回り喝采を浴びる綺羅星になる想像は出来ない。でも、音楽に限らずどんなジャンルであっても方向性は一つではないのだ。自分も言葉ではわかっていても、心のどこかでプロと言う存在を母と同一視していた。
だから苦しかったし、諦めかけていた。全部放り出そうと思っていた。
「それを手に入れてから、僕はこの島に……帰ってこようと思う」
だけど、視野を広げて、周囲を見て、営みを見て、様々な風景を見つめ、そうじゃないだろう。どんな仕事だって大変で、みんな汗水たらして働いている。諦めたからって楽になれるわけじゃない。生きていくのは大変で、繋がり続けるのはもっと大変だと、心で理解できた。
今の自分に何が出来るか。明日の自分に何が出来るか。
「そっかぁ。それは、うれしいねえ」
健太郎の胸の内を聞いて、マイマイはとても嬉しそうに笑ってくれた。
「帰ってくる、ね。都会人のくせに生意気な」
憎まれ口を叩く初音もまた、少しだけ頬が緩んでいた。
「あはは、都会人は輩以外、地べたに座ってアイスを頬張ったりしないよ」
「じゃ、輩なんでしょ」
「なんだと⁉」
「やるかぁ」
せっかくいい雰囲気になったのに、結局睨み合う健太郎と初音。
それを見てマイマイはにっこり「仲良しさんだね」と笑っていた。
「イルカ出たぞォ! 見張りからの連絡はなかったけどなァ!」
「しまった⁉」
職務放棄をしてしまっていたことを思い出し、マイマイは脂汗を流す。
「構やしねえけど、ハシナガイルカの群れが下に来る。急げよォ」
「「急げ」」
「え?」
一人だけ急ぐ理由がわからずにおたおたする健太郎。
「説明は後だよ」
「はい、浮き輪外して。腕上げて、はいあんよが上手」
急かすマイマイ、おもむろに健太郎の救命胴衣を外す初音、頭の中が疑問符まみれの健太郎、まあどうあっても、あまりいい予感はしなかったのだが――
「「じゃ、行くよ」」
「ちょ、まっ――」
浮くための装備を外され、そのまま連行されている宇宙人が如く両手に花、両肩をがっちりつかまれたまま、勢いよく海に向かって飛び込まされた。
あまりの危険行為にこれだから島の人間は、と憤慨する健太郎はまだまだ島に適応し切ってはいなかった模様。
飛び込み慣れし過ぎなんだよ、と恐怖で胸が一杯であった。
「…………」
ちょんちょん、と海で藻掻く健太郎の肩にマイマイの指先が触れる。そちらに視線を向けるとニコニコ微笑みながら、彼女は指を下の方へ向けた。
健太郎は、ゆっくりと下を見る。
(あっ)
そこにはイルカの群れがいた。
海の中を優雅に泳ぐ姿は、どこか神秘的でエネルギッシュな絵に見える。彼らは人の存在など意に介すことなく、するすると海中を進む。
だけど、健太郎の目を奪ったのは、イルカの存在だけではなかった。それは、海である。十メートルほど下にイルカの群れがくっきり見えるのに、下がまるで見えない紺碧の深淵。深い青色、そこには何か魔性のようなものがあった。力が抜ける。
すぅ、っと吸い込まれてしまいそうな――
「…………」
その時、肩をぎゅっと掴まれる感触があった。力強く、こちら側へ引き戻してくれるような感覚。そちらに目を向けると、ニヤニヤ笑う初音の姿があった。
二人に支えられ、海の中に漂う。一人だけでは吸い込まれそうな魔性も、隣に二人がいるのであれば怖くはない。健太郎はゆっくり手を伸ばす。過ぎ去っていくイルカの群れと底知れぬ海の魔力に、こんにちは、またね、と語り掛けるかのように。
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